Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第29回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は「実は矢田部氏との接点があったユウメイ」「徳川家達、クララ邸訪問」「おやお様(将軍のお孫さん)、萌えっこ属性ブーストw」なお話がメインとなります。


1877年3月28日 水曜日
今朝公使館に行ったら、ビンガム夫人はお嬢様が今度の汽船、東京号でお着きになるので、待ち兼ねていらっしゃった。
母は富田夫人と横浜へ行き、私たちの協会の会合日なので、私も出かけた。
今回の開催場所はユウメイの家で、マッカーティー夫人は喜んでおられる様子だった。
少し遅れていくと、スージー以外は皆来ていた。笑顔のマッカーティー夫人に迎えられ、私が持ち物を取り出してみんなに挨拶するとすぐ、今日の議長ユウメイが開会を宣言した。
「それでは、課題の作文の提出をお願いします」
けれど、作文を持ってきたのはエマとガシーとユウメイと私だけで、ジェニーとジェシー、そして遅れて入ってきたスージーは手ぶらだった。
エマのは「グランバック家」に関する全てを書いたもの、ガシーのは「暁」に関するもの、ユウメイのは「日光旅行」、私のは「郵便の来る日」についてだった。
それぞれ批評し合った後、いろいろな作家からの抜粋を読み、後は予定にない、まったく即席の面白いことを言い合った。
それからよい空気を吸いに戸外へ出た。
ふと、ヴィーダー家の人力車の、磨き上げた後部に映っている自分たちの姿を見たら、なんとも変な格好に映っていたので、もうこれ以上笑えないほど笑い転げた。
夕食に呼ばれて入ると、素晴らしく美味しそうなご馳走が用意されていた。
マッカーティー夫人はお祈りをすると出て行かれたので、私たちはお喋りを始めた。
「クララは聞いた? この間、開成学校で開かれた会合での矢田部氏の話」
ジェニーが突然切り出してきたので、素直に「知らない」と云うと、ジェシーがまるでその場にいたみたいに憤慨をぶつけてきた。
どうやら矢田部氏と藤沢氏が外国人も招かれたその会合で、外国人と外国人の道徳と宗教について、とても憎らしい話をしたらしい。
しかも矢田部氏はマレイ博士とヴィーダー博士を名指ししてこう批判されたそうだ。
「この人たちはキリスト教徒であり、職業に相応しい生き方をしていない!」
すぐにイギリス人とアメリカ人が激昂。会合は重苦しい雰囲気が漲ることになったという。
それで私たちも、大人のような調子で話し出した。
エマは矢田部氏に会ったことはないのだけれど、ずっと前に私が冗談に云ったことを一生懸命私に思い出させようとした。でも矢田部さんの欠点なんてどれだけ話したか分からないので、私にはぴんと来ない。
でも、本当に吃驚させられたのは、その次のユウメイの告白だった。
「矢田部さんは私を追いかけていたことがあるんですのよ」
矢田部氏ともユウメイともそれなりに長い間付き合っているのに、そんなこと全然知らなかったので、私はとても吃驚した。
「矢田部氏は、ユウメイが教育を受けた女の子だから結婚したかったんだって。それでマッカーティー氏に頼んだけれど、勿論断られたのだけれど」
ガシーも事の経緯を知っていたらしく、そう付け足した。
「矢田部氏云々ではなく、わたくし、日本人と結婚なんてするつもりはありませんわ」
そう告げるユウメイは、何故かとても女らしい感じがした。
混ぜっ返すつもりか、エマが「清国の人とは私も嫌だわ」と云ったのにも全く怯まない。
私より年下なのに、本当にしっかりしている女の子だ。
帰路はエマとスージーと私が歩きで、ジェシーは子馬に乗ってそばを駆け抜けて行った。
ジェシーが来月の二十五日に余所に行ってしまうので、今度の水曜に私たちの仲間の写真を撮りに上野に行くことにした。


