Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

今週も「クララの明治日記 超訳版」その第21回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分
主要キャラが揃ってきたことで、やっとラノベっぽさが成り立つようになってきた本日分は、随分日本に慣れてきたクララの日常がメインの話となります。


1876年10月9日 月曜日 
また困ったことが起きた! 今晩、丁度ウィリイがインブリー家へ行きたいと思っていたところに矢田部氏がみえたのだ。
「明日が早いので私は先に休ませて貰いますから」
母が早々に引っ込んでしまったので、結局矢田部氏の相手はウィリイと私が相務めることになってしまった。
話が進むにつれて、ウィリイの顔色が変わっていく。厭で厭で仕方ないらしい。我が兄ながらなんて短気な。
私はそんなウィリイが恥ずかしくて、矢田部氏を楽しませるよう努力していたのだけれど、九時も半を過ぎると、恐れていた最悪の事態に発展してしまった。
「クララ、明かりを消して出ておいで。おやすみなさい!」
ウィリイは肩を怒らせて部屋から出て行ってしまった。ああ、困ったのなんのって! 私は恥ずかしくて一言も云えず、道化役者のように俯いて坐っていた。
矢田部氏は吃驚したようだったけれど、非常に穏やかに「おやすみなさい」と云って、ちょっと笑みさえ浮かべて見送った。
それから二人で見ていた本をしまうと、時計を取り出して、悲しげに仰った。
「九時半ですね。もう行かなくては」
私は「すみません」とだけ、なんとか云ったのだけれど、頭はあまりにもくらくらしていたので、なんで「すみません」と云ったのか分からなかった。日本人と長い間、付き合いすぎてしまったため彼らの習慣が感染してしまったのかも知れない。
それにしても矢田部氏は上辺は丁寧にしていても、内心は怒って、侮蔑されたと感じていたのは明らかだった。もう二度と訪ねてくることはないだろう。
母はウィリイに対し本当に腹を立てている。
「矢田部氏がそんなに長居するのは嬉しくないですけれど、ウィリイが矢田部氏に失礼なことをするのも嬉しくありません」
ウィリイは明日行って謝ると云っている。ちゃんとした態度をとって、埋め合わせをしたいと切に願っているのだが、ウィリイもまた随分軽率で衝動的な人間である。


1876年10月10日 火曜日
昨日の今日で、というべきか、母と私は銀座で矢田部氏に出会ってしまった。
何故だか矢田部氏が銀座の真ん中で長い枕を腕に抱えていたのだ。
私たちはチェスのセットを注文しようと思っていたところなので、母は矢田部氏を呼び止めて「チェスは日本語で何というのですか?」と尋ねた。
矢田部氏は、明らかに狼狽えた様子で、紙包みにくるまれた長い枕を背中の方に隠した。きっと私たちに会いたくないのだろう。
それにしても矢田部氏が抱えている枕、やたら大きいような? 丁度日本人の成人女性の背の高さくらいある。
矢田部氏はその枕の置き場に困ったようで、道路脇の井戸の後ろにそれを立てかけたが、置き放しにすることもできず、片目で枕をせわしなく見ながら、進み出て私たちに挨拶をした。
枕→私たち→枕×∞と動く矢田部氏の視線の様子はとても滑稽だった。矢田部氏は、ついに人力車を呼んだ。でも乗せたのはご自分じゃなくて枕の方。この枕は余程大切な物だろうか?
そしてご本人は母の車と並んで歩いたけれど、その態度は慇懃そのものだった。


