Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

今週も「クララの明治日記 超訳版」その第33回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分
今回分は、コレラ接近の驚異、新たな愉快キャラ吉沢郷党氏登場、そしてメインは「とある人斬りの商業簿記?」なお話がメインとなります。


1877年7月20日 金曜日
夏休みのため、昨日最後の授業をし、今日は父の働く商法講習所の所長である矢野二郎氏を食事にお招きした。
正直に云えば、わたしも父も矢野氏があまり好きではない。
けれど、少しへつらうための政策である。
西田伝助氏、高木貞作氏、上杉氏もみえたが、結局楽しい晩になった。
矢野氏と西田氏は私の音楽を非常に喜んで聞いて下さった。


1877年7月21日 土曜日
今週はいいことが一杯あったのに、暇がなかったり面倒臭かったりしてあまり日記は書かなかった。
日記とは素晴らしいものだ。
けれど、ハリエット・ニューウェルやアン・ジャドソンの日記を読むと、自分の日記に愛想が尽きてくる。
大事な紙を随分無駄にしたものだ。恐らく死ぬ時には、皆焼いてしまっているだろう。
今日とても楽しいことがあった。
滝村氏と大久保氏が昼食にみえて、その後、旧将軍家の吹上御苑へ連れて行って下さったのだ。
ずば抜けて美しいところで、様々な優雅な風景が見られる。
その昔、諸侯が競い合った馬場や、腕前を試す若い貴族が満ち溢れたと思われる弓道場があり、小滝、池、小川、谷、橋、変わった形の木々があたりに風情を添えていた。
これは箱根路の野生のままの熱帯的な混沌とは違って、洗練され手入れのゆき届いた楽しい庭園であり、広さは約三マイル平方もある。
箱根は綺麗な黒い眼の、薔薇色の頬をした野性的な娘を連想させる。
一方、吹上は上品で美しく、才たけた宮廷の貴婦人を連想させる。
大久保氏は新しい帽子を被っていた。
黒いリボンのついた白い麦藁帽は、今年東京の若者の間で大流行のファッションだ。
非常に若々しく見え、とても十八歳より上だとは思えない。
「実はもう二十歳なのですよ」
こっそりそう教えてくれたけれど、とてもそうは見えない。
「何故、自分の名前をいつも“Ohkubo”と綴るのですか?」
ふと、以前から疑問に思っていることを尋ねてみる。
「私の名前を仮名で書くと“オオクボ(Ohokubo)”ですから、最初の先生がこう綴るように教えてくれたのです」
「子音字を二つ続けるのはあまり感じがよくないですよ」
実際そういった綴りをする人は少ない。
随分歩いたので、少し休憩しましょうということになった。
アディが弁当箱を空けると、そこにあったのは桃一個と干し葡萄とお砂糖、そして何故かマッチ一箱。
皆このアディのお弁当に大笑いした。
「マッチの他は全部頂きましょう」
笑いながら大久保氏は云った。
大久保氏とアディと私は若いので、大抵一緒に歩き、父と母と滝村氏は後からゆっくりとついて来た。
大きな石の砦の頂上から東京の素晴らしい景色が眺められた。
我が家も見えたし、海軍省も、その他の名所もいくつか見えた。
ああ、過ぎ去った日々に、どれだけ多くの凛々しげな若い貴族と美しい貴婦人が、この同じ場所から眺めたことだろう。
この大地に、偉大なる将軍と従者たちの雄々しい足音が響き渡ったのだ。
ああ、忠臣蔵の悲劇を目撃した大地よ! 空よ! 川よ! 
畏敬の念に打たれた我らの目と耳に、過ぎし日の驚くべき出来事を、汝らの無数の舌で語れ!
その後、滝村氏のお宅に三十分ばかりお邪魔して帰宅した。