1877年3月29日 木曜日
今日お逸は夕食の手伝いをするため、授業後も残っていた。
ランキン氏と杉田氏の令息がアラスカ号で出発するので、おやおさんとおすみ、それに少年たちの授業はお休みとした。
二人の若い友達がこんなにすぐ行ってしまい、もうここにはいなくなるのだと思うと正直気が滅入る。
それでも、ともかく夕食の準備をした。勝氏と大鳥氏、それに上杉茂憲氏という大名が出席なさり、ランキン氏が上杉氏を紹介して下さった。
上杉氏は六年ばかりアメリカにいらっしゃって、私たちはすっかり忘れていたけれども、中原氏と一緒にうちにみえたことがあるそうだ。とても楽しい夕べだった。


1877年3月30日 金曜日
今朝四時半頃、半鐘の音と人々の駆けてゆく音で目を覚ました。
起きてみるとうちから二街区も離れていないところで炎が立ち上っていた。
風がこちらの方向に向かって吹き、火の粉が飛んでくる。
我が家の危機に瀕し、とても怖かったのだけれど、幸い消防隊の必至の活躍のお陰で六時前には火事は殆ど収まった。
しばらくすると友人たちが来始め「何か援助することはありませんか?」と云ってきてくれた。
夜明け前に“消防士の服を着た十字屋さん”こと原胤昭氏が、提灯を持ってお見舞いに来て下さった。
丁度私は二階の縁側にいて、紋章と声でその呼びかけがすぐに十字屋さんだと分かった。本当に心の籠もった挨拶をしてくれた。
大工さんたちが大挙して出動し、もし必要な場合には家具を運ぶのを手伝ってくれるつもりでいた。
お米屋さんも、杉田家の別当も、松本家の使用人も、それから見知らぬ友達も何人か、その他富田氏、佐藤氏、小泉氏も来て下さった。
我が家を守って下さった神様にとても感謝しているけれど、被災者の方々は本当にお気の毒だと思う。
もっとも日本の被災者たちは、あまり意気消沈した顔はしていないようではあるけれど。
先週の土曜に入港予定だった汽船、東京号は速い船なのにまだ入港しない。


1877年4月3日 火曜日
なんと今日は忙しかったことだろう。徳川家達公を晩餐に招待したのだ!
お逸が泊まりがけで手伝いに来てくれた。デザートに気のきいたものを沢山作って、四時に準備完了した。
二階に上がって着替えをしていたらお逸もやってきてくれたので、髪を梳かし、手を洗った。
間もなくがらがらと音がしたので、窓から覗いたら、人力車の一隊が角を曲がってくるのが見えた。
そのうち徳川公の姿が見え、みんなうちの門の前で止まった。
私たちは急いで階下に下り、六人の青年と握手をした。
六人とは、徳川家達公、大久保三郎氏、竹村氏、滝村氏、須田氏、大久保氏の弟である業氏である。
やがてウィリイが戻ってきたと思ったら、小さな供を連れていた。
「お姉様、来ちゃいました」
そう云いながら顔を覗かしたのは、勝家の梅太郎だった。
普段はもっと“やんちゃ”なのだけれど、流石に今日は大人しい。
お客様たちとも夕食時までには段々と堅苦しさが解れて、みんな楽しくお喋りをするようになっていた。
大久保氏の弟が私の隣に坐っていたのだけれど、外国の少女には慣れていないのだろう。
なかなか話そうとせず、私が会話の糸口を開こうとしても、ただ空を見つめて「ええ?」と云うだけだった。
英語がよくご理解できないのかも知れない。
云うまでもなく会話の中心は、父、母、滝村氏、竹村氏、大久保氏だった。
そういうわけで、実のところ初めはあまり活気がなかったのだけれど、コザーク、つまり引き玉が始まってからは、すっかり空気が和やかになった。
引き玉からは次々に紙の帽子が出て来て、またとないほど雑多な被り物が集まった。
滝村氏がローマの騎士の兜を被り、トーガのように羽織を裏返して着た時は一同笑い転げた。
須田氏は黄色と黒の日本の役人の帽子が行き、大久保氏の弟のはピンクのナイトキャップ、私のギリシャの兜、お逸のはボンネット、母のは綺麗な子供の頭巾、アディのは自由の帽子、竹村氏は道化帽、大久保氏は緑の古い婦人帽、徳川公は子供用のボンネット、梅太郎はピンクの飾りの付いた赤ちゃんの頭巾、そしてウィリイのは騎手帽だった。
お互いに見交わしてはどんなに笑ったことだろう。
この瞬間が「厳粛から陽気」への大転換だった。
夕食後は食堂を片付けてゲームをした。
二人の競技者が目隠しをされて、お互いにスプーンで食べさせっこするのだ。
スプーンの水を相手の口へ入れようとする努力は、あまり滑稽で見ていられないほどだった。
大久保氏と須田氏の番では、大久保氏が須田氏の首に水を流し込んでしまい、一方の須田氏は大久保氏の耳にスプーンを入れてしまった。もうみんなどっと笑いこけるしかなかった。
私は大久保氏と羽根つきをし、それもとても愉快だった。
次に客間へ行って、みんなで水芸をやってみてから、アディと私が「バーディス・ボール」を歌い、ウィリイと私が「ジュアニタ」を歌った。
それからお茶が配られ、九時半には皆帰り支度をして、人力車が疾走して去って行った。


