Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

オリジナルの歴史伝奇小説から出題中の「異文化交流クイズ」外伝シーズン第11回の問題は、来日した外国人達――ロシア人も、イギリス人も、ドイツ人も――は、日本人に世界地図を見せた際の反応を書き記していますが「日本が如何に小さいか」を知った日本人の反応で最も多かったのは、どんな反応だったでしょうか? という問題でした。
今回は問題の出し方がアバウトでしたので、正解者なしという結果に。出題の仕方に問題があったのかと反省してます orz。で、今回の正解は、と云いますと
『日本が如何に小さいかを知って、人の好い笑いを立てた』『日本の諸島が消えて見えないくらいの小さいのには心から笑った』ということで『笑う』でした。
坂本龍馬勝海舟邸で地球儀を見て、日本の小ささを思い知り、劇的に政治思考を転換した」と云うのは有名な「伝説」ですが(←実はこれ以前に龍馬は地球儀を見たことがある筈なので、後世の創作だと考えられていますが)、当時の日本人達にとって、日本が世界の中に置けば豆粒のように小さいと云うことは、劣等感を誘うことでも、逆にそれがどうしたと肩を聳やかすことでもなく、それはひたすら「おかしみ」を誘う事実だった、ということは、要するに幕末当時の日本人達に既に「世界の中での自己客観視」が出来ていた、ということであって、これは従来の江戸時代人の「鎖国による閉鎖的な思考」というイメージとは懸け離れた物である、と云えるでしょう。
もっとも明治以降となると、自己客観視し過ぎた結果なのか、少々歪んだ劣等感と化していってしまうわけですが。。。
さて、それはさておき、この外伝シリーズの物語も、遂に怒濤のクライマックスに。少々(かなりw)トンデモ理論が入ってきてますが、ゼルファ達と相対することになるシンイチ君の「真の目的」だけは注目して頂けると幸いですm(_)m。
では最終章後半をどうぞ。なお、次回はエピローグからの出題です。


3.
「歴史とは水面に現れた無数の泡の織りなす万華鏡。
だけど、水面下では更に無数の要素が絡み合い、結合し、常に全く新たな模様を生み出そうとしている。フランス人ならばこんなことを考えたことがあるでしょう? スペイン継承戦争太陽王ルイ一四世率いるフランス・スペイン連合軍に対してハーグ同盟が結成されなかったならば? ナポレオンがトラファルガー海戦でネルソン提督を破り、イギリスをも支配下に入れていたならば? パリコミューンがヨーロッパ列強の干渉に耐え、もう少し長期にわたり成立していたならば? 
そう、それは実現こそしなかったものの、いま我々が生きる時代を根本から揺り動かしうる歴史の巨大な可能性。水面に現れた歴史は、真実のほんの断面でしかない。
だから人は夢想の誘惑に駆りたてられる、歴史に現れぬもう一つの“if”の歴史の誘惑を」
カションには私が何故何の脈絡もない話を延々と語り続けるのか、理解できないらしい。僅かばかり精気を取り戻したものの、当惑した表情で立ち竦んでいる。
当然だ。唐突にこんな話を切り出され、すぐに理解できるわけがない。
「この国の歴史で言えば、伊達政宗がスペインと提携し、この国の制圧を果たしたならば。ドーバー海戦で英国に敗れた斜陽のスペインとはいえ、まだ無敵艦隊は健在だった。正宗がこの国を制圧し、当時世界の産銀量の三分の一を占めていた日本との貿易が盛んとなれば、それは産銀地メキシコにも波及した可能性は極めて高かった。世界規模の銀本位貿易圏の成立によりスペインが財政難から脱却し、無敵艦隊の更なる整備へと資金が回されたならば、傾いた国力を立て直し、世界の盟主の地位を更に保ち続けることも可能だった筈。そうなれば間違いなく我が大英帝国産業革命による世界進出は大幅に遅れていた筈よ。何故なら当時の産業の根底で支え、成立させていたのはアフリカと新大陸を結ぶ奴隷貿易だったから。それを当時手にしていたのが圧倒的制海権を握っていたスペインだったから」
「……何の話だ? 一体何が言いたい?」
カションも私の話が次に展開する話の大前提となることを理解はしているようだ。
けれど、刻一刻重苦しい空気を帯電していく場の雰囲気に耐えきれなくなったらしい。低い声で話の核心を促す。
「無数の可能性を秘め紡ぎ出されていく歴史。だけど、時としてその可能性の中に“誘惑”が紛れ込む。Paxとはささやかな陰謀劇による歴史の改変という“誘惑”に駆られ、歴史の流れを歪めようとするもの狩る組織!」
カションの顔に朱が差し始める。それは普段通りの癇癪持ちで鼻持ちならぬフランス至上主義者の顔だ。
「結局貴様らの、イギリスの都合の良い歴史ではないか! 何が“真のPax”だ!」
「確かにそうかもしれない。いえ、きっと純客観的に見ればその通りなんでしょう」
その弾劾を私はあっさり肯定してみせる。虚を衝かれ、カションは沈黙する。
