Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第39回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分明治10年8月分明治10年9月分明治10年11月分明治10年12月分明治11年1月分
今回分は、クララの母アンナと宣教師達のいざこざ、またも発生したホイットニー家での使用人との揉め事、矢田部氏の結婚話などが主な話題となります。


1878年1月20日 日曜日
今朝はウィリイやアディと一緒に、日曜学校へ歩いて行った。
メイが時間までに現れなかったからだ。
日曜学校でも見かけなかったので、多分お休みしたのだろう。
真面目なユウメイが珍しいこともあるものだ。
ところで、ユウメイの義父であるマッカーティ先生が私たちの家の真向かいの森氏の家に入ることになったのは嬉しい。
つまり、ユウメイとは「お隣同士」になるわけだ。
それと。
森氏が清国で殺されたという噂は嘘と分かってよかった。
本当だったら、形式上森氏が借りた家に住んでいることになっている私たちは路頭に迷うしかなくなってしまうからだ。
クラレン先生は横浜へ説教に行かれたので、今日の日曜学校の先生はインブリー氏だった。
パウロ改宗の話で、とても面白かった。
礼拝ではタムソン先生のお説教があったが、私は風邪で気分が悪くなり、お説教の前に帰ってきてしまった。


備前橋を渡っている時に、袱紗に包んだものを手に持った少女に出会った。
彼女は下駄履きでゆっくり歩きながら小さい声で歌っていた。
すれ違ったときに私の耳に入ったのは「偶像を崇拝する事なかれ云々」という言葉。
ちょっとした出来事だったけれど、私は思わず目頭を熱くした。
可愛いお嬢ちゃん。
あなたが何気なく口ずさんだ歌の意味が分かっていらっしゃるのでしょうか?
そして十戒を守っているのでしょうか? 
私は道を歩いている貧しい身なりの飢えたような人々と、その向こうに建設中の巨大なお金のかかった寺院――偶像礼拝のための寺院――と見比べて溜息をついた。
女の子は歌っている言葉の意味が分かっていなかったのかもしれない。
しかし、それでも思いがけないところで少女の歌を聴いてとても嬉しかった。
前にも一度家の門の前を通っていく人が小さい声で歌っているのを聞いたことがある。
「イエスは死者を愛し給う――天国の扉は打ち開かれ」
勿論日本語ではあったのだけど、ホームシックにかかっている私の耳には、その曲が懐かしく響いた。
奇妙な異国の歌、酔っぱらいが通りすがりに怒鳴っていく声、鼻歌交じりに帰って行く労働者の声、何やら呟いている陽気な男の子の声――私はそういう音を聞き飽きているのだ。
私の耳には故国の歌、とりわけ神様を讃える歌が懐かしい。


次に書くことは日曜日に関係のないこと。
月曜日にも火曜日にも金曜日にも関係のないことなのだけれど、私の気持ちを滅入らせ、悲しませること。
始まりは一年ほど前のことだ。
イービー氏が来て、宣教師仲間に流布させている、母についてのちょっとしたよくない噂話のことを母に話した。
こんなことを書くのは辛いけれど、事実なのだ。
母が日本人の間で受けがよくて影響力があることを宣教師たちは嫉妬しているのだ。
彼らから見れば、そういう仕事は宣教師の仕事なのだ。
母は、彼らの生徒を横取りしたり、彼らと関係のある人を自分の方へ誘ったりなど絶対にしていない。
それにもかかわらず、母が宣教師の権利を侵害していると感じているのだ。
それで祈祷会の席で、誰かが何の根拠もなく言い出したそうだ。
『ホイットニー夫人は宣教師たちに関するゴシップを故国に書き送っている』
その席に居合わせたイービー氏にその話をされ、イービー氏が母に話しに来たというわけだ。
母はそこでミス・ヤングマンに聞いたら、確かに母の噂が出たということを認めた。
ところが数日前のこと。
イービー氏が母にこんな事を書いて手紙を寄越したのだ。
あれはまったくの間違い。
イービー夫人はそんな噂話のことを、ご主人にも話したことがないし、そういう噂はない。
だからミス・ヤングマンに、あれは嘘だったと訂正して貰われないと困る、云々。
つまり、ミス・ヤングマンは母に「謝れ」と云うのだ。
そんな馬鹿な。
私たちは黙殺することにした。
ところが二、三日前のこと。
今度はミス・ヤングマンから、母にひどく失礼な皮肉たらたらの手紙が来た。
母はこれも黙殺した。
しかし私たちはこのことでひどい打撃を受けた。
十字架の教えを説きにくる宣教師たちがこんな人間だとは、私たちは夢にも思っていなかった。
なんということ。
私の眼が河であって、私の頭が涙の泉であったら、私は同胞の女たちの罪のためににざめざめと泣きたい。
結末はどうなるか分からない。
しかし、母は絶対に自分が嘘つきのゴシップ屋であるなどと認めることは出来ない。
そんな虚偽の告白なんてできない。


