Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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日曜恒例異文化交流クイズ。今回は日本初の都市間対決となったゴルフの「神戸VS横浜」対決はどちらが勝利を収めたか、という問題でした。山勘問題で申し訳ありませんでしたm(_)m。この勝負を制したのは神戸でした。開催されたのが六甲山コース、ということで十分にホームアドバンテージを得た結果でしょうか?
さて、ここからは話が少々横道に逸れますが、両市の外国人街の雑感などを。両市ともほぼ零から始まった都市ということで、都市計画は基本的に直線道路を碁盤目状に引くというスタイルとなっています。横浜の場合、当初は出島形式に近い格好にする計画があったようですが、あっという間に最初に解放された居留地分は一杯となり、なし崩しに拡張されていきます。雑話ですが、居留地の住所は売りに出された順に付けられたため「36番の隣が125番で、更にその隣が74番で」という事態となり、郵便物がマトモに届かない、という困った事態が起きたことが記録に残っています。偶に住所地だけで当時その建物が何処に建っていたのか調べようとすると、エライ面倒臭いことになります(中心の一部だけですが当時の番地を振った地図が手元にありますので)。少なくとも大正時代くらいまではそのままだった筈ですが、流石に現在は治っているのかな? 神戸の方も基本は碁盤目状ですが、地形的事情から横浜ほどは整然とした作りにはなっていませんね。
さて、当初日本にやってきた外国人達は海岸近くに居を構えています。居留地がそう指定されていたこともありますが、万が一の時に船で逃げ出せるように、という側面もあったのかと。一方、山の手側は軍隊の居留地となっていました。横浜の「港の見える丘公園」はまさにそうですね。当初はそのような棲み分けが出来ていたわけですが、年月が経るにつれて横浜も神戸も、外国人達は山の手側に居を移していきます。山の手側の方が景色が良かった、という側面もあるのでしょうが、徐々に日本人社会との距離を取る方向に向かっていったようですね。実際、旅行者を除く長期滞在の外国人達の、日本での滞在記録は圧倒的に明治前半ばかりが目立ち、大正期のもので現在出版されているものは、自分の知る限り、以前紹介したセオダテ・ジョフリー女史の記録くらいしかありません(彼女は本牧に居を構えていたのですが、大正に入っても日本人でさえそんなに住んでいなかったド田舎だった模様)。
この頃になると、やってくる外国人は亡命者や本国で破産した者・鼻つまみ者として一族から追放された者が目立ちだし、日本人の召使いたちも明治の初期の頃とさほど変わらぬ薄給でこき使われる為、大概の人間はすぐに逃げだし、その結果、犯罪者たちが一種のギルドを作り、外国人宅に召使いを派遣するようになります(当然犯罪者)。当然その結果トラブルが発生し「召使いを信用せず酷使→反発して行きがけの駄賃に屋敷から金目のものを持ち出して逃亡→召使いを信用せず酷使」という悪循環スパイラル。結局溝が埋められぬまま、第二次大戦に突入……というのが大雑把な流れだったりします。
そんな中、横浜だろうが、神戸だろうが、結局「町の中心から、僅かだけ離れたところ」に平然と住み続けたのは中国人達。適応力が凄いのか、神経が図太いのか、はてどらちでしょう?(苦笑) もっともそんな中心部に住みながらも、日本人との接触はさほどなかった模様(但し、これは何処の国の中国人街でも同じ事が云えるようですが)。あと現在は中国人街=中華料理屋、という図式がありすが、当初はそうでもなかったらしく、明治11年頃には横浜に中国人は既に三千人はいたようですが、中華料理の店は僅か2件だけだったとか。いずれにせよ、現在想像する中華街とはかなり差異があった模様ですね。
すいません、とりとめもなく長くなりましたので、本日のところはこの辺で。