「Paxの表も裏もこれまで『大英帝国の繁栄』という一点で利害関係が一致してきた。それは否定しないし、太陽の沈まざる帝国の歯車に組み込まれたPaxの構成員達も表と裏の違いを考えもしなかったでしょうね。でもあの男が、禁忌を破ったことがPaxの混迷の始まり。アイツにはイギリス政府、そしてPaxからも抹殺司令が下っているわ」
「で、では尚更のことだ。一度は我々の手引きをしておきながら、何故に裏切った? 我らを“売る”ことによって元の鞘に収まろうとでもいうのか?」
至極真っ当なカションの見解に私は軽く首を左右に振って、否定の意を示す。
「だから、そういう考えでは絶対にあの男を、そしてPaxを理解することはできない。Paxとはあの男だから、そしてあの男こそPaxなのだから」
「要するに」
唐突に会話に割り込んできたその声は私の背後からあがった。
「クリストファー・バード氏の考えは唯我独尊であり、その行動は全て独断専行である。けれど、結果的にその行動がその真のPaxとやらに合致している、というわけですか?」
その的確な結論を下したのはシンイチだ。
もう私に驚きはなかった。忍耐の限界に達したのはむしろカションの方だった。
「もうよい! 貴様らの、英国人どもの話なぞに惑わされたのが今回の失敗の元凶だ!」
カションは絶叫しながら懐から銃を抜く。
私の脇を疾風のように駆け抜けたシンイチがその腕を跳ね上げた。
轟音を伴い撃ち出された銃弾は、玄室の天井で跳ねる。カションには己の死を認識できる暇も与えられなかった筈だ。
跳弾は更に床で跳ねると、カションの眉間に吸い込まれていった……。


後味の悪い決着だった。
私は限界まで吊り上がったままのカションの眼を閉じてやり、胸の所で手を組ませるようにしてから、十字を切った。
シンイチはもの言わぬカションの身体に、纏っていた羽織をごく自然な仕草で掛け、そのまま傍らに跪ずき、恭しく合掌を施した。
私には何故だかその仕草が……とても美しいものに見えた。
「茶番はここまでですね」
何事もなかったように立ち上がったシンイチは、今度は儀式めいた仕草で私に一礼を施す。
「ゼルファさん、如月を出して頂けますか?」
私はあっさり如月を手渡す。もうここまで来ればどうにでもなれという心境だ。見事な刃音をたてて如月が刀身から抜かれる。
「左手の親指を出して頂けますか? 残念ながらボクの血ではこの扉を開くことはできません。三日月様の血統と名を引き継がれた方の血でしかこの門は開かれないのです」
シンイチは巧みに如月の刃先を私の親指にあてると、軽く縦に剃るようにする。泡のように沸き立つ私の血を憑かれたように見つめていたシンイチは、如月の刀身を平らに寝かせ、私の指から流れ落ちる血の滴を刀身に垂らした。
傾けられた如月の刃紋に沿って鮮血が流れ落ちる。
やにわ、シンイチは手にした如月を、玄室正面の壁に描かれた義経の紋所と言われる笹竜胆の文様の中心の隙間に突きたてた。
そのまま如月を鍵のように捻り込むと、巨大な歯車の軋むような音が玄室内に反響する。玄室の壁が迫り上がり、奥からは通路が現れた。龍泉洞へと通じる通路と同じ仕掛けだ。
私は今更驚かない。
あの男の掌で踊らされているのは不本意極まりないけれど、確かにこの通路の先には『この世ならざるもの』が待ち受けている筈だ。
それが私の追い求めるものである可能性は極めて低いけれど、それでも私には最初から選択の余地なんてない。
深々と頭を下げたシンイチは鞘に収めた如月を恭しい態度で献上するように差し出す。
「長い旅となりましたが、これが今回の旅の真の終着点です」
いつもの飄々とした口調とは全く違う、ひどく生真面目な口調でシンイチは告げた。


4.
通路奥は巨大な花崗岩が立ち塞がる。だが、ゼルファが如月を一閃させるとチーズのように斬り裂かれた花崗岩の要石は鈍い音と共に、奥に向かって倒れていく。
土埃が収まると、通路の先からは……まばゆいばかりの光が漏れ溢れてきた。
通路奥の真の玄室、一〇〇フィート四方はあるそこはマルコ・ポーロが「東方見聞録」で書き記した通り、黄金の地下宮殿の様相を呈していた。全てが黄金作りの玄室の奥は更に一段高くなっている。黄金の磐境の最奥に据え付けられているのは、翡翠琥珀、瑪瑙など、色とりどりの宝玉が埋め込まれた眩いばかりの黄金の玉座だ。
「素晴らしい! これなら闘える、これだけの資金があれば世界と闘える!」
弾んだ声で云うシンイチの瞳にひどく真面目で、ひどく思い詰めた光を読みとったゼルファは、そっけなく言い捨てる。
「……Sin、ここの事は忘れなさい」
「何故です?」
返答は短いが、口調には断固とした意志が読みとれた。
大きな溜息を吐き出してから、ゼルファは疲れたような足取りで宮殿の一段高くなった黄金の磐境へと登る。そのままマリオネットめいた仕草で、黄金の玉座に深々とその身を沈めると、噛んで含めるようにシンイチに言い聞かせる。