1878年1月21日 月曜日
母はいろんなこと、特にお金のことですっかり意気消沈している。
私たちの必要は大きい穴のようなもので、いくら生活費を注ぎ込んでも一杯になることはない。
それで、母は頭痛がして憂鬱病に取り憑かれてしまった。
借金をしないで何とかやり繰りする苦労で、気が狂いそうなのだ。
昨夜はそういう状態で母は早く床に就いた。
そのためディクソン氏がみえて夕食までいていて下さったのに、お会いし損ねたし、ためになるお話を伺うことも出来なかった。
夕食後私たちは心配事を忘れるために、元気よく散歩に出かけた。
母は歩きながら日本や日本人に対する嫌悪を並べ立てた。
しかしそのうちに、母はお店に気を取られて、骨董品や鹿皮に夢中になっていた。
我が母ながら、現金な物だ。
若い店主の居る毛皮屋の店に立ち寄ると、店主はにこにこして、取り入るような丁重な口調で私の日本語を褒めてくれた。
もっとも、それは中に隠してある、目に見えない釣針を私たちに呑み込ませるためのものだったかもしれない。
だから、私たちは呑まなかった。
「日本に来てから何年になるか?」とか「何処に住んでいるのか?」といった質問に答えながら、何種類かの毛皮を見てみた。
私たちは「“ダンナ”に相談してからまた来ます」と云った上で店を出た。
店の主人はそれでも機嫌よく私たちに頭を下げて送り出してくれた。
だけど心の中では「このトウジンたちにまたお目にかかることはあるまい」と思っていたであろう。
次に骨董屋で花瓶を買った。
「失礼ですが召し上がって頂けますか?」。
おかみさんが出してくれた御菓子をご馳走にになることにした。
「失礼」と思わないことを示すために、私たちは差し出された爪楊枝を取り、細い尖端に思い羊羹を突き刺して、危うく落ちそうになるのを、辛うじて少しずつ食べた。
それから銀座に出て、綺麗な店を見て回った。
ある飾り窓に美しい七宝焼きのお皿があって、欲しくてたまらなかったが、四ドルもした。
「三ドルなら買ってもよい」
母がそう云ってくれたので、私は店に戻っていって交渉してみた。
それでも店の主人は「五十セントしかまけられない」と云った。
店の人と話している時に「風月堂の者でございますが」という声がした。
振り返ってみると、両国にあるお菓子屋さんの見慣れたにこやかな顔がそこにあった。
後ろの群衆に押されながらぺこぺこお辞儀をしながら朗報を伝えてくれた。
「料理人が見つかりましたがいつ連れていきましょうか?」
私たちは「今夜来てくれるように」と頼んだ。
少し行くと今度は誰かが私の腕に手を掛けて「失礼ですがどちらへ」と云った。
ローザス夫人の聖書のクラスに来る人のよい老婦人だった。
「明日いらっしゃい」
私はそう云った。
晩に風月堂さんが、自分の所の料理人と一緒に、横浜で修行したという感じのよい料理人を連れてきた。


1878年1月22日 火曜日
二、三人の生徒を教えて、拭き掃除を済ませてから、母が公使のために作った毛糸のスリッパを持って、ビンガム夫人を訪ねた。
とても楽しい訪問で、エマの飼っている犬や猫などとすっかり親しくなった。
帰途、家の近くで、マッカーティー夫人とユウメイに出会った。
今度引っ越してくる森氏の家に行くのだという。
「クララさんも一緒に行きませんか?」
その誘いに応じてその家に行き、庭を歩き回ってこれから、ユウメイとそこで遊ぶ計画をいろいろ立てた。
ユウメイがホテルに戻ってから、私はくたくたになって家に帰った。
夕食後、二、三人のお客様があった。
それから私たちは人力車に乗って杉田先生と息子さんの診察室がある神田へ行った。
途中で帽子に体温計を羽根の代わりに挟んだ男に出会った。
……アレは一体何の呪いなのだろう?
話は変わるけれど、母が盛に教わったところによると、お正月の飾りつけはお釜の下で燃やすと幸運が来ると云うことである。
武さんは私たちを歓迎してもてなして下さった。
うちの使用人として、ばあやを探してくれたそうだ。
私たちと家族のように親しくしていること、母がとても親切で優しい女性であること、みんな私たちが大好きであることをこの人に話しておいたと云われた。
額面通りではないかも知れないけれど、そう云って下さると異郷にある私たちの心は慰められる。
晩に笠原が聖書を持ってきて分からないところを質問した。
笠原の聖書の知識は、ロシア人の教会で得たものだ。
だから儀式を大事にし、祈祷や告白、装飾、十字架などについて、また世界の諸々の宗教について質問した。
後者に関しては明らかにギリシア人の神父たちに十分教育されていることが窺えた。


