Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第34回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、明治の日本人外交官の素晴らしい切り返しのお話&内国勧業博覧会の話お話がメインとなります。


1877年8月16日 木曜日
このところ、家中を、日本人の言葉で云うと“ソウジ”で忙しかった。
食堂と寝室三つを大掃除したのだが、大部分は母と私でやった。
先週の金曜日、矢野氏が畳を替えてくださると約束なさったので、ほぼ一週間も畳を上げて待っているのにまだ来ない。
お逸はこの頃ほとんど毎日来ているが、珍しくお父様の勝提督に愚痴を云っている。
「なんでよ! 作ったのは私なんだから、お父様は関係ないじゃない!」
このところずっと製作に掛かりきりだった刺繍作品がなんとか出来上がり、出品するばかりになったところ時にお父様から“マッタ”が掛かったのだ。
なんでも、ある政治的な理由で、名前を出すのを拒否されたのだ。
拒否したのが政府側ならお逸もこれほど怒らなかったのだろう。
けれど、それを云ったのが他ならお父様だったことがショックだったらしい。
今日の午後、富田家へ奥様に会いに行ったが、杉田家に出かけておられた。
それで手紙を書くとすぐにお返事が来た。
「ドウゾ、イラシテクダサイ」
それで出かけてみると、杉田家では武さんのお帰りを待っておられるところだった。
アメリカに行かれてたった二ヶ月で帰ってこられることになったのだ! 
「どうも肺を悪くしたようで、養生のために帰国することになったのよ」
富田夫人はそう教えてくれたけれど、こんなに早くお帰りになるとは思ってもいなかったので、私はとても吃驚した。
ご家族は大変心配そうで、邪魔になるといけないから、私はすぐ帰った。
それに武さんもお疲れで、ご家族の方以外には会いたくないだろうと思ったからだ。
とにかく、こんなに早く帰国なさるなんておかしな話だ。
どうかひどい病状ではありませんように。


1877年8月21日 火曜日
今日はミカド、皇后陛下と内閣の主催する東京博覧会、つまり内国勧業博覧会の開会式の日だ。
昨夜は涼しくて気持ちよく、非常に眠りやすい晩だった。
今日は曇りで、とても涼しい。
昼食後、杉田家に出かけることにし、途中でお土産として外国の西瓜を買った。
家族は全員在宅で、武さんが――どちらかと云えばお痩せになったようだが――前と殆ど変わらぬ姿で入って来られ、ご病気のことと、これまで聞いたことのないような事柄について話し始められた。
胸の病気の方はよくなっておられるが、その他いろいろのことがあったらしい。
武さんのお母様は、武さんが箱に入れられて帰って来ると思っていらっしゃったという。
武さんのお友達が心配して福沢氏に手紙を書き、福沢氏がお母様に武さんの喀血のことを話されたのだ。
しかし今は快方に向かっていらっしゃる。
向こうの人について沢山面白い話をなさった。
最近アメリカでは日本に対する関心が高く、あちこちから質問攻めにあわれたようだ。
「日本人はいつ髪の毛を切ったのか?」
「日本ではずっと昔だ」そう答えると、ヤンキーは次のように云ったという。
「へえ、驚いた! 東洋人は皆弁髪を結って、絹の着物を着ていると思っていた」
武さんは「今では日本人は髪を切り、洋服を着ているのですよ」と教えるのが楽しかったそうだ。
吉田清成公使に関する珍談がある。
ある日吉田氏がホテルの応接室にいると、二人の外国人がやって来たそうだ。
しばらく話をしていたが、やがて一人が吉田氏に近づき「お名前は?」と尋ねた。
「ヨシダです」
「なんですって?」
「ヨシダです」
公使閣下は辛抱強く繰り返す。
その人は更にもう一度名前を云わせてから「ヨシダ」と呟きながら友達のところに戻っていき、とんでもなく失礼な発言をした。
「野蛮で未開な国は、名前を一つしかつけさせないのだな」
吉田氏はこれを耳にすると、すぐに「あなたは誰ですか」と聞いた。
「牧師です」
「キリストには何人使徒がいたか教えて下さい」
「勿論十二人」
「その人たちの名前はなんでしたか」
すると聞きたがりや氏は、ヤコブ、ペテロ、ヨハネ等々と列挙した。
そこで吉田氏は、澄まし顔で云われたそうだ。
「とてもおかしなことを教えてくれましたね! 名前が一つしかないということはら、キリストの使徒は皆野蛮人だったというわけですね」
その人はかんかんに怒ったが、吉田氏は以前と涼しい顔。
「いいえ、あなたがご自分でそう教えて下さったのですよ」
そのオランダの新教の牧師は赤くなって恥じ入ったということだ!