「さっきカションに言ったのと同じ理由よ。これはいまという時にあっては“歴史を歪める誘惑”でしかない。正しい歴史を歪め、世界の均衡を崩すためのものでしかない。これはPaxが狩るべき異形の歴史。我々の歴史に介入してきた“この世なるざるもの”。
そう、信じられぬ斬れ味を秘め、血により一族を判別するこの如月同様にね」
ゼルファの声は醒めていて、それでいて悲しみに彩られている。
「東方見聞録の作者が『マルコ・ポーロ』だということは誰でも知っている。でも実は『マルコ・ポーロ』という男の実在は確認できていないのよ。いえ、はっきり言いましょう。あの本は何者かが『マルコ・ポーロ』という名を借りて意図的に生み出した本なのよ」


マルコ・ポーロという名のイタリア人が同時代に実在していたことだけは確かだ。
しかしベネチア公文書館に残された「遺産文書」の主マルコ・ポーロと「百万の書」、通称「東方見聞録」の作者マルコ・ポーロが同一人物である保証はどこにもない。
荒唐無稽な記述も少なからずある『東方見聞録』だが、こと大元帝国の内部事情に関しては異様なほどの正確さで綴られている。中には数百年後、複数の文献の解析によりようやくその存在の確認がとれた大モンゴル帝国皇帝フビライ・ハーン直属の秘密特殊部隊。その指揮官の名さえ無造作に書き連ねられている。この書物に描かれた内容を「原体験」した者がフビライの相当身近な人物であったことの証拠だ。
そして一大の奇書のクライマックスを飾るエピソード。皇帝フビライの直接の命で、モンゴル公女をイランの地に送り届けるその旅程についての記述は随行員の数や名前に至るまで、微に入り、賽を穿つ。
この記述の裏付けは「集史」の事実上の続編に当たる「ヴァッサーフ史」によりなされている。
そう、ただ一点の不自然さを除けば東方見聞録はモンゴル帝国の優れた内部資料なのだ。しかし……
「不自然なことに、モンゴルの正史はおろか、当時書かれた漢籍史料、ペルシア語史料、アラビア語史料、どこを探してもその男の名前はない。十年以上もフビライの王宮に仕え、重要任務である公女の随行員を任じられた『マルコ・ポーロ』という男の名前が現れることはないのよ」
「書物は書かれた内容の真偽が全てではないですか! 事実、その記述通り“遺産”は発掘されたのだから! だいたい、それと今のこの状況とに何の関わりが!?」
 興奮で顔を紅潮させた少年に、ゼルファは畳みかけるように問いを繰り出す。
「じゃあ、逆に訊くわ。本当にこの黄金宮殿が存在していてもいいと思う? 歴史の徒花として咲いた奥州藤原氏が再建のために莫大な黄金を残し、それを託されたのが若くして悲劇的最期を遂げた筈の英雄源義経。そしてその黄金は曰くありげな預言とともに、未開の地に残された。その黄金の伝説は一冊の書物により世界中へ広まり、遂には世界の運命さえをも変えてしまった。これが“正しい歴史”だと、後世の人間に胸を張って言える?」
「過去は過去でしかない! 過ぎ去った時は二度と戻らない。重要なのは今! 私たちが相対している現実こそ全てではないですか!」
シンイチは攻撃的表情で反論するが、それが虚勢に過ぎないことをゼルファは看破している。シンイチ自身、まるで何者かの用意した模範解答をなぞっているような奇妙な感覚の中にいることを自覚していた証拠だ。
「現在は過去の結果でしかないのと同時に、不変と思われる過去ですら確定したものではないのよ。我々Paxの監視対象とは、事象から導き出された結果だけではなく、結果から遡って構築される事象。それは過去の一点に対する認識が揺れ動くという次元じゃない。Paxが相対する“歴史を歪める誘惑”は時として過去に遡ってさえ現れる。その誘惑に駆られ、現在から遡り再構築された過去は、現在へと逆襲を開始する……。
この地に黄金の半分を埋蔵した義経はどこに行ったの? 義経が渡ったというクルムセの国とは一体何処? 
ホンカン様は黄金の鷲を追ってクルムセの国へ行った』
確かにこの文句だけならば世界各地に残る神話・口承の類と何ら異なるところはないわ。神話を信じてトロイアを発掘したのはシュリーマンだけど、それは神話と歴史が混在していた時代だからこそ。
でも、ここは違う。神話が歴史への侵食を始めている。英雄不死伝説。幻の北方逃避ルート。逃走先に残された莫大な黄金と渡海伝説。その英雄が竜の列島の歴史から姿を消したのと入れ替わるように現れたモンゴル高原の英雄。そしてその大陸の英雄が築き上げた史上最大の大帝国に秘事として語り継がれた黄金伝説。
その真偽はともかく、そこから導きだされた“誘惑”は歴史の行く末を歪め、六百年の時を経た今もなお無数の悲喜劇を生み出し続けている。
ことここに至っては、それは既に“誘惑”という次元ではないわ。それはまさに“悪意”! 歴史への冒涜そのものよ! 
