Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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異文化交流クイズ「異文化としての吉原」第3回です。とりあえず今シリーズは前半5回が「基礎知識編」という具合で展開していく予定ですので、今回も気軽にお付き合い下さいませ。
吉原の遊女はランク分けされ、その最高峰の地位にいたのが「太夫」でした。我々が時代劇などを見て想像する、美しい姿形、身に纏う豪奢な着物、それでいて客に和歌などを贈る教養の高さ等、これらはこの「太夫」に由来する物です。
根本的なところから云えば、まず何故遊郭に彼女らのような「別格」とも云える存在が必要だったかと云えば、江戸の町の成り立ちと参勤交代が故、というのが歴史の面白いところ。元々殆ど何もないところから生まれた都市である江戸には娯楽施設も少なく、その結果、参勤交代で江戸に入った地方大名達が吉原通いを頻繁にするようになったが故に、彼女らのような高級遊女が必要となっわけですね。勿論彼女らを「ただの高級遊女」として片付けるわけにはいかない、江戸初期の有名なエピソードは幾つもあるわけですが、それらに関してはシリーズ後半にて。


話を元に戻し、初期の吉原の遊女のランクを上げると「太夫−格子−端」というものでした。「格子」というのは、文字通り格子のある見世に並んでいたからで、初期には太夫と格子までを一般に「花魁」と呼んでいました。そして格子のない見世先にいた遊女が「端」と名付けられました。
このようなランクで始まった吉原の遊女の位階でしたが、江戸市中で取り締まられ吉原送りになった遊女が増えてくると「端」は「局−端−切見世」と三段階に別れていきます。都合五種のランクがあったわけです。


元々今の日本橋付近にあった吉原(元吉原)が、幕府の命令で現在の浅草近郊に移転した明暦三年、1657年(丁度明暦の大火に巻きこまれ、元吉原も全焼)。またもや幕府は江戸中から遊女を吉原に集めます。
それに伴い、格子と局との間に「散茶」というランクが生まれました。これは江戸市中にいた遊女たちの雇主たちが、割り当てられた「局見世」を改造し、多少広い部屋にして格子をつけたことに由来します。
何故「散茶」と呼ばれたかと云えば、そもそも「散茶」と云うのは、ひいて粉にしたお茶のこと。つまりお茶のように「急須を振らなくても」濃いお茶が飲める=元々江戸市中にいた彼女らは「お高く」気に入らない客は振る事もした吉原の遊女たちと違って「客を振らない」女郎、ということで「散茶女郎」と呼ばれることになったわけです。
この名が定着すると、面白い事に客は局女郎を「散茶よりも安い」という意味で、散茶を薄めた「うめ茶」と呼ぶようになり、それがいつしか定着「梅茶女郎」という名前に変わってしまいます。こうして「太夫−格子−散茶−梅茶−切見世」というランクが確立するわけです。


もっとも、江戸期も半ばになると、地方大名は幕府の吉原入りの禁令と、それ以前に吉原で豪華に遊ぶ程の資金的余裕がなくなっていきます。
その結果、その維持には常にかなりの金主が必要となる太夫の数は激減。宝暦年間の1760年、遂に最後の太夫が引退し、吉原に太夫は江戸が終わるまでいなくなることになるのです。それ以降、ランク付けもまた変わっていくのですが、散文的な話になっていきますので、ここでは省略させて頂きます。


というところで、今週のクエスチョン。
吉原の全時代を通じて最下層にランクされた「切見世」の「切」とは「少しの間」を意味すると云われており、事実「時間制」だった模様ですが「とある説」ではこの「切」とは「あるもの」が燃え尽きるまでの時間だった、と云われています。
さて、この「あるもの」とは一体何でしょう? ヒントとしては、現在は「身近」とまでは行きませんが、我々も「季節季節に」「特定の場所」に行って火を付けたりしますし、環境によっては「毎日のように」火を付ける方もあるかと。
回答は木曜日の22時まで、web拍手にてお待ちしています。
web拍手
なお全10問中5問以上正解の方には粗品進呈予定ですので皆さんお気軽にご参加を。