Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第17回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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本日分の主な話題は、使用人であるセイキチとウメの子供の死、アメリカ独立百年祭の模様、そして生涯の親友お逸との親密なつきあいの始まりの日、となります。


1876年6月29日 木曜日
今朝目覚めると、使用人のウメの坊やが午前三時に亡くなったと聞かされた。長い間病気だったのだけれど、とうとう亡くなってしまったのだ。
ウメは最後の男の子の遺体のそばに一日中坐って、この上もない悲しみに暮れていた。もう三人、男の子がいたのに、みんな失って、今この子も逝ってしまったのだ。
「……最後の息子にまで先立たれるだなんて、自分の右腕をなくした方がましだ」
悲しみを必死に押し殺しながらも、セイキチはそれだけ富田夫人に漏らしたという。
「お母さん、どうして僕はこんなに早く死ぬように生まれたの?」
利口で可愛いらしい、僅か十三歳のその子は死を前にして、ウメにこう嘆いたそうだ。
ああ、私の迂闊な魂よ、実らぬままに畑が刈り入れ時になってしまったとは! ああ、怠惰な魂よ、汝に預けたタラントは何処にあるのか! 喜んで真理に道を傾けたかもしれない魂がここにあったのだ。しかしもう霊魂の国に行ってしまったので、この小さな魂が抱いていた疑問は解けないだろう。


丁度母たちが見てきたばかりなのだけれど、仏教徒の間には施餓鬼という変わった儀式がある。昨日、中原氏と入れ替わりにやってきた佐々木氏に丁度詳しく説明を聞いたばかりだ。
仏教徒の考え方によると、魂が身体を離れると、神秘的な空間の領域に飛んで行くのだという。言い換えれば、空気と混ざるのだけれど、これは仏教徒が天国を信じていないからだ。この魂が父親だったら、息子たちが決まった時期に、死んだ祖先に食べ物を捧げることになっている。これは日本の古い習慣である。
しかし死者が不幸にも子孫を持たぬ者だったら? その魂は安らぎを求めて「青い天空」を嘆き悲しみつつ彷徨うが、食べ物を捧げてくれる子孫がいないため、永遠にそれは得られない。施餓鬼とは、養ってくれる者のない「飢えた魂」に食べ物を提供して、人民に恩恵を施そうと思った支配者が決めたものである。
それで人々は綺麗な白紙に贈り物を包んで、紅白の水引で結び、普通の「のし」をつけて持ってくる。しかしお坊さんたちが一番いいところを取ってしまうのではないかと思う。貧しい飢えた、生きている魂よ、目的に叶っていない物を買うとは、あなた方はなんと惑わされていることか! 「汝ら渇ける者ことごとく来たれ、金なく価なくして葡萄酒と乳を買え!」。来たりて天のパンを与えられよ。


1876年6月30日 金曜日
今度の火曜は、一八七六年七月四日。
七月四日はいつでも栄光の四日だけれども、これは普通の独立記念日ではない。偉大なるアメリカは遂に百周年を迎えるのだ。
若く麗しい自由の女神は、偉大な共和国と結婚して落ち着いた夫人となり、大きな繁栄した家庭を築いている。私たちがこの家族の一員として、母なる自由の女神の誕生日を祝うのは、義務のみならず特権だと思う。
横浜のアメリカ人が、この二ヶ月間、何か祝典を挙行しようとつとめてきたが駄目になった。何故かというと、もしアメリカ人全部を招待したら、野蛮で暴な水夫たちがきっと来るだろうから。そしてこの連中が来るなら、立派な人たちは同国人としてこの人たちと同じ眼で見られるのを嫌って近づかないだろう。そんなわけで取りやめになったのだ。
英国やヨーロッパの他の国から来ている人は大勢いるけれども、アメリカ人は六十二人しかいない。アメリカ公使であるビンガム氏は今いらっしゃらないし、誰も音頭を取る者がいないのだ。
そこで、アメリカの女性がどんな業績をなし得るかを示す出来事が起こった。うちの母が率先してウィリイを走り廻らせ「今年は百年目だから、何かしなくてはならない」と東京にいるアメリカ人全部に見事認識させることが出来たのである。それ故、どうやら地球のこの一隅で、独立記念日が祝われることになりそうだ。
昨夜イエス様が、権威と大いなる栄光もて天の雲に乗っておいでになった夢を見た。当日は最高に祝福された日となるだろう。