Paxの真の目的とは、歴史を歪める悪意を放つ“この世ならざる物”を狩り、それを下界へと投げ込み、それを巡り蠢く人間の悲喜劇を見てほくそ笑んでいる“この世ならざる者”を表舞台に引きずりだし、始末すること。
我々はその狩るべき“この世ならざるモノ”を総称して“Lost”と呼んでいる。別の次元からの遺失物、“今という時代に存在していてはならぬモノ”という意味を籠めてね。
Sin、そこにアンタみたいな子供の入り込む余地なんてどこにもないのよ」
「……そんな出来の悪い“お伽噺”をボクに信じろと?」
シンイチは精一杯虚勢を張るが、その背後には一歩後退すれば奈落の底まで落ちていきかねない暗闇が顔を覗かせている。
「私の話が“お伽噺”というのなら、この黄金宮殿は蜃気楼そのものよ。Sin、もう一度だけ言うわ。生きてここを出たかったら、今ここで見たことを全て忘れなさい」
俯き、そして唇を噛み破らんばかりに強く歯を喰いしばりシンイチは耐える。そこにいるのはさながら殉教者だ。己の信念、そして目的を実現させるために勝ち目のない絶望的な闘いに挑む宿命を背負った者の姿だ。
「……無理ですね」
押し殺すようでいて、絶対に退かぬという強靱な意志がそこにはある。「ボクにはできない! 少なくともこの国を侵略しようとする諸外国と、貴女がたのような世界支配を目論む悪の秘密結社にだけはこの黄金を渡すわけにはいかないんです、例えこの命と引き替えにしても!」
如何なる感情の色も映していなかったゼルファの瞳に、ポツリと一筋の灯火がつく。
「世界支配を目論む悪の秘密結社、ね。なるほど、見方さえ変えれば確かにその通りね」
ゼルファは笑い出す。
それは心の奥底まで枯れ果ててしまった笑い。それを己への侮蔑と感じたのだろう。シンイチは幾ばくか精気を取り戻し、ゼルファの言葉の矛盾を突く。
「そもそもおかしいじゃありませんか! それほどまで“この世ならざる物”を危険視するならば何故そこまで如月にこだわるのです? 如月が本当に貴女がたが狩るべき“Lost”だとするならば、何故入手した時点で封印しないのです?」
己の全存在を賭けて挑むようなシンイチの姿を映すゼルファの緑色の瞳。そこにはもう何の色も浮かんでいない。
「……流石ね、よく気付いたわ」
言葉とは裏腹に、ゼルファの口調は素っ気ない。
「我がPaxの最優先事項は“Lost”の封印。でも私は如月を手放すつもりはないわ。何故なら私にはその“この世ならざるモノ”が必要だから。
そう、この世ならざるモノはこの世ならざるモノを呼ぶ。
私には最初から選択の余地なんてないのよ。このままだと……あの娘は、そう長くは持たない。……あの娘の、アイリーンの病を治すためには、どうしてもこの世ならざる物が必要なのよ……」
「病気? アイリーンさんが? それこそ出来の悪い冗談ですよ」
幾分かいつもの調子を取り戻したシンイチが呆れたように云う。
元気が固体化したようなあの少女が死に至る病に冒されているなどという話は、彼女を知る者にとって確かに到底信じられる話ではない。
「信じようが信じまいがアンタの自由。ただ、これだけは事実よ。医師から匙を投げられ、風前の灯火だったアイリーンの命を救ったのは、お母様の葬儀の翌日現れたあの男の持ってきた薬。その薬はあの娘を死の淵から救い上げた……」
相変わらず淡々と、それでいて己に言い聞かせるようにゼルファは口を動かし続ける。
「だけど、その薬は激烈な副作用を伴った。
あの娘が激しい感情の起伏を見せると、その身体はあらゆる制御を受け付けなくなってしまう。そして制御を失った身体は、こと短期間ならば常人では信じられぬ能力を発現させる。これはアンタもこの旅で何度か目にしている筈よ。そう、あの男の持ってきた薬もPaxが封印してきた“Lost”の一つだった。
しかし、一度制御を離れた身体は劇的な反作用ももたらした。能力発現後に襲いかかる原因不明の発熱と身体の関節の灼けつくような痛み。能力を使うたびにあの娘に現れる後遺症は激しくなっていく。そしてあの娘自身もそれに気付いているのに、その感情の起伏を抑えないし、抑えようともしない。
何故ならあの娘は……その“この世ならざる力”を“正しいことを為すための力”だと信じて疑わないから。この世に絶対的な正義なんてある筈がないのにね……」
肺腑の底から絞り出すかのように云ったゼルファは、黄金の玉座から立ち上がる。
「それが貴女が意にそぐわぬにもかかわらず、Paxに属する理由ですか。半死人さえ蘇らせる薬があるとすれば、その副作用を止める薬もあるのではないか、と。
なるほど、先程の荒唐無稽な話に較べれば、まだ幾ばくかは説得力があるお話ですね。でも……」
少年の言葉から脅え、震え、そして迷いがピタリと消えていた。袴の下から短い木刀を取り出すと、ゼルファの真正面に相対する。刹那、少年の身体から凄まじい闘気が立ちのぼる。
「僕は目に見えるものしか信じないし、自分の手で掴み取れるものしか信じません。選択の余地がないのはボクも同じなんですよ。それに……貴女がたの父上との契約もありますしね」
それがかつてのマスターに対する、少年の決別だった。
「……交渉決裂、ね」


5.