1877年4月5日 木曜日
マッカーティー先生がお帰りになった後、母と人力車で外出し、間もなく気が付いたら上野公園の近くまで来ていた。
それで中に入り、美しい公園内を歩き回って、記念碑から団子坂までくまなく探検した。
丈の高い木々やお寺や、その他、美しいものに囲まれた静かな緑の林の中は、なんと気持ちがよかったことだろう。
茂みと松の木々の間から、赤と金色の豪華な小寺院がちらちらと見える様はまったく美しかった。
角を曲がると突然。くすんだ黒色の高い五重塔がすっかり見えるところに出た。
五階建ての塔が空に軽やかに聳えていたが、周りの緑と青空が背景となって絵のように綺麗だった。
別の地点から見ると、五重塔はよく繁った緑の木に埋まり、あちこち可愛いピンクの花を一杯つけた枝垂れ桜が、周囲の濃い緑とハッキリした対比を見せている。
実に見事な眺めで、下の方に静かに眠っている墓地が厳かな魅力を添えていた。
更に少し行くと、ひっそりとした寺がもう一つあった。
とても美しく荘厳で、清潔で、静寂そのものだったので、私は感嘆のあまり立ち止まって息を飲んだ。
優美な梢が撓んでいる巨大な杉の長い並木道。
この堂々たる自然の大広間の外れにある寺。
その前面には石灯籠が並び、辺りは甘美にもひっそり静まり返って、金色の陽光が木の間を洩れ、それによってできた影と日光の斑が見た目にも快い。
二人の青年がお寺の方へ歩いていった。
長いゆるやかな着物をやさしい春のそよ風になびかせ、無造作に優雅に歩く二人の周りに太陽が金色の光の雨を降らせていた。
この陽光と光景を目の前にしてそよ風に吹かれていると、私はもの悲しいような嬉しいような感情に襲われ、木の下に坐って感極まって泣き出したい気分になった。
それはとても奇妙な感情だった。
更にぶらぶら歩いていくと団子坂に出たが、そこは去年の秋、菊園を見に来たところだった。


1877年4月9日 月曜日
ジョン・バラ夫人がお泊まりになって、私と一緒にお休みになることになったので、ウィリイは勝家に泊まった。
矢田部氏が懲りずに、いつものように訪ねてきたのだけれど、母はバラ夫人に誰だか知らせようとしなかった。
というのは宣教師たちは皆矢田部氏に腹を立てているからである。それでわざわざ夫人には知らせなかったのだ。
夕方ずっと、夫人は矢田部氏と、ご自分の友達がいるイサカについて話しておられた。
矢田部氏が午後十一時に帰ってから、母がかの人物の正体を明かした。
夫人は大変吃驚したけれど、それは私たちが予測したものとは異質の驚きだった。
「まあ! あんな若僧が例の騒ぎのもとだったんですの? みんな気にし過ぎているのですね」
夫人は、有名なる「盗賊の首領」に会っていながらご存じなかったというわけだ!!