そのような方面での、アメリカ人の無知と無礼にはまったく驚く。
武さんはこのように低俗で好奇心の強い人々と随分接触なさったらしい。
サンフランシスコで清国人に対する暴徒に出会い、殺されるかと思うほど脅されたようだ。
四日の独立記念祭にも出席し、アメリカ初の大祝典もご覧になった。
リビーおばさんやロジャー夫人などにもお会いになった。
アメリカ人みたいに車に飛び乗ろうとして何回か落ちたが、努力の末うまく出来るようになられたそうだ。
日本でのように好意を示してくれない人々と交わったりして、察するにかなり辛い目に遭われたらしい。
何しろ杉田玄瑞氏のような素晴らしい方の令息として大事にされ甘やかされて育った方だから。
十八歳の弟さんが入って来られたけれど、初めて私たちに興味を持たれたようだった。
やはり青白い顔をしているが、武さんよりはずっと男らしい感じの方だ。
このほっそりとした黄色人種若い人たちの中に混じって床に坐っていると、太った手足と短いむちむちとした指を持ち、右頬に小さな腫れ物のできた幅広い丸顔をした自分が「巨人」みたいに感じられる。
武さんは、およしが望み通り英語を習いにうちに来てもよいと云われた。
アメリカへまた帰りたがっていらっしゃる。


1877年8月22日 水曜日
おやおさんとおすみが七時半に来たが、私も早起きしていて助かった。
お祈りの後、三浦夫人がみえたが、今日は赤ちゃんを連れていなかった。
変わった感じの扇子を下さったが、私たちのように大分日本に住んでいる者にとっても珍しい物だった。
今日のおやおさんを見てとても嬉しかった。
三浦夫人と優雅に応対し、落ち着き払って通訳して下さったのである。
一年も習っているのだから当然とはいえ、習ったことを実によく理解している。
母も私も大得意になった。
午後開拓使へ行くと、吉沢郷党氏がにこにこ顔で迎えて下さった。
バチェルダー氏もおられたが、役人たちは母と私を特に丁重に扱ってくれた。
吉沢氏は贈り物として巨大な西瓜を下さり、私たちはとうもろこしと葡萄を買った。
吉沢氏が貯蔵していた桃は、缶に入れておいたもの以外は、皆駄目になってしまったそうだ。すももの保存の仕方を習いにうちに来たいと云われた。
パチェルダー氏は葡萄について話をしようとなさったが、長年この国におられるのに、日本語でも最悪の言葉を少ししか話せない。
日本人のような礼儀正しい国民の中にそんなに長くいるのだから、日本人の優雅さを少しは見習うべきだと思う。
とてもひどい振る舞いをするので、私は役人に謝らなければならなかった。
今まで外国人と日本人を較べて考えたことがなかった。
確かに我々は身体的に、そして多分知的にも勝っている。
――しかし東洋人は、少なくとも人前で撮るべき態度をちゃんと心得ている。
骨董屋の一人が困ってうちに助けを求めに来た。
彼は築地四十八番地に住むある外国人に花瓶一対を売ったのだけれど、その外国人は「手元にお金がないので、明日取りに来てくれ」と云った。
それで翌朝行ってみると、なんと!
「そんな花瓶なんて買ってない、花瓶なんか一つもない」
そう云って荒々しく彼を追い返したという。
なんと恥ずべきことなのだろう!
それも外国人がそんなことをしたなんて! 
肉屋のジョン・ホールという人だ。
他には、洗濯屋の親戚の女の人も来た。
主人がある清国人のために大工仕事をしたのだが、その賃金のことで揉めているので、うちに助けを求めに来たのだ。
どんなに貧しかろうと、私たちがこの人々の役に立てるのも神様の思し召しだと思うと嬉しい。