1876年7月1日 土曜日 
狭苦しくも、懐かしいニューアークを出発してから今日で丁度一年になる。
母は今朝、富田夫人と共にウメの子供が埋葬される前に一目見に行った。
小さな四角い包装箱に入れられた遺体は、日本の様式に従い坐った姿勢で頭を胸に垂れていたそうだ。そして遺体を納めた箱の上には白い木綿の着物――お金持ちは絹製らしい――が掛けられ、蓋の上には私たちが上げた玩具と、セイキチの大事な刀が置いてあったという。セイキチは子供を焼かないで埋葬するつもりだ。
「奥様、我が子のためにご参列頂き、本当に有り難うございます。息子もさぞ喜んでいることでしょう」
必要以上にお辞儀をするセイキチたちに、母は涙を零さずにはいられなかった。
「何故私は、この子の生きている間にイエス様のことを話さなかったのだろう」
母は子供にイエス様のことを話さなかったことが悔やまれて、泣かずにはいられなかった。お祈りをすると、セイキチたちは喜んだ。セイキチが子供にお祈りして欲しいと切に頼んだのは不思議な話だけれど、貧しくてお坊さんに払うお金もなかったのだ。
母がセイキチたちにイエス様のことを話すと、富田夫人が通訳して、それから「主の祈り」を日本語で繰り返した。これこそ、本当に気高い伝道行為である。多大な祝福を賜わりますよう。
今日お菓子を焼いたり、片付けものをしたり、お皿を洗ったりして、とても忙しかったが、みんな大嫌いな仕事である。ウメとセイキチがいないと、あらゆる面で困ってしまう。テイはとてもいい人なのだが、一度に二つのことはできないし、仕事がどっと来るとひどく慌ててしまって、すべてをめちゃくちゃにしてしまいそうになる。


1876年7月4日 独立百年記念日 火曜日 
今日は日付などいらない。「四日」と書くだけで十分である!
この栄光の朝は、輝かしい陽の光にあふれた天候に恵まれて当然だ……そんな私の想いは、暑くてじめじめした日本独特の気候に虚しく霧散してしまった。
朝のうちに打ち上げられる予定の、我らアメリカ人の若々しい望みを象徴する爆竹、癇癪玉、打ち上げ花火、筒型花火、爆弾花火、回転花火、その他諸々の花火は土砂降りの雨に潰されてしまった。これは文字通り私たちの愛国心に「水を差すもの」だった。
今日が「一八七六年七月四日」だということを知らせる鐘も、礼砲も、無害な小さな爆竹すら鳴らなかった。
去年太平洋を渡っていた時は、我が同胞がこの日を祝って沸き返り「四日はいつも晴れる」というジンクス通りの好天に恵まれたというのに。私たち家族は浮かぬ顔をして向き合って坐り、独立記念日が来たということを日本に知らせるように、何処かでささやかな礼砲でもいいから鳴らないかと一生懸命祈った。
それでも私たちは上野での祝賀会の招待状を貰っていたから、それがせめてもの慰めだった。
着替えをして家を出たのが四時。四時にはきちんと席に着くことと聞いていたので、全速力で、何度かぬかるみにはまり込みになりながらも人力車を上野へと走らせた。だけど、そこに着いてみると、まだ十分に時間があった。
白いキッドの手袋をはめ青い絹の服を着た私たちを、若い見知らぬアメリカ人たちが正面玄関に整列して迎えてくれた。
恐らく五十人からいる紳士淑女のうち、少ないのは淑女の方だった。高い役職の日本人が三、四人いたのだけれど、燕尾服と真っ白な麻のワイシャツを着た紳士風の給仕とちょっと見分けが付かなかった。
ビンガム公使は出席されなかったが、ビンガム氏の令嬢とワッソン氏、それから神奈川県の総領事ヴァン・ビューレン将軍、陽気で活発で美人の若いワイズ夫人、初代大統領の子孫であるミス・ワシントン、スミス夫妻、パーソン夫妻、ヴィーダー氏、スコット氏、ウィルソン氏、パチェルダー氏と令息、ヴァーベック夫妻とその子女のウィリイ、エマ、ジェシー・フェントン、その他にも大勢いたけれど、皆日本で最高のアメリカ人ばかりだ。