1877年4月10日火曜日
昨日、渡辺おふでさんという新しい生徒が来た。まだ17才なのに結婚されている。
お父様の渡辺清氏は福岡県令で、大阪府知事の渡辺昇氏の親戚に当たる。
師範学校、つまり女学校に通ったことがあって、英語を読むのがとても上手だ。
お逸やおふでさんのような模範を目の前にして、うちの最初からの生徒である令嬢たちも、話したり訳したりするのが急速に進歩している。
授業後、風が強かったけれども母と出かけた。
まず長年の慣習に従って、パークス夫人を訪問した。とても優しい方で、うちで庭を作ろうとしていると話したら「お花を送りましょう」と云って下さった。
その後パークス夫人は、骨董品の箱の鍵を開けて見せて下さったけれど、価値のある珍しいものを沢山持っていらっしゃる。
それから、ミス・ペリーのところへ行き、次に富田氏のお宅へ行った。
今日、母に「皇后様の学校である女子師範学校で教師をしませんか?」との勧誘があった。外国の婦人は今まで勤めたことのないところだ。
とても望ましい勤め口なので、母は引き受けることにした。
金額的には月に三十ドル以上にはならず、あまりいい報酬ではないけれど、母は何より教えることに興味を持っているのだ。
杉田氏と滝村氏が、校長の中村直正氏に母のことを褒めて、話をして下さったのである。
本当に神様は私たちに「有益な扉」を何枚も開いて下さっている。
そしてこれは私たちに垂れ給うお慈悲に他ならないのだ。


1877年4月12日 木曜日
いつも日記帳が早く終わってしまう。少なくとも最近はそうだ。きっと書くことが増えているのだろう。
新しい日記帳を買いにヤマト屋へ行ったのだけれど、紙がとても悪くて気に入らないものばかり。
仕方なく、このノートを注文して作らせることになった。なんだか変わっていて糊の匂いがするけれど、これでも結構満足できる。
授業後、お逸と一緒に勝家に行った。
でも、玄関を開けるなり、お逸は端正な顔を顰めた。無言で私の手を引くと裏口に回る。
「ごめんなさい。また父様にお金をねだりに来ている人がいるみたい」
お気の毒に! 毎日勝家には大勢の人が物乞いに押しかけて来るのだ。
お逸とおよねと私は庭に出て、上から下までピンクか深紅色の綺麗な花を一杯つけた見事な椿を眺めた。沢山の桃や桜の木も花盛りだった。
花束を作ってから、お逸に連れられてお蔵へ行くと、そこにはおうちの大事な物がしまってある。
お逸は自分の華やかな彩りの素敵な着物と、豪華な刺繍をした帯を見せてくれた。
また古い本や骨董品と琴があり、お逸たちは琴を家に持ち込んだ。
「お嬢様方、写真を撮らせて頂けませんか?」
義兄の疋田正善氏の勧めで、私はお逸と二人で一つの椅子に坐って撮って貰うことにした。
真面目な顔をしようとするのだけれど、どうしても吹き出してしまう。
何故なら、障子の隙間から梅太郎の黒い目が悪戯っぽく覗いているからだ。
「こら、梅太郎!」
お逸が注意するけれど、彼女も笑っているので説得力に欠けるばかりだ。
それからお逸とおよね、おこまつと私は、辺りに一杯生えている香しい「花嫁の冠」<しじみばな>で頭を飾った。
その後、家の中に入って、絵を見た。
またお逸はお父様の個室へ連れて行ってくれた。
勝提督には、お父様の古い駕籠や古代の鎧、その他、貴重でないにしても、珍しい小間物を見せてくれた。
こんなに沢山の壺やいろんなものを持っていらっしゃるなんて、勝氏は錬金術師なのじゃないかしら?
「うーん、名乗りを上げるなら“骨董の錬金術師”?」
五時半に母が迎えに来たけれど、そのまましばらくいることにした。
お逸とおよねは楽器を持ちだして、二人で月琴を弾き、疋田氏と小太郎が胡弓で伴奏したけれど、この二つの楽器は我々のリュートとバイオリンに相当するものだ。
勝夫人が琴を弾かれ、三種の楽器で日本の国民的な曲「ヒトツトヤ」を奏したのが素晴らしくよかった。
この他に、リュートやバイオリンに歌をつけて独奏したり二重奏をしたりした。
それから勝夫人が月琴を私に渡して下さったので試してみたが、私は扱い方が下手で弦を切ってしまった。
仕方なく今度は、琴を弾いてみたのだけれど、この楽器の音色はとても美しかった。
しかも「主我を愛す」を大変簡単に弾けることがすぐ分かり、おまけに本当に素晴らしい響きだった。
それで帰るまで、みんなで琴の周りに坐ってその有名な賛美歌を歌った。
この日本の楽器がこのような曲を奏するのに使われたのは、これが初めてではないかと思う。


