Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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異文化交流クイズ「ナポレオン三世によるパリ大改造」。第4回に至って、舞台はようやくシテ島の外へと出ます。と云うか、今回の前半部分はパリの観光案内にw。
中世以来の狭く曲がりくねった迷路が広がっていたパリの道は、三世の改造の下、直線的道路へと整備され直していきます。まず最初に手掛けられたのは、ナポレオン一世がいったん着手したものの、途中で中断していたリヴォリ街の開通工事の延長。
こう書いてもピンと来ないと思いますが、具体的に云えばセーヌ川の右岸(北側)、凱旋門のあるシャンゼリゼ大通りからコンコルド広場へ、そしてチュイルリー宮(現:公園)、ルーブル宮殿(現:博物館)があるリヴォリ通り、そしてバスチーユ広場へと至る通り。この通りこりこそが、現在のパリの東西を結ぶ大動脈となっています。
この通りに交差する形で北から南に、サン・ローラン教会のあるストラスブール大通り、シテ島を縦断するセバストポール大通り、そしてリュクサンブール公園のあるサン・ミシェル大通りが走っています。


この東西南北の大通りの完成と、そこから更に伸びる通りが次々と開けたことにより、かつてパリ中心部に錯綜していた小路や袋小路は姿を消します。こうして三世が目指したパリという都市の衛生の改善&都市の繁栄の基盤が出来るわけですが、当時の一部の人々にとっては頗る評判が悪いものでした。何故かと云えば、それはパリという都市の、そしてフランスの歴史に由来します。
御存知のようにフランス革命以来、7月革命、2月革命、とパリは革命の連続でした。何故これほどフランスにだけ、つまるところパリにだけ革命が勃発したかと云えば、パリ市民に自由と平等の精神に満ち溢れていたから……だけでは決してなく、パリという都市が民衆蜂起に極端に向いていたからだったことも一因としてあるのです。
と云うのは、小路が錯綜し、至る所で袋小路があるという殆ど迷路都市となっていたパリは、蜂起する気になれば何時如何なる場所でも、あっという間にバリケードを築くことが出来ました。しかもいざ反乱を鎮圧する側がやって来たとしても、町を知り尽くした蜂起側は的確にその鎮圧側の行動を予測、時にはそのバリケードを随時移動させ逆襲に転じる、などと云うことが可能だったわけです。
つまり三世を批判する人々の主張というのは「クーデーターにより帝政を確立した三世が、更なるクーデターの勃発を防ぐためにパリを改造したのだ」ということだったりするわけで。この主張が本当に正しいのかどうか? 三世自身が叔父とは違い、殆ど思想などを書き残していないこともあって、歴史学者達も未だに結論は出せていません。恐らく複合的な理由だろう、というのが一般的見解ですけれど「古き良きパリ」を愛するヴィクトル・ユゴーのような人々ほど、三世のパリ改造に批判的だったりしますね。
ちなみに数十年前の我が国の学生運動家たちがバリケードに妙と思われるほど拘っていたのは、この成功の歴史に引きずられたが故だと思われますが、実は「ナポレオン三世の改造以前のパリ」という根本的な地理条件が欠落している以上、結論は分かり切ったものだったのですね。そして実際、三世のパリ改造以後「パリの歴史上、最後の市民のみによる蜂起」は……と、この辺りはこのシリーズの最後で語りたいと思います。


さて、長くなって参りましたので、そろそろ今週のクエスチョンに。
時代は三世のパリ改造開始から、十数年程遡ります。当時パリの町には「あるもの」が全く足りなかったため、当時のセーヌ県知事(←パリはセーヌ県に含まれるため実質市長のような地位)は、円筒形の広告塔ないしはガス灯を、鉄製の塀が取り囲むような格好の「あるもの」を市中に400基以上作りました。この施策は「当然のように」三世のパリ改造にも引き継がれていますが、この「あるもの」とは一体何でしょうか?
ヒントとしては、当初この「あるもの」にはその知事の名前が冠せられていたのですが、本人が「断固として拒否」し、民間業者が名付けた名前に変更するように命じている、ということから想像してみて下さい。
回答は木曜日の22時まで、web拍手にてお待ちしています。
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