凄まじい剣圧が私に向かって解き放たれる。恐るべき重さと迅さを秘めた剣だ。
辛うじて剣圧の中心と思しき方向へ、如月を突き出す。次の瞬間、私は派手に弾き飛ばされ、黄金の床を転がっていた。手にしているのが如月でなければ刀ごと両断されてしまっているだろう。如月を手放さなかっただけ上出来といえた。
二撃、三撃。態勢を整え直そうとする私に容赦ない攻撃が浴びせかけられる。攻撃自体は糞真面目なほどの正攻法だけれど逆襲に転ずる隙が全くない。
盾にすべく廻り込んだ黄金の玉座が弾き飛ばされ、飾り付けられた宝玉が宙に舞う。シンイチが手にしているのはただの木刀じゃない。恐らく中心に鋼を仕込んでいるのだろう、堅牢きまわりない暗器だ。
「流石ですね、ボクの本気の攻撃を三度もかわしたのは貴女が初めてですよ。やはりあの人の娘さんだけのことはありますね」
「何度も言っているでしょ、私には父親なんていないって! クリストファー・バードは私の敵よ。私をPaxという運命の螺旋に巻き込むために、自分の娘の命を取引材料にするような奴に親を名乗る資格なぞない! そこまでしておいてこんな見え透いた陽動に引っかかり、この地に眠る巨大な“悪意”を見逃してしまうなんて、その時点でアイツはPaxの一員としても失格よ」
シンイチの瞳に奇妙な色が宿る。無遠慮な視線を私に向けながら、シンイチはひどく素っ気ない口調で核心を衝いた。
「いえ、あの人もここのことは勿論知っていらっしゃいましたよ」
「!?」
「あのアイヌの里に導くように指示したのもクリスさんです。無論僕も半信半疑でしたが種を明かせば至極簡単。埋蔵金を発見された三日月様直系の子孫であるミレイユ・ミカヅキ・ゼダン。そう、貴女がたの母上からここのことを聞かされていたのだから」
私はへたりこみたくなるような衝動を必死に耐えた。脳裏にお母様の最期の言葉が蘇る。
「御免なさい、貴女に辛い役目を押しつけちゃって」あれはアイリーンの看護に対する詫びの言葉じゃなかった。如月の監視者たる「ミカヅキ」の名と地位を私に継がせることに対する贖罪の言葉。
それじゃあ、やはりいま、私の手の中にある如月はもともと……。
「僕とあの人との最後の契約は、この埋蔵金へと続く玄室まで貴女がたを御案内することです。無論あの扉を開錠できるのは世界で貴女がただけということもあるのでしょうけれど、肝心要の部分が抜け落ちたその奇妙な契約を訝るボクにクリスさんはこう仰いました。
埋蔵金が本当にあった場合? その時はお前さんの好きにするがいいさ』と」
「……なるほどね、あの男らしい」
私は萎えそうになる気持ちを必死に奮い立たせる。
「Sin、アンタはこの黄金を手に入れて一体どうするつもりなの? この国を支配し、遂には世界でも征服でもしようっていうの!?」
少年は心底不思議そうな表情を浮かべた。首を傾げてまで見せる。その子供っぽい仕草は無邪気とさえいってもいい。


「世界平和! それがボクのただ一つの望みです!」


「…………はい?」
シンイチは真顔できっぱりと言い切った。
まじまじとその瞳を覗き込んでしまうけれど、返ってくるのは少年の真っ直ぐで真摯な視線。でも私はすぐに気付いた。純粋で無垢であるが故に、そこには一切の妥協も、中庸さえも赦さぬ苛烈さが秘められていることに。
「そうです! ボクの望みは世界中の人が差別に苦しまれることなく平等に扱われ、互いが互いの国を、そして人を尊敬し、世界中の誰もが同じ条件の下、自分が望み、そして努力さえすれば幸せになれる世界を築き上げることです!」
「……どういう論理でアンタがこの黄金を手に入れることで世界平和が実現するわけ? 頭の巡りの悪い私に噛み砕いて説明してくれると、とても嬉しいんだけど」
私はこめかみを押さえながら問い返してみる。戻ってきたのは一点の淀みもない、流麗な回答。
「貴女がた欧米列強が支配する現在の世界は軍事力、経済力を問わず『力』の強い者が富と権力を一手に握る構造です。口では『自由』だの『平等』だのを謳っておきながら、最低限のそれを享受できるのは白人のキリスト教徒という範疇に属する人々だけです。
でも、そんなのは間違っています! 我々は同じ人間です! たとえ肌の色が違い、宗教が違い、言葉が違っても、そんなもの、本来は些細なものでしかなはずです!」
シンイチの口調、いや弁舌は更に熱を帯びていく。
「しかし、今この国が置かれている立場では『世界中の人が平等に扱われるべきだ』と主張しても戯言でしかありません。負け犬の遠吠えでしかありません。ですから、この国が軍事力でも、経済力でも貴女がた欧米列強に追いつかなければならないのです。その両面で貴女がたよりも優位の立場に立つことさえ出来れば、貴女がたは我々の主張を飲まざるを得なくなる筈です!
