Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第41回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、おやおさんの婚約者松平康倫氏の四十九日の話がメインとなります。
1878年2月13日 水曜日
「2月の13日に、松平家のお墓に案内いたします」
小泉氏がずっと前に約束してくれていたので、打ち合わせておいた通り、加賀屋敷で落ち合ってお寺へ行くことに。
道中、ずっと道がひどくぬかるんでいて酷い目に遭った上に道に迷ってしまった。
途中で通りがかりの人に道を聞いてみると、みんな喜んで教えてくれた。
教えてくれたのはいいのだけれど、余計なことまで教えてくれた。
「あちらの方角ですよ」
お婆さんの指示通りの方角へ行くと、次に聞いた人は。
「もと来た方へ戻って左に曲がって下さい」
果たして、そこへ戻ってみると、左に曲がる道なんてなかったのだ!
小石川のあたりの道は特にひどかった。
小泉氏は車を降りて、彼の車夫に手伝わせ、三人の男が私たちの車を押したり引いたりしてくれた。
危なっかしいことこの上なしで、今にも車がひっくり返るかと私はびくびくし通し。
それでもなんとか無事に小石川白山の浄土寺に着いた。
何かのお祭りの日らしい。
徳川家の紋を染め抜いた紫色の布が張りめぐらされていた。
私たちが案内されたお坊さんの部屋は綺麗な畳敷きで、火鉢に炭火がいけてあって暖かかった。
部屋に入ると、松平家の家臣たちと箕作氏と彼の生徒たちが一斉に私たちにお辞儀をした。


それからお寺の本堂に案内された。
中心には大きな祭壇があって、仏教の礼拝の対象物が並んでいた。
蓮の花の上の観音様、その周りには真鍮の蓮の葉がついている。
蝋燭が一杯立っており、美しい真鍮のランプが二つ置いてあった。
祭壇全体の上に白い天幕が張ってあり、前には沢山の花が美しい竹の花籠に活けてあった。
その中には私たちの花も入っていた。
祭壇の左手には親族の方達が、目を伏せて坐っておられた。
ただ一人若殿様、亡くなった康倫氏の弟である康民氏だけが首を伸ばして、私たちの方を見ようとしておられた。
部屋の右側には、一族郎党のサムライたちが坐っており、私たちもその仲間入りをした。
「こちらをどうぞ」
ご丁寧に私たちのために椅子を持ってきて下さった。
しかし、他の方はみんな坐っておられるので、私たちもそれに倣うことにした。
みんなご親切にして下さった。
火鉢を持ってきて下さったりして、居心地がよいよう気を配って下さる。
祭壇に面して一段高いところに僧正が坐っていた。
その左右に一人ずつお坊さんがついている。
僧正の後ろには別の部屋があって、そこでは僧侶の楽隊が笙、笛、太鼓、鈴などを奏でていた。
それらの楽器の演奏の見事な調和。
時々大きな太鼓の低い音色が加わり、それに合わせて向かい側の巨大な鐘を撞く。
僧侶たちはみな頭を剃っており、派手な錦の衣を纏っていたけれど、色は様々。
僧正の衣は紫色で、左側の僧のは緑色、右側の僧のは黄色。そのほか青色の衣もあり、全体が美しい調和をなしていた。
その儀式を十分に描くことは私には到底できない。
お辞儀の繰り返し、お経の澄んだ声に混じって聞こえる笙の音と鋭い笛の音、そして荘厳な太鼓と鐘の声。
お経は厳かで楽器と完全に調子が合っていた。
一人一人の僧侶の前には小さい漆塗りのテーブルが置いてあり、そこには美しい刺繍のある布が掛けてある。
テーブルの上には書物と、ウメや水仙や椿を活けた竹の花籠が置いてあった。
僧侶の前に瀬戸引きのお皿があって、その中に蓮の花びらの形に切った紙があった。
それを僧侶は読経中に取り上げては額に押し頂いてから地面に落とすのだ。
紙の色は赤、白、金、銀で、静寛院宮、つまり和宮の葬儀の時も同じであった。
お経の後で、お坊さんは一人一人祭壇の前に進み、お辞儀をして花束を捧げ、またお辞儀をして元の位置に戻った。
その後にまたひとしきり読経があり、次いで一人一人の坊さんが前に出て、祈祷をするか、或いは追悼の辞を述べ、その後また音楽が入り「南無阿弥陀仏」を唱えた。
それから時々鐘や太鼓を鳴らしながらお経の合唱が続き、その間に家族や家来が祭壇の前で焼香をした。
燕尾服と白い皮手袋という出で立ちの若殿が最初に前に出て跪き、紙片を取り出して開き、何かを一つまみ取り上げてそれを小さい火鉢にくべ、お辞儀をして引き下がった。
すると匂やかな香のかおりが立ち上った。
昔の将軍様の実子の大名であり、おやおさんの義理に当たる松平確堂氏が次に跪き、若殿様と同じように焼香をした。
その後しばらく中断。
女の人たちの間にひそひそ話が取り交わされている間に、おずおずと前に進み出たのはおやおさんさんだった。
顔を赤らめたおやおさんは「義理の兄」であり「婚約者」であった康倫氏の祭壇の前に正座した。
お辞儀、そして後ろへ下がったりする時の彼女の振る舞いはこの上なく優雅であった。
もし私が幼少の頃からの婚約者を亡くしたら、これほど気丈に振る舞えるだろうか?
そう思うと、おやおさんが我が生徒であることに誇りさえ感じた。
次は松平氏のご母堂、その後に使用人たち全員が続いた。
その中でおすみがさっと前に進み、がくっと膝をついた様子は如何にも自然に見えた。
それから羽織姿の従者たちが続き、跪いて香炉に手を伸ばして焼香し、うやうやしく後退りして、主人の祭壇の前に頭を下げた。
この間中、僧侶たちは読経を続け、僧正はしなやかな形のよい指で水晶の数珠をつまぐっていた。
太陽を遮った暗い部屋、異様に強烈な音楽、坊さんたちの奇妙な甲高い単調な声、お辞儀、読経、祈祷。
その敬虔な表情はまるで永遠の御仏の方を見上げているようだった……。