輪になって坐ってしばらく話をしていると、夕食の用意ができたと告げられた。食事は正餐ではなく、コールドハムなどの軽食だった。それはまさに「豪華な軽食」だった。
楽しい楽隊、海軍軍楽隊が「コロンビア」や「海の島」のような愛国的な曲を奏でた。
ヴァーベック家のエマとウィリイ、ジョージ・バチェルダーとジェシー・フェントンと私は、外の綺麗な小さい円卓を囲んでとても楽しく過ごし、アイスクリームを沢山頂き、よく笑った。ジョージ・バチェルダーは面白い少年で、ウィリイ・ヴァーベックは物語の本に出てくるような正直で信頼できる少年である。
「日本の天皇に乾杯!」「合衆国大統領に乾杯!」「陸軍と海軍に乾杯!」「今日のよき日に乾杯!」「ジョージ・ワシントンに乾杯!」「ご婦人方に乾杯!」
その他、様々なものに敬意を表して乾杯が行われた。
ヴァン・ビューレン総領事は、活気に溢れた素晴らしい挨拶の言葉を述べ、それからスミス氏が短い演説をしている時、楽隊が「朝まで戻るまい」を演奏し始めて、スミス氏をまごつかせた。楽隊はジェシーの弟子なので、日本人のように日本語を喋るジェシーは、楽隊に演奏をやめるように言い続けなければならなかった。ジェシーは十三歳なのに年よりずっと大きく見える。
食後、部屋はダンスのために片付けられ、楽隊が「ランサーズ」を奏し始めて、みんなワルツを踊った。人が踊っているのを見るのは楽しい――優雅な動きと音楽は実に素晴らしい。私も踊れたらいいのにとつくづく思った。
それから花火が打ち上げられ、霧は濃かったけれど、よく見えた。最初は打ち上げ花火と円筒花火で、その次に非常に大きな花火が上げられた。
ニュージャージー州を象った花火の一つがなかなか燃えなかったけれど、火がついたら他のより、ゆっくりと着実に燃え広がり、遂には次の花火に場所を譲るために全部が地面に落ちた。
「OH! あんなことが本当に起こったらすべて終わりだ!」
叫んだ人は勿論冗談のつもりなのだろうけれど、私はもっと深刻に感じられた。我が国を象った物が落ちていったように、もし偉大なる我が共和国が地に落ちるようなことが万一あったら、そして誇り高き国旗が塵に塗れて引きずられるようなことがあったらどうしよう? ああ、主よ、そんなことが決して起こりませんように。
最後は透かし絵で、一八七六年七月四日百年祭の文字と、交差したアメリカと日本の旗が浮かび出た。アメリカ人全員の間に歓喜の声が湧き起こり、外にいる日本人の大群衆がそれに和した。
アメリカ、万歳! アメリカ、万歳! アメリカ、万歳!」
更にアメリカ人の万歳はひときわ高く上がり、たっぷり二分間は続いた。それから、婦人たちが何人か「星条旗よ永遠なれ」を歌い始めると、皆熱心に加わった。
ポーチから花火を見ていた軍楽隊の連中も歌い出し、自発的に自分の楽器に戻ってその旋律を奏し始め、楽隊の音楽と声が空に大きく響いた。
行事は十時に終わり、お土産の箱と小さな旗を持って家路についた。大喜びで、私たちの独立記念日は成功だったと断言しながら、コロンビアよ、幸ある国!