1877年4月14日 土曜日
今日、富田夫人と一緒に松平夫人を訪問した。
高木氏のところにも寄るつもりだったのだけれど天気が悪く、早くから出かけられなかったので時間が足りず、一箇所しか行けなかった。
松平夫人はとてもよくおなりのようで、二つの癌がお体をゆっくり蝕んでいるというにもかかわらず、至極快活で、夜も何とかよくお眠りになれるそうだ。
長居をするつもりはなかったのだけれど、無理に勧められて一緒に夕食を頂いた。
このお宅ではいつも四時に夕食をなさるそうだ。
「急なことで特別なおもてなしは準備できませんでしたけれど、どうぞごゆっくりお食べ下さい」
大人たちが会話をしている間に、おやおさんはアディと私を自分の部屋に連れて行った。
そこはかなり大きな泣き人形から、親指大のちっちゃな人形まで、種々さまざまな人形があった。
松平夫人のお部屋は洋間で、寝台を使っていらっしゃる。
令息は今アメリカにおられるそうだ。
それから私たちは外に出て、絵のような庭園の真ん中にある美しい静かな池で、蟹や小さい魚を捕まえた。
ここの築山と谷はなんと美しく御伽の国のようであることか!
丈の高い木も低い木も、それぞれ一番引き立って見えるように、精密に考えて配置されている。
「きゃっ!」
可愛らしい悲鳴はおやおさんのもの。
蟹を捕っている間に、おやおさんの黄色みを帯びた可愛らしい顔に泥が跳ねかけてしまったのだ。
「クララさん、泥を拭いて頂けませんか?」
困惑の表情を浮かべながら、卵色の顔を向けた様子はなんともいじらしい。
「おやお様、それならわたしが!」
「わたしはクララさんに拭いていただきたいのです」
ここぞとばかりに、おすみが申し出るけれど、おやおさんは首を縦に振らない。
というより、おすみ、いたのね。地の文で全然出番がないからいないのかと。
「おやお様のいるところ、わたしがいなくでどうするのです!」
私はおやおさんの顔を綺麗に拭いてあげた。
すると、今度は「ん!」と可愛らしい声と共に、手を差し出される。
私はその柔らかくてたおやかな手を取り、洗ってあげた。
おやおさんは私と年もあまり変わらないし背丈も同じくらいなのに、本当にその反応は幼子みたいだ。
確かに、お逸は一目見ただけでとても綺麗だと思う。
けれど、おやおさんは愛らしく、だんだんと美しさが増してくる。
帰る前に、おやおさんとおすみと賛美歌を幾つか歌うと、松平夫人は大変お喜びになった。
大名の奥方が作った素敵な財布のようなものを頂いて、帰路についた。