1877年7月25日 水曜日
今年はまだ旅行に出ていない。計画はいろいろあるのだが、皆の意見が纏まらないのだ。
精養軒から食事を取るのは今日が最後で、また奮闘が始まることになった。
疋田氏が万吉という若いサムライを寄越したので、この夏は彼に料理を教えるのに忙しいだろう。
それに大阪からコレラも流行ってきたという! 
祖母が二十四時間のうちに亡くなったのもこの病気だった!
今日上杉氏のお宅を訪ねた。
麻布鳥居坂の綺麗な大名屋敷で、家からの眺望が素晴らしい。
大鳥氏のお嬢さんが上杉氏と結婚なさる予定なのだけれど、さぞうまくいくだろう。
この家は立派でもあるし、上杉氏には太閤様の頃まで遡る純粋な古い日本の殿様の血が流されているのだから。
上杉氏はストウ夫人の本を貸して下さった。絵もお上手でいらっしゃる。
お年を召したお父様と綺麗なお母様に紹介して頂いた後、上杉家を辞して、大鳥家に立ち寄った。
おゆきさんとおひなさんが在宅で、私は外に立ったまま二人と話をした。
「お姉様がお嫁に行かれると淋しいです」
そんなおゆきさんを励ますのも兼ねて、明日二人でうちへ来ると約束した。
またおゆきさんはお父様の別荘へいつか行こうと誘って下さった。
私の生徒の笠原さんはとてもよくやっているが、なんと指の爪の長いこと! 
それから帯は長さ十フィート、幅は三フィートもある。
この新しい生徒は“th”と“v”と“l”などの発音に大変苦労している。
「日本には、badgers(たぬき)が沢山います」
この文章が、笠原さんの口を解するとこんなにも意味が変わってしまう。
「日本には、bad girls(悪い少女)が沢山います」
本当に大違いだ。
でも、とても親しく自由に話をするので、私もその仙台弁に慣れてきた。
一昨日自分の写真をくれたので、私のアルバムには美男子の写真が一枚増えた。


1877年7月26日 木曜日
今日はなんて風が強いのだろう。北から吹く本当の暴風だ。
雨も土砂降りで、戸が開いてしまいそうなのを押さえるのに苦労し、張り出し窓からはひどく雨が染みこんだ。
夜までにやんでくれるといいと願ったが、むしろ激しくなるようだ。
こんな嵐では、大鳥姉妹は無論おいでにならなかった。
しかし渡辺ふでさんが別れを言いに来た。
「明日横浜から福岡に出航する予定なのですけれど、東京を離れるのは悲しいです」
必ず手紙を書いて、刺繍した作品を送って下さると約束なさった。
私は聖書をあげ、母は詠唱入門書と自分の写真をあげた。
今朝の東京日々新聞にこんな記事が載ったらしい。
「東京商法講習所のホイットニー氏のために楠本東京府知事主催の宴会が催された」
父は月曜日に晩餐会に行ったのである。
ちなみに楠本東京府知事も、おふでさんのお父様と同じ大村藩出身の方だ。


1877年7月27日 金曜日
いろいろの家事を済ませた後、母が帽子を被って云った。
「一緒に開拓使まで来るように」と。
風がかなりひどくて、途中は大変だった。
開拓使では役人が輸出用の林檎を包装しているところで、母に沢山質問をした。
果物はアルコールに漬けておくので、林檎は萎びて干涸らびていた。
母がうちでは水に漬けて保存することがよくあると話すと、主任が感嘆して云った。
「ほう! そんなことができるのですか。もしそうならやってみましょう。
随分安くつきます。何しろアルコールは一瓶四十セントで、一ドル分のアルコールに五個以上は漬けられませんが、水はとても安いですからね!」
彼らは母の話を聞いて大喜び。そっとヤスに、彼らは尋ねた。
「奥様は本当にそういうことを皆自分でするのか? それとも実際には使用人にやらせているのか?」
無論私たちは自分でやっているのでそのように答えると、何故かとても嬉しそうだった。
日本人は、外国の女の人は何もしないで、使用人に全部押しつけると思っている。
次に麻布の三番農場へ行って粉末クリームを買ったが、変な臭いがして味はもっとひどかった。
三番は一番や二番には劣るが、乳牛の数は多い。


1877年7月28日 土曜日
昨夜は本物の台風が荒れ狂っていた。
それでも今朝はもう出て来ないのではないかと思われた太陽が顔を出した。
使用人がテイとヤスだけになったので、仕事は山のようにある。
新しい料理人の万吉はバターとチーズを見たら気持ちが悪くなって、逃げ出してしまったのだ。
勝家の人々は万吉の弱虫加減を大笑いした。
万吉は「四日経ったら戻る」と約束したのだけれど、後になって「郷里の新潟の近くの越後に帰る」と言い出した。
とても丁寧で、正直そうないい人だったので、残念で残念で仕方がない。


1877年7月30日 月曜日 
今日、母とウィリイが横浜へ行ったので、私が家を片付け、皿洗いを手伝った。
笠原さんは今日も来なかった。
ウィリイが来るなと言ったのかではないかしら? 
ああ、私が大好きな人は皆去って行ってしまう!
ミカドと皇后様は今朝京都からお戻りになったので、首都の家や街には旗が翻っている。天子様がお戻りになって人々は嬉しそうだが、天子様が何処においでになろうと、たいていの人々にはあまり関係ないことのように思われる。
今日神田家のお嬢さんに会いに行ったがお留守だったので、水曜にうちに来るように言づけを残してきた。
神田氏の家は立派な大名屋敷である。