1877年8月23日 木曜日
午後日本博覧会へ行った。
思ったほど大きくはなかったけれど、なかなか素晴らしいものである。
出かけたものの刻限的にかなり遅かったので、全部見るには時間が足りなかった。
一番惹きつけられたのは美術館だったのだけど、日本人にもそうだったらしく、人が大勢いた。
ゆるやかな着物を着て扇子を広げ、自分自身が彫像のように立って見とれている者もいた。
私も美しい展示物の前を離れるのは辛かった。
東館に入ると、木綿や缶詰めの果物その他つまらないものがあった――しかし綺麗な寝室用品一式もあった。
機械館では日本人の発明した織機を見えた。
園芸館には矮性の松の木と奇妙な形をした植物が沢山あった。
農業館には、いろいろの地方から集めた種と果物があって面白かった。
動物部門は、恐ろしそうな牡牛と馬がいてつまらなかった。
美術館に次いでよかったのは西館で、立派な陶器や漆器琺瑯引きの器や、象嵌細工の家具や綺麗なものが無数に展示されていた。
富田夫人の作った枕があったが、あまり見栄えがしなかった。
ここで見物していると、辛抱強い子羊のように私たちの後からついて来たウィリイに、若い日本人が歩み寄って、こう云った。
アメリカの方ですか?」
「ええ」
フィラデルフィアの博覧会でお会いしましたね」
「え? 私たちはその一年も前から日本にいるのですよ」
それでもその人は諦めず、私たちの後、特に婦人たちの後に執拗について来た。
小柄で綺麗な顔をしていて、利口そうな表情をしていたが、極めて無遠慮だった。
二度も「どこに住んでいるのですか?」と尋ねてきたけれど、私たちは答えなかった。
どの展示物も、それぞれよく見なくてはならないのに、私たちはざっと見ただけだから、そこにあったものの描写を、今上手にできないのは当然である。


1877年8月24日 金曜日
昨夜はなんとも暑くて暑くて、二時まで誰一人一睡もできなかった。
アディはすっかり暑気あたりをしている。
松平定敬氏のお使いで小泉氏がみえた。
「蕎麦菓子の作り方はないだろうか?」
松平氏は今とても体の具合が悪く、血をお吐きになるので、何を召し上がってもおいしくないそうだ。
静養のために精養軒にお泊まりになる予定だ。
母とウィリイとアディは横浜へ行き、私だけが残った。
お逸を訪ねたのだけれど、留守なのでがっかり。
勝夫人と他の家族の方々がとてもよくもてなして親切にして下さったのだけれど、なんだか変な感じ。
いつも誰か英語の話せる人がいるのに、今回は自分の知っているだけの日本語に頼らなくてはならなかったからだ。
英語で話すと通じないので、恥ずかしいのも忘れて日本語で一生懸命お喋りをした。
すると夫人は大変喜んで下さった。
屋敷中を案内して下さったけれど、特に、一人の少女がお琴の稽古をしているところを見学した。
先生は盲目の老人で、ひどく声が潰れていた。
小さな少女は、とても苦しそうに足先を外に向けて畳の上に坐っていた。
長い間お邪魔してから帰宅すると、露台で本を読んでいる富田夫人がみえた。
夫人のお話によると小野寺氏が清国から帰られたそうだ。矢野氏や原川氏よりも懐かしい、前の理事の方だ。
森氏が清国にいらっしゃるので、今夜お宅で大きな会合が開かれている。
立派な紳士たちが馬や人力車で入っていくのがさっきから見える。
夕方、愛宕山のマツリに行って、とても面白かった。
神前のグロテスクな踊りを見、輪になって太鼓を奏している神官たちの音楽に耳を傾けた。
私たちを見ると何故か彼らは笑い出して、笛が吹けなくなってしまった。
楽しく過ごして十時に帰宅したが、家から一町ばかりのところまで来た時、人力車の提灯が壊れ、巡査が来たので降りて歩かなくてはならなかった。