1876年10月11日 水曜日
今日ウィリイは矢田部氏に会いに行ったのだけれど、矢田部氏がお留守だったので名刺だけを置いてくる羽目になった。


1876年10月12日 木曜日
今日はお逸がやってきて一晩泊まっていくことになった。勝提督から外泊の許可が頂けたのだ。
午後になって、みんなで銀座と芝へ出かけることになった。一緒に乗った人力車の中、向こうから薄黄色い肌の馬がやってきた。すると突然、隣のお逸が思い出し笑いをはじめたのできいてみると、お逸はお父様の黄色い馬に乗った時の愉快な話をしてくれた。
「わたしね、馬が好きで好きで仕方ないのよ」
衝撃の告白。私の親友は人間より馬の方が好きってこと!? 
「乗ることよ、馬に乗ること!」
……どうしても日本語と英語では互いの意思の疎通に齟齬が出るらしい。
いくらお逸が希望しても、将軍顧問にして海軍卿である勝安房守のお嬢さんが簡単に馬に乗せて貰えるわけがない。だけど我慢できなくて、お逸は人目のないある日。鞍もつけていない、お父様の馬に跨ったのだそうだ。
そうして庭のイチジクや、棗の木のあたりを歩いていると、馬が急に疾走を始めて門を走り抜け、通りに出てしまった!
「私、流石に怖くて怖くて、馬の首にしがみいちゃったんだけど」
そんなことをすれば馬は余計に早く走りだし――しがみつけばつくほど、老馬は早く走る! なんという悪循環!
「だけど、そうだったら馬をどうやって止めたの?」
お逸によると、見たこともない奇妙な服を来た人が突然馬の前に現れ、それに吃驚して馬が棒立ちになった瞬間、上手く飛び降りたのだそうだ。
「よく怪我がなかったわね」
「ま、なんとかねー」
見ていた人々は皆笑っていたそうだけれど、その「お転婆娘」が、後から慌てて追ってきた屋敷の人たちによって将軍の顧問であり海軍卿である勝安房守のお嬢さんと分かって吃驚したという。
「それでもね、私、馬が好きなの。できたらまた乗ってみたな」
お逸は目を輝かせて云うけれど、老いた黄色い馬に年若い女の子が必死にしがみついている様子は、さぞ滑稽だったことだろう。
日本人は、女が馬に乗ったり馬車を駆ったりすると、ひどく恥ずかしいことだと考えるそうだし。「強そうに見えるのですよ」とは冨田夫人の弁だ。
お逸は十二時前には寝ない習慣なので、わたしたちは十時まで起きていた。
結い上げたばかりの髪が、外国の枕のためにくしゃくしゃになったら気の毒だと思い、誰かに日本の枕を買いにやらせようと云ったが、お逸は強く反対した。
「髪を壊さないように俯せになって眠るから、大丈夫大丈夫」
おかしな子! 俯せになって、どうやって息をするつもりなの! 
結局、寝る時になって、セイキチが「イチバン」枕を出してきたので、我が友はそれで寝た。
私たち二人は夕方、チェッカーとかオーサーズなどをして遊んだ。それから寝床に入ったが、お逸が私のベッドを使い、私は簡易寝台でその脇に寝た。
お逸は私をベッドに寝かせようとして、ここでもまた私たちは争った。


1876年10月13日 金曜日
今日はケーキを作ることにした。なんでも勝提督はケーキが大好きだそうだ。
お逸は家に持って帰るカップケーキを作ったのだけれど、滑稽で見ていられないほどだった。
「あっ!」
指にバターがちょっとつくと、端正な顔をしかめた。そして慌てて拭き取りながら「カーッ」と云うのだった。年頃の女の子としてその態度はどうなのだろう? と思わないでもないのだけれど、そんな仕草も可愛いのだから仕方がない。
ちなみに。日本人は、我々の使うバターがとても嫌いだ。でもそれも無理ないと思う。バターは大抵デンマークかオランダ産で、本当にひどい匂いがする! 
いつもの午後の散歩の後、お逸は家に帰って行った。


1876年10月18日 水曜日
ウィリイはもう一度矢田部氏を訪ねたが留守だったので、開成学校の方へ行きかけて、急に角を曲がったら、その問題の紳士とばったり出会った。
矢田部氏は最初は迷惑そうで、よそよそしかったけれど、ウィリイは持ち前の愛想の良さで気持ちをほぐし(何故普段からそうできないのか、小一時間問い詰めたい)、すぐに二人は楽しく語り合うことができたそうだ。
「お浜御殿に一緒に行きましょう、妹もご一緒致しますから」
もっとも誘いの口実として私の名前を出すのは如何なものかと思うけれど。
そうそう、今日10月18日はウィリイの二十三歳の誕生日だったということを書くのを忘れていた。
「……もう四分の一世紀近く生きたのね」
母にしみじみとそう云われるほど、我が兄は時折年寄りじみた反応を示すのだ。
誕生日プレゼントとして母はウィリイに「倹約」について書いた本を上げ、私は日本のインクスタンド、アディは自分の可愛い小さい手で作った、だけど“得体の知れない”としか形容のしようがない“なんらかの物”を幾つかあげた。


1876年10月19日 木曜日
今日の夕方、早速以前のように陽気に我が家に現れたのは勿論矢田部氏だった。勿論手厚くもてなされ、本を読み、ゲームをし、お話ししたのは云うまでもない。
とてもにこやかで、だけど九時半きっちりには静かに帰って行った。日本人というのは本当に几帳面な人たちだ。


1876年10月20日 金曜日
今日は縫い物とお菓子を焼くこと、そして勉強を教えること以外何もしなかった。
私は迷路に立つ人のようにここ数日のことを思い返して、ここに坐っている。
「日は巡り来り、そして去ってゆく」しかし我々は休まず働き、遊び、最後の日が来るということを少しも考えない。ああ、神様!