1877年7月31日 火曜日
今日は一日中台所仕事で忙しかった。
家の中のことをする使用人はテイだけだが、ヤスがよく手伝ってくれる。
午後母とアディが出かけた後でケーキとパイを作り、カステラをまた作ってみた。
外観が綺麗に出来上がり、得意になっていたが、切ってみたら中は黒くてぼてっとしていたので、すっかり悄げてしまった。
テイが五時半頃に江戸橋に出かけたので、一人ぼっちになったが気にせず、お皿を全部洗って部屋を綺麗にした。
六時頃お逸が刺繍作品を持ってやって来たので、二階に上がって露台に坐っていたら、突然ひどい夕立が降ってきた。
「さてと。もう帰らないと」
「待って、母が帰ってくるまで待ってよ、お逸」
「でも何も云ってこなかったし」
「じゃあ、こうしよ? もし今度通る人力車がママのだったら帰っていいし、そうでなかったら今日は泊まりなさい」
「ええ、いいわよ」
それで一生懸命待っていると、次に来たクルマは母のではなかった。
従ってお逸は新左衛門をうちに帰して、今夜泊まると伝えさせた。
私たちはいろいろ話をして時間を潰した。
お逸は雨を降らす竜が本当に居ると信じている。
日本神話の大海竜も信じていて、実際に竜を見た人のことを真顔で話すので、わたしは衝撃を受けた。
それから狐や猫の精が人に乗り移ることも信じている。
尾の三本ある大きな黒猫に取り憑かれたご隠居の本当にあった<?>話をしてくれた。
それは見破られ、食事中にご隠居の財産の管理人に襖越しに槍を突き立てられて殺された。
ご隠居が化けていた物は女の姿になって死んだが、三日後に胸に槍の疵痕のある、三本の尾の大きな黒猫が庭で死んでいるのが見つかったという。
神様の話を聞き、神様にお祈りを捧げて、キリスト教徒と交際している人が、そんなことを信じているなどと考えるとぞっとする。
しかし考え直してみると、そんなに酷いことでもなさそうだ。
「全部本当にあったことなんだからね!」
お逸の真顔を見ていると、そのように思えてくる。
暑くて眠れず、私たちは十二時まで石のベランダで過ごした。
お湯がなかったので浴室へタオルを持って行って、井戸から汲みたての冷たい水で身体を洗いっこした。
お逸は私のベットで眠り、私はアディのベットで眠った。
ベッドに入る時はまたいろいろ愉快なことがあった。


1877年8月1日 火曜日
夕べはぐっすりと眠って、七時過ぎまでは目覚めなかった。
おやおさんとおすみが来て、私はおやおさんとお逸に音楽の授業をした。
午前中に高木氏がお別れを云いにおいでになった。
松平定敬氏の領地である桑名へ、一緒について行かれるのだ。
そうそう、二、三日前のこと。松平氏自身もうちに見えたのだ。
「義妹のおやおを教えて頂き有り難うございます」
「?」
私は首を捻る。
松平家の家系は複雑に絡み合っていて、正直誰が誰の親戚なのだか全然分からないのだ。
きっと何処かで血筋の繋がりがあるから「義理の妹」という表現を使ったのだろう。
松平氏はご病気が悪く、日本中を旅行して保養なさるのだそうだ。
九州の熊本にもお寄りになる予定なのだという。
だから帰り際に高木氏は、笑顔でそう云われた。
「西郷さんの首をお土産に持ってきますよ」
当然冗談なのだけれど、それにしては物騒な物言いに私はヒヤリとする。
昼食後、神田家のお嬢さんがみえたが、すぐ帰られた。
大鳥家のおひなさんとおゆきさんは五時に来た。
四時から行われた芝の祈祷会に出ていたので、大分遅くなったのだ。
一緒に遊んだり、歌を歌ったりしていると、おゆきさんが私に頼み事をしてきた。
「クララさん、私にも音楽を教えてくれませんか?」
でも、母が何故か大鳥家のお嬢さんたちを嫌っているので、私も教えるわけにはいかない。