1878年1月25日 金曜日
ここ二日ばかりはどうしたことか気が滅入って仕方がない。
昨夜は六時に床に入って思い切り泣いた。
自分が何の役にも立たないひねくれたオールド・ミスになりつつあると思えて仕方がないのだ。
今日は母とちょっと出かけてみたけれど、お腹が痛くてたまらなくなって引き返した。
母は私を家に送り届けてから、アディを連れて築地へに行った。
昨日およしさんが編み物を習いに来て、今日は吉沢郷党氏が鮭を持ってきて下さった。
これは黒田清隆氏――江華島事件で手柄を立てた有名な将軍――からの贈り物である。
ご親切は有り難い。


1878年1月26日 土曜日
家中の整頓を断行しようと今朝決心して、本気で取りかかった。
笠原に手伝って貰って十二時までには全て完了し、大好きな針仕事をする時間の余裕もあった。
昼食後、武さんが新しい女中のおトシを連れて来て下さった。
四十歳の大人しい女で、漢文が読める。
三時にアディと私は、ウォデル氏の生徒と賛美歌の練習をするために、おうちへ出かけた。
生徒の一人は大変不機嫌で、もう一人は愚鈍な子だけれど、歌うのはかなり上達している。
家に帰ってから、ファニー・ギューリックが訪れて来て、一緒に夕食を頂いた。
とても陽気な人なので、私たちまで元気づけられる。
ユウメイも遊びに来たので、みんなでゲームをしたり、お喋りしてりしてとても面白かった。


1878年1月27日 日曜日
今朝目を覚ますと外は土砂降り。
子供たちも来ないだろうと思ったので、日曜学校に行かなかった。
でもウィリイだけは出かけていった。
アディと私は日曜学校で教える筈だった箇所を読み、賛美歌を歌った。
礼拝の時、母は私が世話が焼けるので、憂鬱になって涙を流していた。
そして帰り道で私のことをきつく叱った。
私は自分の欠点を悲しく思い、出来ることなら改めたいと本当に思う。
昼食後、ウォデル氏が説教をなさる教会へ行った。
林氏と笠原を連れて遅れて行った。
ディクソン氏は銀座のYMCAに行かれて教会には来られなかった。


1878年1月28日 月曜日
今日はお逸が来なかった。
昨日も見かけなかったので心配だ。
それであの大嫌いな男の人たち――笠原と渡辺氏――だけを相手に気乗りのしない授業をした。
母のお使いで、山下町へ行って帰って来てから、授業を全部やらされてうんざりした。
食後ド・ボワンヴィル夫人のおうちへ行きたかったのだが、杉田夫人がみえたので、母の通訳をするために出かけるのをやめた。
杉田夫人がお帰りになる時に、方向が同じだったから私も一緒に出かけた。
ヤマト屋敷まで楽しくお喋りしながら行った。
それから、ド・ボワンヴィル夫人が芝のサットン氏のお宅に連れて行って下さった。
三人のお嬢さんに会うためだ。
一番上の人は十六歳のネリーで、とても小柄で気持ちのよい人だ。
帰り道、お逸のところへ寄ってみると、来られなかった理由が判明した。
「ごめんなさい、クララ。兄様が病気で私が看病しているのよ」