1876年10月21日 土曜日
今日は素晴らしい日だ。こんな気持ちの良い天気はうまく利用しなくてはならない。
母とウィリイとアディは横浜に出かけた。午後は富田夫人たちとお浜御殿へ行く予定だったのだけれど、母が横浜に行きたいと云い、また富田氏が帰っていらっしゃって、奥様がお留守だとお怒りになるかもしれないので、取りやめになった。
本当に今日はとてもいい気持ち! 掃除は綺麗に仕上げたし、ケーキとパイは作ったし、洗濯をして入浴もしたし、お浜御殿に行けなかったのはがっかりだったけれど、そんなことは構わない。私は幸せだ! まだお昼の十二時だから、これから後は自分のしたいことをすればいいのだ。
早いうちに最近溜まっていた日記を書き終えると、○○さんから手紙が来た。
けれど内容はまったく馬鹿げたものだった。あの情熱的な言葉でうちへ来たいと云い、私は名前の前にある形容詞を最上級で使うなんて、どういうつもりなのかしら? でもまあ、みんな戯言なのだろう。
それからエマ・ヴァーベックが、弟のチャニングと別当と一緒に馬車でやって来た。
「一緒にジェシー・フェントンを訪問しましょう」
馬車は快適で、三時半には芝に三十三番地に着いた。フェントン氏の家はとても気持ちのよい大名屋敷である。
エマは巫山戯て日本人風に「おジョシーさんいますか」と云い、自分の名前を「フルドベックサンです」と云った。日本人風の発音にすると「ヴァーベック」という彼女の苗字は「フルドベック」若しくは「フルベッキ」としか発音できないのだ。
エマが真面目くさってこのおどけた名前を云うので、笑わずにはいられなかった。
ちなみに、日本人は私たち「ホイットニー」家のことを「ウチニ」と呼ぶ。
ジェシーは家にいた。フェントン夫人に挨拶してから、庭に出てクローケーをした。チャニングも加わって、一緒に数回ゲームをした。それから五時半まで、鬼ごっこや隠れんぼをして遊んだ。
家に入ると、ジェシーがコップを持ってきてからまたいったん部屋を出て行った。
そのコップがシャンパン用のものだったから、ちょっとした議論になってしまった。
「……一体これで何を飲むのかしら?」
「僕、シャンパンなんて飲めないよ!」
「そんなの私だってよ」
私たちが闘志を燃やし始めた時、ジェシーがレモネードの瓶を持って入ってきた! 私たちはわっと笑いだし、ジェシーはきょとんとして――でも説明する気にはなりなかった!
帰り道、ずっとエマは上機嫌だったけれど、同時に老馬が走り出すのではないかしらとひどく怖がっていた。
馬がぐんと引っ張ったり、普通より早く駆けたりするたびに私の腕を掴んでこう云うのだ。
「いい? 馬が暴走したら飛び出せるように、片足を外に出しておきなさいよ」
別当が馬の頭のところにいて一緒に走っているのに、びくびくしっぱなしだった。本当にお逸とは対照的な反応で、私はそんなエマを見て笑ってしまった。
木挽町の我が家に着いたのは六時頃で、母とアディが玄関に出迎えてくれた。
母たちも何もかも申し分なく楽しい一日を過ごし、アメリカ公使ビンガム氏と、上海副領事シェパード氏と一緒に帰ってきたが、鞄を持ってくれたビンガム氏の腕にすがりながら来たのだという。
もっともウィリイは我が家に伝わるむしゃくしゃ気分が起きて、そのまま家に帰りたくなくなったらしい。
「汽船ペキン号で富田氏が帰ってくるかも知れないから」
そんな理由をつけて、バラ家に泊まるつもりになっていた。母はウィリイが泊まろうとしていることを知らなかったが、二時間後にハミルトン氏が来られて「ウィリイ君が泊まってもよければ電報を打って下さい」と云われた。
母はとりあえず「よろしい」と電報を打ったが、それからずっと後悔している。