そのためには明治政府は一刻も早く欧米列強への追撃体制を整え、国民は一人一人自立し、そしてこの国を支えて行かねばならないのです! この黄金はそのための貴重な財源となるべきなのです! それを邪魔する者は、たとえゼルファさんでも、そしてアイリーンさんであっても、排除するしかないのです!」
私はいま現在自分が置かれている立場を忘れて……笑い出した。
先程の激突で、ただでさえ苦しい息が更に詰まったけれど、悲鳴を上げる身体を差し置いても笑いが止まらない。
こ、この子は……。
凄まじいばかりの能力とはあまりにも、その思想はアンバランス過ぎた。
そう、ここにいるのは、初等教育で初めて『自由』や『平等』を学んだばかりの子供だ。この子は決定的に忘れてしまっている。いや、知りさえしないのだろう。世界を制するだけの力を持つに至った国が、人が、自らの既得特権を手放してまで『自由』と『平等』を主張するのが如何に困難であるか、ということを。
私は唐突に悟る。この子はある意味、アイリーンとそっくりなのだ。
この二人は、人を、人々の善意を、無邪気に信じることができる素直さを残したまま、大人の世界へ踏み出そうとしている。それは私がとうの昔に捨て去ってしまった心の欠片だ。美しくもなく、しなやかでもないこの世界で生きていくために切り捨てざるを得なかった純粋な想い……。
そう言えば、と私はやっとその事実に思いを致す。
この子は本当にまだ子供なのだ。実年齢は一六歳にしか過ぎぬのだ。私より更に年下なのだ。その事実が私の心に急激に冷静さを取り戻させる。
無言で降ってきたシンイチの斬撃。私は敢えて一歩踏み込み、その剣速が最大に達する前に、如月の棟の部分で受け止め、その破壊力を幾ばくかでも相殺する。
そして力比べに移行すると思わせた瞬間、履いていたブーツでローキックを繰り出した。押し合っていた剣の反動で背後に飛びすさったシンイチに対して、更に鋭い蹴りを放つ。まともに避けるのも無駄だと判断したシンイチは、最小限の動きで私の攻撃をあしらう。
でもそれも私の計算の範囲内だ。ブーツの爪先から飛び出した隠しナイフが確実にシンイチを捉え……と思った瞬間、蹴りを繰り出した私の右足は奇妙な方向へねじ曲がる。
「伊達に五ヶ月近く貴女がたのお世話をさせて頂いていませんよ。貴女の衣服に仕込まれた隠し武器は、全て把握させて頂いています」私の右足首を掴んだまま、シンイチはただひたすらに生真面目な口調で告げる。痛みに耐え、無駄だと承知の上で袖口に隠し持っていたナイフを投げつけるけれど……あっさり引きずり倒される。
「し、しまっ……!?」
「さよならです、マスター」
剣を振り下ろそうとするシンイチの動きに一瞬の躊躇いを読みとったのは、私に幾ばくか残された淡い願望の見せた幻覚に過ぎなかったのだろうか?
「姉上!」
全く予期せぬ叫びが今度こそ幻想ではなく、確実にシンイチの攻撃を一瞬だけ遅らせた。上半身を限界までねじ上げるように捻り、如月を突きだしてその剣先を避ける。
それでも完璧には避けきれなかった。絡み取られた如月は大きく宙を飛ぶ。私の身体は弾き飛ばされ、砂金の敷き詰められた玉座への通路部分に転がった。生暖かいものが私の頬を伝わっていく。徐々に朱に染まっていく私の視界に飛び込んできたのはアイリーンだ。
「姉上っ! 大丈夫っ? 姉上っ! 生きてるっ?」
「し、し、死ぬっ……」
一目散に駆け寄ってきたアイリーンは私を抱きかかえなり、激しく前後左右に揺さぶる。傷自体は額が少し割れただけなのに、このままだと失血による貧血で……。
「シンイチ! アンタ、一体どういうつもりっ!?」
どういうつもりかはアンタの方だ! 荒々しく私を突き放した勢いのまま、アイリーンはシンイチへと向かっていく。
滑り込んできたカペがクッションになってくれていなければ、まともに後頭部を堅い床にぶつけていた筈だ。いずれにせよ右足がひどく痛み、立ち上がることさえできない。
「無益な闘いは止めましょう、アイリーンさん。貴女だけは信じられると思ったからこそ、あの少年に高熱を出して貰ったんです。ある植物を乾燥させて作った粉末でね。ああ、安心して下さい。元々は汗をかかせるための薬草ですので後遺症は一切ありませんから。正直に言いますけれど、僕は貴女たちがとても好きになんです。
先程は動転の余り、ゼルファさんを傷つけてしまいましたが、ここで引いて下されば文字通り一指も触れずお返しします。ですから、貴女がたの方こそ、ここで見たもの全てを忘れて本国へとお帰り下さい。たとえアイリーンさんが本当に常人とは異なる能力を持っていたとしても、本気となった僕に勝てるわけがありません。あの隠里で最強と謳われた母十六夜の手により幼い日から徹底的に鍛え上げられてきた僕の体術をもってすれ………なっ!?」
シンイチには何が起こったか理解さえできなかったらしい。
鼻から流れ落ちる血により、ようやく自分の顔が張り飛ばされたという事実を認識する。慌てて距離を取り、剣を構え直す。無論そんなことをしても全くの無駄だ。再びシンイチの顔がひしゃげ、崩れる。頬に残されたのは、まるで冗談のようにはっきりした手形だ。
「……なるほど、先程のゼルファさんのお伽噺話、満更作り話でもないようですね」
さして広くはない地下宮殿に獣の咆哮があがる。魂も消えんばかりの爆発的な叫びとともにアイリーンへと襲いかかったシンイチの連撃。だけど、アイリーンは瞬き一つせずその攻撃を見切る。それどころか殆ど上半身だけの動きで、シンイチの斬撃を軽やかにかわしていく。その動きは蝶が舞うように美しい。
でもいくら追いつめられたとはいえ、この子が無益な攻撃を繰り返す筈がない。逆転の奇策は小さな影となってアイリーンの背後に忍び寄っていた。再び上がった爆発的咆哮は地下宮殿内に反響し、木霊する。身体全体を預けてくるようなシンイチの刺突をアイリーンはスペインの闘牛士のようにかわす。アイリーンの身を翻したその先には……
「カペ!」
元々は「生きた保存食」としてこの旅連れとなったニホンザル。彼は私の叱責の言葉に、アイリーンの足に飛びつかんとしたそのままの姿勢で凍りついた。私に叱られ、脅えるように逃げ戻ってきたカペを、シンイチは怒りの声で迎える。
「この役立たず! オマエに最初に情けを掛けてやったのは誰だと思っている!」私の叱責が飛ぶ前に……シンイチの身体は宙を舞い、私の眼前に転がってきた。
「この卑怯者!」
美しい眉を吊り上げ、全身から怒りのオーラを吹き出しアイリーンは、シンイチを拳で殴りつけた姿勢のまま、更なる糾弾の言葉を放つ。
「見損なったわ、アンタに生き物を飼う資格なんてないっ!
