Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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【#朝鮮日報】【コラム】腹話術師の時代

 石窟庵に関する私の知識と言えば、世界文化遺産であるという事実と、日本がセメントを塗ってメチャクチャにしたという俗説を知っている程度だった。そうした時、朝鮮末期の石窟庵の姿を冊子で見て、頭の中が混乱してしまった。それは荒れ果てた城の跡と同じくらい崩れた入口や積み重なった石の廃虚だった。

 石窟庵に関する本や論文を読んで、次のような事実を知った。まず、『三国遺事』(13世紀末の史書)から朝鮮時代後期まで400年間にわたり、我が国の記録に石窟庵は登場しないことだ。石窟庵を文化遺産だと考えていなかったのだろう。第二に、石窟庵を発見し近代的に復元したのは日本だったことだ。ここで言う日本とは、朝鮮を支配した統監府と総督府のことだ。第三に、石窟庵を世界の名作だと評価し、近代文化遺産に高めたのは日本人であるということだ。今日の我々の石窟庵に対する認識は、日本の美術史学者・柳宗悦(やなぎ むねよし)の評価「永遠なる傑作」から抜け出せていない。1907年から1919年までの間に起こったことだ。

 「近代」は「現代」以前の昔のことではない。今、我々がしている服装やコミュニケーションを取っている言語、知識を伝える教育、生活を拘束する法律、ひいては美的感覚の体系も近代の枠組みの中にある。すべて「モダン(modern・近現代)に」生きているということだ。だが、人々はみな、我々が完成させた近代を、日本が国権を強奪して前近代に戻したと考えている。これに異議を唱えた瞬間、「植民地近代化論か」と攻撃される。近代性と植民地性に対する混同は韓国近代史の永遠の足かせであり、わなだろう。

 金哲(キム・チョル)延世大学名誉教授が書いた本『腹話術師たち』(日本語タイトル『植民地の腹話術師たち 朝鮮の近代小説を読む』)は文学と言語の観点から韓国の近代の複雑さを教えてくれる。次は1917年に連載を開始した小説家・李光洙(イ・グァンス)の記念碑的作品『無情』の会話の一部だ。「ヨウ。オメデトウ。イイナズケガいるようだな。ウム。ナルホド」(訳注:カタカナ書き部分は日本語をハングル表記したもの。ひらがな書き部分は韓国語)。純ハングル小説だが、日本語が入り混じった韓国人の主人公たちの会話だけはありのまま反映させている。国権喪失7年で朝鮮の言語がひどく汚染されていると見るべきなのか。金哲教授はこう説明する。「近代語文に刻まれている植民地性ではなく、近代韓国語が作られる過程だ。純粋で完結した形の言語というものは、ほかのすべての言語がそうであるように、存在しない」。

 政治家の尹致昊(ユン・チホ)は歴史上の名声と同じくらい「日記王」としても有名だ。1883年から1943年までの60年間、ほぼ毎日日記を書いた。漢文で4年、ハングルで2年、それ以降は英語で書いた。ハングルを放棄して、英語で書き始めた1887年のある日、彼はその理由を次の通り記録した。「...its vocabulary is not as yet rich enough to express all what I want to say.」 韓国語は語彙が豊富ではなく、言いたいことをすべて表現するのは難しいという意味だ。尹致昊と李光洙の事例は、言語の面で韓国の近代は既に完成されていたわけではなく、完成されていたものを誰かが完全に破壊したわけでもないことを物語っている。

 韓国の文化遺産を近代の視線で評価できる朝鮮人の美術史学者は、日本帝国強占期の半ばを過ぎたころから輩出され始めた。解放後、韓国美術史研究を新たな次元に高めた高裕ソプ(コ・ユソプ)が最初だ。彼は1920年代に京城帝国大学法文学部で哲学と美学を専攻した際、東京帝国大学出身で日本の美学の主流を継承した上野直昭に師事した。高裕ソプのような朝鮮の人材が京城帝国大学から1000人近く輩出された。彼らは韓国現代史の主役になった。大韓帝国がそれだけの近代的な人材を輩出していたら、石窟庵は韓国人によって発見されただろうし、国も滅びなかっただろう。

 小説家・金東仁(キム・ドンイン)は「構想は日本語でするが、書くのは朝鮮の文字で書いた」と言った。『弱き者の悲しみ』を書いた1919年ごろの回顧だ。帝国主義時代の日本が韓国の文化遺産を近代の基準で評価している時、韓国の知識人は自分の内面にあまりにも速く浸潤してくる「日本の近代」に困惑していた。金哲教授は、この時代の韓国人のアイデンティティーを「腹話術師」という表現で象徴させる。「一口で二言話す者、二つの舌を持つ者たち」ということだ。

 金東仁が言語のアイデンティティーに苦悩していた1920年朝鮮日報は創刊された。編集局の大会議室の壁面全体に掲げられた歴代編集局長の写真のうち、日本帝国強占期の編集局長は10人いる。独立運動家・李商在(イ・サンジェ)をはじめ、廉想渉(ヨム・サンソプ)、朱耀翰(チュ・ヨハン)・李光洙など当代の作家たちが含まれている。「腹話術師たちの時代」に彼らは毎日、純潔なハングルを探し、ハングルで新聞を作り、ハングルを民衆に普及させる運動を展開した。今、我々は少なくとも「ヨウ。オメデトウ。イイナズケガいるようだな。ウム。ナルホド」とは言わない。おのずとそうならなくなった。その苦悩と情熱を考えながら創刊100周年を迎える。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)副局長兼社会部長