1876年10月22日 日曜日
みんなが健康なのでとても有り難い。母はすっかり体調を回復させ、顔が丸々として艶々した感じだし、私も確かに元気になっている。
それもこの気持ちの良い季節のお陰に違いない。故国の十月も素晴らしいけれど、日本のこのすがすがしい陽気にはかなわない。
……もっとも。今から数ヶ月後、これを読んだら、どんなに元気づけられることだろう。その頃には「日本のすがすがしい陽気」のため、家に閉じこもってただ坐っているだけの日々を過ごすことだろうから!
この晴れた朝、みんな“どういうわけか知らないが”この頃、滅多に行かない父まで、教会に行った。
ウォデル氏が、若さと健康と富と力を持っていながら、ある一つのものに欠けていた若い支配者を例にあげて説教された。
その人は道徳律を厳格に守ったが、それでも満足は得られなかった。ウォデル氏は道徳と真の信仰との違いを感情を込めて説明なさったが、とても興味深かった。大勢の人が出席していた。


午後、ウィリイがまだ帰ってこないので、私はアディを連れて勝家に聖書の授業に行った。
みんなの正規の勉強をみてあげて、賛美歌と戒律を一つ新しく教えた。賛美歌を二度歌い、お祈りをしてから聖書を読んだ。
終わるまで一時間半も掛かったけれど、私たちが行ったのを皆喜んでくださったようだった。生徒は、お逸、お逸の弟である梅太郎と七郎、そして滝村氏の娘であるおこまつだ。とてもとても面白い授業ができたつもりなのだけれど、日本語を正確に話すことが出来さえすればいいのにと思う。
梅太郎と七郎は一緒に坐っていたが、梅太郎が聡明なのは七郎は明らかに愚鈍だ。七郎が読むと、梅太郎が端から注意し、可哀想な七郎の腕をつついて、言葉をはっきりと発音してあげるのだった。
私が泊まる時、お逸と寝る寝台を見せて貰ったが、多分百年くらい前のもので、マホガニーか、または何かの黒ずんだ磨いた木でできている。明るい色の木材が嵌め込み細工になっていて、とても風変わりなものだった。丈は低く、赤ちゃん用の寝台のように周りに柵があって、横に出入りする戸がついていた。


帰宅して手紙の返事を書き、母と話をした。
今日は一日中、日本の女の人の運命を考えて気が重かった。
考えると心がとても痛む。そして日本の女の人の低い地位と希望の無さを見ると、自分の姉妹のように愛おしくなる。
ただ何もしてあげられず、その苛酷な運命を思ってただ泣くばかりだ。日本の女の人は結婚して二十五か三十くらいになると、若さと美しさを失ってしまう。
紅白粉を塗ることも、明るい色の着物を着ることも出来ず、ただ子供を産み、家事をするだけで、他に何も知らないうち肉体的、知的、精神的な生命をすり減らしてしまうのだ。
それ以外のものは何も望めない! 休日もなしに働き続け、幸せを期待することも出来ないのだ。
ああ、彼らに較べると、本当に、私はまるで神様に偏愛されているような気がする。
しかし、それに値することを私がしたのだろうか。何もしていなくて、持っている限りの能力も無駄にしているだけだ。このように云うのは、日本の恵まれない貧しい女の人のことである。
日本を訪れた旅行記の作者たちはその著書の中で、日本の女の人の地位や性格を褒めそやしている。私だけが違う意見を述べたようだけれど、これが私が実感として心に思っていることなのだ。
ああ、一人一人の姉妹の手を取って、襤褸を脱がせ 無知すら救いだし、聖母マリアのそばにおられるイエス様の神聖な足元に坐らせてあげたいと、どんなに熱望することか。


1876年10月23日 月曜日
朝は晴れていたのに、一日中曇りだった。令嬢たちも授業に来て、お逸も三時過ぎまでいた。
私のところに来た手紙を見せたら、お逸はその数に吃驚ていた。
「中原氏、小野氏、矢田部氏……って、これ、みんな相手は日本人よね!?」
日本の少女は手紙を書くことをあまり知らないが、私はとても楽しんでいる。手紙を書いて返事を貰うのが大好きで、このことは私にひたむきな情熱を傾けている。
人は私の文章が上手だと云ってくれる――無論本当だとは断言できないけれど、五年前に書いた手紙が今恥ずかしいように、五年後には今書いている手紙が心から恥ずかしいと思うだろう。
人間は誰もじっと止まっていることは不可能だから、このように進歩もするし、堕落もしていくのだ。大人になったら、この日記を、まさに「ピーコック嬢の日記」に匹敵するものと思うかも知れない。
しかし、あまり自惚れてはいけない。人間は自分について語ることがとても沢山あるので、自分を宇宙の中心と考えるようになってしまう。だから日記をつけていると、つい自惚れてしまいがちになるのである。
「今度うちにも遊びに来てねー」
お逸はそう云って帰って行った。