……って、えっ? な、なにっ、ここっ!?」
ようやくアイリーンは周囲の状況に気付いたようだ。歓声をあげつつ、殆ど頬ずりせんばかりの姿勢で黄金の地下宮殿を隅から隅まで観察しはじめている。
妹の奇矯な行動を、頭を抱えて見ていた私の視野の片隅にシンイチの姿が飛び込んでくる。
這い蹲った態勢のまま、目ばかりをぎらぎらと輝かせ、何かを探し求めていたシンイチの焦点がピタリと一点に定まった。その視線の先にあったのは……先程の激突で私の手からもぎ取られた如月だ。ばね仕掛けの人形のような、動作で跳ね起きたシンイチは、そのまま如月に飛びつく。
「う、動くなっ!」
私は身体を引き起こされ、喉元に如月が突きつけられていた。光る白刃を見るに至りようやく……私はこの少年に対して不憫だな、と思いやる余裕が生まれた。
「う、動くなって言ってるんだっ!」
シンイチは震える声で同じ言葉を繰り返す。しかし、アイリーンは何やら珍妙な生き物に出くわしたような、不確かな表情で少年を見つめる。
「……Sin、あの男が『好きにするがいいさ』と言った理由を教えてあげましょうか?」
抱きかかえるような態勢のシンイチと目があうなり、冷たい口調で言い捨てる。
「う、うるさい!」
切羽詰まった口調で吐き出すのが今のシンイチには精一杯だ。
「この地に仕掛けられたのがPaxが狩るべき真の“Lost”であったとしても、今のアンタでは扱えきれないと知っていたから。あまりにも強大すぎる力は劇薬のようなもの。取り扱いを知らぬ者が手に入れたならば、その毒で遂には自滅するだけよ。
それ故に“Lost”は悪意なのよ。関わった人間の人生を狂わせ、歪めてしまう悪意。ただね……」
「うるさいっ! うるさいっ! うるさいっ!」
私の言葉に憐憫を敏感に感じ取ったシンイチは子供のように喚き散らす。私はそのまま無造作に如月を握るシンイチの手首を掴む。シンイチは如月を血が滲むほど強く握りしめ、死すとも放さじとする。
覆い被さるような形となったシンイチの身体を私の背中に乗せてしまうのはひどく容易だった。手首を梃子の軸に、ほんの僅か背中を跳ね上げるようにすると、シンイチの身体は綺麗に宙に舞った。そして私はそのままシンイチを、黄金の床に頭から叩きつけた……。
「ただね、あの男の悪意の方が数段タチが悪いように感じるのは私だけかしら」


「姉上! いくら何でもやり過ぎだよっ! 可哀想じゃない!」
……オマエが言うな、オマエが! と心の中で無益なツッコミを入れる。
「ほら、シンイチ立って。姉上とカペにちゃんと謝るのよ」
左手に如月を握りしめたまま、仰向けに倒れているシンイチにアイリーンは手を差し伸べる。アイリーンの手を握りしめ、立ち上がったシンイチは……次の瞬間、背後に飛びすさると、右手をその懐に入れた。
「……どうして撃たないんですか?」
真っ直ぐその胸に照準を定めた銃口を見据えながら、シンイチが気丈に云う。私は答えない。返すべき答えが自分の中にも見つからないからだ。ただ、引き金を引くのを躊躇う不覚悟な自分に対して今日ばかりは何故だか腹が立たない。
「ここは、ここだけはお渡しするわけにはいかないんです! 貴女がたにむざむざ奪われるくらいなら……ボクと一緒に冥途までの道連れにします」
シンイチが懐から取り出したのはダイナマイトだ。アイリーンの荷物から抜き取ったものだろう。如月を腰に差したシンイチは左手で懐中火縄を握りしめる。その瞳の色で少年が駆け引きをしているわけではなく、本気なのだということはすぐに分かった。
「……Sin、アンタほどの子でも“Lost”の魔性に引き寄せられてしまうのね」
Lostが悪意である所以は、それに秘められた“この世ならざる力”そのものじゃない。本来世界に対して真っ直ぐ向き合う筈だった人間の人生をねじ曲げ、その人生の目的を“Lostを手に入れること”という卑小な世界に貶めてしまうことなのだ。
「Sin、今のアンタは目的と手段が逆転してしまっている。まだ間に合うわ。やり直しの利かない人生なんてない! むざむざアンタほどの才能を失うのは……」
戻ってきた回答はこの上なくシンプルだ。
「……早く逃げて下さい」
導火線の燃える音が奇妙なほどクリアに宮殿内に響く。距離がありすぎる! 私じゃ……間に合わない!