1877年8月31日 金曜日
この一週間横浜のヘップバン家へ行っていた。
私が土曜に行くよう母が先週の金曜日に打ち合わせしておいたのだ。
ヘップバン先生のお宅では、本当に素晴らしい日々を過ごした。
夫人は大変優しくして下さり、先生と私は五時にクローケーをして、毎日住吉町の協会へ行った。
ハツとサダとはよく庭で遊び、タマにエプロンを作ったりして面白かった。
ヘップバン先生の弟子に門屋さんという医学生がいるが、やはり音楽に秀でていてクリスチャンでもある。
ヘップバン夫人は私たち二人に、協会の賛美歌を一緒に練習させた。
それは門屋さんにはっきり覚え込ませるためだったのだけれど、私はとても楽しかった。
この門屋清吾さんは友達として面白いが、声も良くて、私たちが二人で歌うとヘップバンご夫妻はお喜びになった。
ハツとは羽根をついて遊んだりした。
そして私は石榴から素敵な飲み物を発明した。
汁を漉してお砂糖と水を入れたら面白い飲み物ができあがったのだ。
夫人はとても喜んで召し上がって下さった。
けれど、ヘップバン先生は対照的で。
「石榴の木の根はサナダ虫の駆除に使うから嫌だ」
どうぞと差し出しても、首を振るばかり。
「いや、結構。私には虫などおりませんから!」
ハツも好まなかったが、サダと門屋さんには好評だった。
ざくろレモネード」とは門屋さんが名付けた名だ。
皆私のこの調合飲料を面白がって、ご夫妻は来る人ごとに話し、大笑いされる。
門屋さんは瓶詰めにして「ホイットニーのざくろレモネード」と銘打ったら? と云われた。


コールズ夫人が一度車で外出に連れて行って下さったが、私はこの方があまり好きではない。
よくない人だという感じがするし、ヘップバン夫人も「本当に嫌な人」と云われる。
人をなんでも思った通りにさせたがるのだ。
私と同い年の妹さんはとても放埒で、裳裾を引きずり、舞踏会に行ったりもする。
挙げ句の果てに私に向かってこう云うのだ。
「あなたも長いドレスを着て、大人っぽい髪型にしなさいよ」
とんでもない!
私が今まで理想としてきた女性はそんなものではない。
「貴方のその真面目過ぎる生活なんて、つまんないでしょ?」
私の方こそ、彼女の生き方なんて真っ平だ。
これですっかり私は満足しているのだから、放って置いて欲しい。