1877年8月6日 月曜日
モクリッジお祖母さんがコレラで亡くなったのは、今から丁度二十八年前のこと。
発病から、たった六時間後だったそうだ。
今これと同じ恐ろしい病気が東京に向かっているというので、皆大変心配している。
日本はこのような病気にはうってつけの場所だ。
というのは、日本人は身体や家は非常に清潔にしているけれども、疫病を育てるのに最適な下水や便所が至るところにあるからである。
首都では凄い勢いで広がることだろう。
どうかここまで来ませんように。
今朝、開拓使の役人、吉沢郷党氏がきらきら光る絹の羽織姿でうちに現れたのでとても吃驚した。
「どうぞゆっくり、暇ですから待っています」
朝食をとっている時だったのでそう云われたのだけれど、その言葉通り、一時までずっとおられた。
「キョウトウ・ヨシザワ」
そう英字で名前を書いた自分の写真と、手製のブランデー漬けの桃とカステラを一箱下さった。
吉沢氏は愛想がよくてお世辞がうまい。
幸運にもあの日、母が行った時には、何日も前から見事な桃の腐ったのが地面にごろごろしており、どうしたらいいか誰も分からなかったそうだ。
「しかし今はこちらの奥様が保存法を教えて下さったお陰でとても助かっています」
にこにこしながら、吉沢氏は云った。
随分長くいるので、私たちは代わる代わる客間で対応した。
私が寝室を整えている間はウィリイが、ウィリイが二階に行くと私が下りて来てお相手をし、日本で問題になっている事柄について沢山話をした。
「外国の商人は、日本に古いがらくたばかり送ってきて困ります。古い汽船、古い汽車、古い服や上着や帽子や靴。そんなものばかりです」
吉沢氏が云う通り、事実、時代遅れで売り物にならないものばかりが日本に来ている。
「特に蒸気船が!」
やけに力を入れてそう云うので、詳しく聞いたら凄い経歴の持ち主だった。
「私は乗った汽船が二度も沈んだり爆発したりしているのですよ? もう二度と汽船には乗るものですか!」
そう云う割に、船客が吃驚した時の描写は生き生きとして面白かった。
飛び上がり、目をくるくる回し、唇を曲げ、引き裂かんばかりに羽織を掴み、ただもう怖かった時の様子をして見せた。
私はきちんと坐っていられないほど笑い転げたので、吉沢氏は自分の無言劇の上手さにご満足のようだった。
「洋服に関してもそうです。日本人が古い物を掴まされ、外国人はそれを見て笑うから、洋服など絶対着るものですか!」
確かに。
そう云えば、杉田家の大先生もとんでもない洋服を着ていたっけ。
髪は洋風に刈ってあるのだけれど、前にしていた髷のことを誇らしげに語られた。
それは察するところ、どうやらまさに棍棒のような形のものだったらしい。
大きな髷は地位と富の印なのだそうだ。
「また近いうちに来ます」
そう云って帰って行かれた。面白い人だ。


1877年8月7日 火曜日
今朝、朝食直後にダグラス夫人がみえたので驚いた。
母に一緒に開拓使に行って欲しいというのだけれど、通訳役の私が午前は行けないので、お昼まで待って頂いて、その後すぐに出かけた。
人力車の車夫たちと随分揉めたが、こんなことは今までになかったことだ。
ダグラス夫人は何もかもお気に召さないようだった。
昨日吉沢氏がうちにみえたので、今日は行かないつもりだったのだけけど、役所に着くと、お辞儀の多い役人たちにすぐ見つかってしまった。
花を買いに花畑へ行ったが、ダグラス夫人の態度はひどかった。
何か厭な臭いでもするかのように、鼻を上に向けて歩き回り、思いつけばどんな不愉快なことでも私に通訳させようとした。
訳すのは構わない。
構わないけれど、たとえどんな相手にでも乱暴な言葉を使うのは、わたしは大嫌いだ。
しばらくしてから「野菜を買ってこい」と云われて役所に戻ると、吉沢氏と他の数人の役人がいて、丁寧に挨拶し、席を譲ってくれた。
私は長い間、面白半分に目と耳を働かせながらそこに坐り、黙って彼らの冗談を聞いて楽しんでいた。
彼らは私をどうもてなしたらよいのか気になるらしく、ドイツ語と英語の農業関係の無味乾燥な本を沢山持ってきて「読めますか?」と尋ねた。
「一冊だけ読めない」
そう云うと、とても驚いていたが、彼らにはドイツ語も英語も同じに見えるようだ。
吉沢氏は、林檎の様々な種類が日本語のカナで書いてある本を持って来て云った。
「英語で、それも筆記体ではなく活字体で書いて頂けませんか?」
ダグラス夫人が入って来た時、なんという婦人かと聞かれたが、私は勘定書きのことだと思い、即座に「四十セント!」と答えたので、役人たちが皆お腹を抱えて笑った。
今夜、お逸がうちに泊まりに来たので、縁側でゲームをしたり、なぞなぞ遊びをしたりして過ごした。
お逸に虫拳という面白い遊びと謎々を教わった。謎々は次のようなものである。
「広いザシキに貝殻がどっさりあって、真ん中に黄色い瓢箪のあるものはなあに」。
答えは「ザシキは天空で、貝殻は星、瓢箪は月」である。
他にも面白い謎々がいくつかあった。