1878年1月29日 火曜日
お逸は今日も休み。
私はいやいや授業をしたけれど、母のクラスはお休みだった。
昼食後、ダグラス夫人のところへ出かけようとしていたら、富田夫人がみえた。
夫人は私たちが話している間、アディの遊び相手をして貰うために若い女中のおツネを連れてこられた。
横山氏もみえて、おかしな話を一杯聞かせてくれた。
いろいろ違った漢文の読み方とか、演説家の真似とか、夫婦喧嘩の実況とか。
アディとわたしはメイに招かれていたので、夕食に出かけていった。
マッカーティー夫妻は、小池氏のところにお茶に行かれてお留守だったので、私たちは子供だけで楽しい夕べを過ごした。
メイとアディと私は一つの大きな肘掛け椅子に一緒に坐って、ありとあらゆることについて喋った。
八時半にウィリイが迎えに来た。
九時に夫妻が帰宅されたので、私たちも失礼して帰って来た。


1878年1月30日 水曜日
今朝は是非横浜へ行きたいと思っていたのに、眼を覚ましたら雪がしんしんと降っていた。
雪は地面に触れると溶けてしまって殆ど積もらず、泥んこ道になるだけだったけれど、それでも一日中降り続けた。
みんな家の中に閉じこめられてお裁縫をしたり、頭痛に悩まされたりした。
誰一人訪れる人もいなかった。
ウィリイは学校に行かなかったけれど、父は勿論行った。
そして、父が学校で聞かされてきたことから、私たちの日本滞在もそう長くはないという感じがした。
もしも父が辞めさせらるのなら、三ヶ月の予告期間がある筈だし、その後六ヶ月は棒給をくれるべきべきだ。
今まで私はあまり役に立っていないので、少しでもためになることができるように、もっとゆっくり日本にいたいと思う。
といっても、私に出来ることは、苦労している母を支えるだけなのだけど。
お逸から短い手紙が来た。
小鹿さんのために肉のスープが欲しいというものであった。


1878年1月31日 木曜日
今朝学校から竹下寅吉が来た。寅吉は大鳥家の使用人でもある。
預かった来た大鳥家のお嬢さんからの手紙には、暗い知らせが記されていた。
「母は肺病が悪化し、もう治る見込みが全くないようです」
可哀想な方。
神様を信じるようになっていらっしゃればよいけれど。
アディはイーディス・ダイヴァーズのお誕生日パーティーに招かれて有頂天だった。
私たちは、あまり数の多くない衣装の中から着るものを見つけ、よそ行きの格好をさせるのに一騒ぎした。
三時に私が先方の家まで連れていった。
今まで大抵の時は私が一緒に招かれたので、アディが一人でよそへ行くのは生まれて初めてのこと。
というわけで、アディは向こうの家に着いた途端、怖じ気づいてしまった。
二人の間のドアが閉まるときにアディが私に見せた絶望の表情は、なんとも滑稽だった。
「クララ、どうしたらいいの?」
アディの震えた声が玄関の奥から聞こえてきた。
ダイヴァーズさんの家に行く時、間違って他の家に入っていったり、おかしいことばかりだった。
家に帰ってきたら、母が「勝氏のところへ届け物をして欲しい」と云った。
勝氏のおうちでは、とても楽しかった。
勝氏と小鹿さんは、親子仲良く揃っておたふく風邪をひいておられ、日本の食物が喉を通らないのだ。
それで私が持っていった牛肉のスープや、柔らかいプディングはとても喜ばれた。
それと、母が届けさせた桃のブランデー漬けも。
勝夫人やお逸――特にお逸――はとても親切で、私を下にもおかないように大事にして下さった。
門のところで、丁度帰ってゆかれる金沢先生とばったり出会った。
丁度ついさっき、勝氏のおうちにいる間に金沢先生の話を聞いた聞いたばかりだったからドキリとした。
「えっ? 矢田部さん、結婚なさるの!?」
お逸に聞かされて吃驚。
しかもそのお相手が、もう十年以上も英語の勉強をしておられ、母のところに勉強に来たがっていた金沢お録さんだと聞いて、二度吃驚。
更にとても小柄で十八ぐらいにしか見えない彼女が二十四歳だと聞いて三度吃驚した。
とにかくお目出たいことだ。
矢田部氏の心の傷が早く治ってよかった。
ダグラス夫人は「彼が失望に打ち勝つことはないでしょう」と云っておられたが。
兎に角、私としてはあの面倒な人を追い払うことができて有り難い。
あの自惚れと取り入るような態度は気に喰わない。
初めの珍しさが消えてからは、あの人が嫌いになった。
母は初めから嫌っていた。
第一、年齢のことで私を騙していた――もう二十八かそれ以上なのに、私には二十二だと云った。
とにかくやれやれだ。
ただ、つい最近ショー先生の聖公会の教会で洗礼を受けたばかりのお録さんの親交が、あの男のためにぐらつきませんように。
ちなみに、お逸は何故か二人とも大嫌い。
お録さんが無愛想なので、お逸はお録さんの家には絶対に行かない。
勝提督の息女、ということで、どうしても同世代の日本人の友人が少ないお逸が、本当によく知っている日本人の女の子はお録さんだけなのだけど、彼女としては生理的にお録さんを受け付けられないのだ。
「私が本当に親愛の情を持っているのは、クララ、あなただけよ」
お逸はしょっちゅうそう云っている。
実際、お逸は私にとっては本当にいい友達で、こんないい友達を与えられたことを神様に感謝しないではいられない。