ある晩、先生と住吉町へ行った。
風と埃がひどいので、私に引き返した方がいいと云われたが、引き返さないでよかったと思う。
満月と美しい星空のもとを、ハツと門屋さんに挟まれて歩いて帰ったのはとても楽しかった。
星について話をし、丘を上りながら、先生に色々質問をした。
門屋さんは自分でその方面の勉強をしている。
翌朝、リッチモンド師の「自然の驚異」という本を持って来て下さり、またこの国特有の軟体動物「海の月」について話して下さった。
ヘップバン先生は、インテナショナル・ホテルに立ち寄り、アイルランドの夫人と紳士を日本の礼拝に連れて行かれた。
その婦人は大変好奇心が強く、日本について私に多くの質問をした。
街のものすべてに目を留め、一人の男の人が青と白の幅広い縞柄の典型的な日本の夏のキモノを着て入って来ると「あれはどういう人なの?」と尋ね、スシや、通りかかったドーナツ売りのことも質問した。
私は自分の知識を披露するよい機会に恵まれ、その婦人がすっかり感心したのでとても嬉しかった。
昨日の午後、庭で花を摘んでいたら母が迎えに来たので、旅行鞄を詰め、最後の「ざくろレモネード」を作った。
それから門屋さんに「さよなら」を云い、写真と交換にうちの住所を教えた。
東京に勉強に来る予定だというので、うちのオルガンで練習したら楽しいだろうと思ったからである。
昨日は私の十七才の誕生日なので、帰宅したら母が綺麗な尾張名古屋の扇子と「小古典名作集」2巻、アディが可愛い小さな銅版画をくれた。


1877年9月1日 土曜日
今日の午後、母と父とアディと勝家の梅太郎と私とで博覧会に行った。
行ったのは良いのだけれど、今日は入場料が三セントの日。会場はひどく混んでいた。
そしてその結果、貧しげな群衆が私たちを見物の対象にするので、極めて不愉快だった。


1877年9月4日 火曜日
一週間の気晴らしをした後、また家にすっかり落ち着いている。
梅太郎は今日まで泊まって行ったけれど、我が家に彼がいるととても楽しいと云うことが分かった。
うちもヘップバン家のように清潔で落ち着いた家にしようと思っているが、うまくいきそうだ。
ヘップバン夫人は素敵な手紙を下さって、ご自分のことを私の「おばあちゃま」とお書きになっている。
ああ、本当にお祖母様だったらいいのに。
夫人は西瓜が大好物なので、私たちは夫人に開拓使の西瓜を送ったのだ。
「夫はここ四年間で食べた以上の量の西瓜を一度に食べたわよ」
夫人はそのように優しくお礼を書いておられる。


1877年9月7日 金曜日
昨日母と横浜へ行くつもりだったが、雨で取り止めたので今日行った。
とてもよく晴れた申し分なく爽快な秋の朝だった。
お昼頃暑くなってきたけれど、不快と云うほどではなかった。
同じ客車の中でミス・キダーに会い、母は話をした。
アディは日本人の一行と無理して近づきになった。
居留地では二、三箇所しか寄らず、まっすぐ山手地区へ行った。
ヘップバン夫人はお待ちかねで親切にして下さった。
母と夫人がずっと話をしている間、アディと私は珍しいものもなく、かなり退屈してしまった。
ハツとサダに会いに行ったがあまり面白くなかった。
門屋さんにも会って井戸のそばで少しお喋りをしたていたのだけど、彼は咎めるように云った。
「この夏はもう来ないと云ったではありませんか!」
だから私は予定を変更して来た理由を説明しなくてはならなかった。
ヘップパン夫人が「二階に行ってご覧なさい」と云うので行ってみたら、ハンカチの箱があって、ピンクのものが入っていた。
それは私の誕生日の贈り物で、綺麗なピンクのスカーフ――フィラデルフィア製の本物だった。
母たちは一日中ウィリイのことを話していた。
ウィリイは医学博士になるため、横浜のシモンズ博士のところで勉強することになったのだ。
夫人が母に云われたそうだ。
「もしクララさんが自分の娘だったら、日本人のために駄目にならないうちにアメリカに送り還すでしょう」
楽しく汽車に乗って家に帰ってみると、杉田武氏がお土産を沢山持って来ておられた。
母は大きな肥前焼きの鉢、父は漆器の煙草入れと菓子一折、ウィリイは豆本、私は真紅の綺麗なスカーフ、アディは可愛いピンクのネッカチーフを頂いた。
帰国して初めての外出だったそうだ。