「アイリーン!?」
飛び出したアイリーンは数歩も行かぬ間に胸を押さえその場に蹲ってしまう。力を使いすぎた末のオーバーヒートだ。こんなに早く発現するなんて!
私に選択の余地はなかった。一か八かの賭けに出る。幸いシンイチは右手を突き出すような格好でダイナマイトを握っている。
ピンホールショット!
私の放った弾丸は正確に導火線を撃ち抜いた。その弾丸の熱でダイナマイトの誘爆を誘うこともなく。
「アイリーン! 大丈夫っ!?」
駆け寄った私にアイリーンは無理矢理作った笑顔を浮かべる。その痛々しさに私は顔を背けたくなる。
「……大丈夫だよ、姉上。昔のことを思えばこれくらい」
カペも心配げに近づいてくると、下から覗き込むようにする。
「ありがと。もう大丈夫だって。それよりアンタのホントのご主人様は?」
「!?」
振り返った私が目にしたのは、シンイチが手にした如月でダイナマイトの包皮を削り落としたところだった。
「……アイリーンさんのお身体に御負担を掛けてしまったことと、カペに対して見苦しい行動をしてしまったことについてはお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした」
そのまま火縄を押しあてようとするシンイチの行動を防ぐにはそれしか術はなかった。シンイチの腰辺りに照準を定め、銃弾を放つ。
苦痛に顔を歪め、万歳する格好となったシンイチの手からダイナマイトは弾け飛び、地下宮殿の最奥まで転がっていく。咄嗟の思いつきは幸運なことに、狙い通りシンイチの腰の如月の鞘へと命中する。こんな芸当をもう一度やれと云われても金輪際出来ないだろう。
だけど、私の幸運、ないし悪運の命脈もそこまでだった。シンイチの握っていた火縄が弾け飛び、その落下地点にあったのは……中身を剥き出しにしたダイナマイト。
凄まじい轟音。
天井が崩壊するのと同時に、地下宮殿に大量の地下水が流れ込んでくる。


あまりにも水の流入速度が速すぎた。自力では既に歩けないアイリーンの左肩を抱き、宮殿の出口へと向かうがあっという間に膝上まで水が来ている。このままだと……。
不意に身体に掛かるアイリーンの体重が軽くなった。視線を横に向けると、そこにはアイリーンの右肩を抱くシンイチの姿がある。頭の上にはカペも乗せている。
「申し訳ありません。まさかこんな構造になっているとは思いも致しませんでしたので」
濁流の如き地下水の流入の中、声を張り上げているわけでもないのに、シンイチの淡々とした言葉はやけに綺麗に聞こえてきた。
「Sin、アンタ、なんで……」
無言のまま、シンイチは先程入ってきた宮殿の入口へと急ぐ。
それでも入口傍まで戻って来た時には、既に太股あたりまで水が来ていた。先程如月で両断した腰付近までの高さの花崗岩の切り残し部分が、入口側への地下水の流入を抑えているが、それも時間の問題だ。
花崗岩の上によじ登ってみると、案の定、入口側でも浸水は始まっていた。まだ水嵩は足首辺りまでだけれど、見る見るうちに水量が増えていく。
「Sin、早くなさい!」
叫ぶと同時に、私は岩の上から突き飛ばされた。「な、なにを!?」
「ここは責任を持って自分が時間を稼ぎます。マスターはアイリーンさんを連れて早く逃げて下さい。でないと、この洞窟自体が水没しかねません」
私には如月を抜いたシンイチの意図がすぐに理解できた。
「止めなさい、Sin! ここを塞いでしまったらアンタの逃げ道まで! ここをダイナマイトで爆破すれば……」
アイリーンの懐を探った私は絶望の声を上げた。目当ての物はは地下水でぐっしょり濡れそぼっている。花崗岩の上に立つシンイチは私たちに対して背中を向け、どこまでも生真面目で、どこまでも融通の利かない口調で別れの挨拶を告げる。
「……マスター、例え貴女が悪の秘密結社の一員であったとしても、その前にアイリーンさんの姉なんです。アイリーンさんが心を痛めずに、そして力を使わずに生きている世界を創ってあげて下さい。それがいまこの瞬間におけるボクの唯一の望みです」
最期の望みを賭けてピースメーカーを発射しようとするが、先程来の脱出劇の最中、私の愛銃は懐から失われていた。
私の傍らにいたカペがその間に駆け出した。そしてそのまま花崗岩の上によじ登ると、シンイチの背中に抱きついた。
「……先程は悪かったな」
そう詫びるとシンイチはカペをこの上なく優しげな瞳で見つめる。それこそが……私たちの遠い先祖三日月が愛した男の瞳だったのかもしれない。
「最期にお礼を申し上げます。本当に有り難うございました。今回の旅がこれまでボクが生きてきた人生の中で最もスリリングで、最も楽しい旅でした」
「Sin!」
突き立てられた如月はそのまま洞窟の天井をバターのように切り裂く。
同時に大量の土砂、そして岩盤が崩れ落ち、地下の黄金宮殿への通路を完全に塞いだ……。