1878年2月1日 金曜日
二月に入って今日はお天気もよく、風が爽やかで春になったという気がした。
でも、母の頭痛のために私たちは外出できなくて、あまり春の恩恵に浴さなかった。
夕方近くになってちょっと出かけたが、もう空気が湿っぽくて駄目だった。
晩に給料のことで料理人と話し合いをした。
彼は「10ドル欲しい」と云うのだけれど、8ドルでよい筈だと思う。
確かに彼は横浜のグランド・ホテルでも、フランス系のホテルでも働いた経験があって、料理人としての腕はたいしたものだ。
おまけに背が高く、体格がよくて顔立ちも整っている。
蒙古人系の目鼻立ちというより、どちらかというとアメリカ・インディアンの顔だ。
静かで威厳があって礼儀正しく、とてもいい人だ。何か云う時には必ずお辞儀をする。
こんな良い料理人は失いたくない。
昨日工学寮からの帰り道で、洋服を着た馬上の人に出会った。
その方は同じく馬に乗ったお伴と別当を二人従えていた。
私にお辞儀をされたので、私もお辞儀をしたが、どなたであるか分からなかった。
ところが今日、父とウィリイが東京府に行った時に、楠本府知事が、前日ウィリイの妹らしい美しい女性に出会ったと話された。
そこでウィリイは、私たちが知事に差し上げたいと思っていた綺麗なスリッパの話をして、近くお届けすると約束した。
楠本知事はとても親切にして下さる。 


1878年2月2日 土曜日
人間関係のちょっとしたごたごたがあって、定例のホーリネス教会の祈祷会は今日は開かれなかった。
そうとは知らず週一回の大掃除をした。
私は歌を歌いながらお掃除をするのが大好きだ。
歌のお陰で労働が軽く感じられるから。
綺麗な声――かどうかは分からないけれど――で歌っているところへ、ハドソン氏が祈祷会のことで来られて、母とお話をしていかれた。
昼食後、母は気分が悪くなり横になっていたけれど、トルー夫人がみえたのでまた起き上がって服を着た。
マッカーティ先生、杉田武先生、牧山先生が六時に夕食にみえたが、シモンズ先生からはお断りが来て、杉田玄瑞先生も気管支炎で来られなかった。
母は起きてこられなかったので、なんとも陰気な夕食会になりそうなところに、助け船を出してくれたのはユウメイの義父であるマッカーティ先生。
先生の清国での冒険のお話は不思議なことばかりで、物語のようだった。


武さんが来られる前に車夫が二人、彼に会いに来ていた。
それで武さんが来られてから、私は彼を外に連れ出して車夫に引き合わせた。
二人は使用人のおトシの置いていった荷物を取りに来たというのだった。
車夫が帰ってから、おトシが戻ってこないということを武さんが説明して下さった。
おトシは初めはどうしても理由を云わなかったそうだ。
でも問い詰めるとようやく白状。
元凶は同じく使用人の金三郎だった。
「ここの家の仕事は大変で、今の給料では引き合わない」
金三郎が繰り返しそう零していたことに触発され、おトシは給料に不満を持つようになったようだ。
おトシのような年寄りには十分な給金の筈なのに。
それでおトシは辞めていき、武さんは金三郎に腹を立てておられる。
前には私たちが金三郎の悪口を云っても、武さんは色々弁解しておられたのだけれど、今度という今度は、金三郎がろくでなしであることがはっきりした。
別の女中を探して下さることになったけれど、私たちは使用人に恵まれない運命にある。
フランス製の綺麗な硝子のフィンガーボールと盃がみえなくなってしまった。
疑いは金三郎にかけられており、結局彼は首を切られなければならないだろう。
こういったごたごたはまったくやり切れない。