やがて祭礼は終わり、僧侶が順々に退場した。
「どうぞ、ご退場下さい」
そう促され、元の部屋に戻った私たちは茶菓の接待を受け、若殿と確堂氏に紹介された。
「お目にかかれて嬉しい」
そくんな意味のことをお二人から云われた。
間もなく、おやおさんとおすみが、鼠色の着物に白い半襟という服装で出て来られた。
髪型はいつもと違っていて、白粉はつけていたたけれど口紅はつけていなかった。
それから改めてお墓参りを済ませて、さよならを云いに行った。
おやおさんは上手に英語を話し「お逸さんにもよろしく」とこの上なく上品な口調で言われた。
「十七日から学校に出るつもりですから、また宜しくお願いします」
食事も勧められたが、ウィリイだけ残って私たちは失礼した。
家族の方のみならず葬儀参列者全員がさよならを云いに出て来られた。
みんなで喋ったり、大声を出したり、笑ったりしていて、退出するのが大変であった。
正直なところ「法事らしくない」とも私には思えて仕方なかった。
ウィリイが帰ってきてから聞いた話である。
兄は僧正に紹介されたのだが、僧正は外国人に会うのは初めてということで大いに興味を持ったらしい。
そのうちに我が家に訪ねてくるということだった。
面白い話も聞いた。
法事の時には日本の習慣では雀か鯉を放つことになっているらしい。
今回の松平家の法事では雀を放ったと云うことである。


1878年2月14日 木曜日
約束通り今朝、大鳥家の末娘のお菊ちゃんを迎えに行った。
猿町まではよかったが、それから先は道が悪くて、殆ど通行不可能に近かった。
お菊ちゃんは私が迎えに来るのを待っていて、喜んで家に来た。
みちみち、色々話題を考えて話をするようにつとめたので、木挽町に着く頃にはすっかり仲良しになっていた。
アディは玄関に飛び出してきたのだけれど、いざ喋ろうと思うとはにかんで黙ってしまった。
お菊ちゃんは大人しいよい子だ。
大きな美しい穏やかな黒い目をしていて本当に美人である。
11歳だが、9歳のアディよりも背が低い。
皇室の花である菊という名がぴったりの少女である。


1878年2月15日 金曜日
私はお菊ちゃんにベッドを整えたり、そのほか私の朝の仕事を手伝って貰った。
その間、私の大きいスリッパを履いて、ぱたぱた歩き回りながらあどけないお喋りを続けた。
私のスリッパが大好きになったのだ。
お逸が一日中いて、お菊ちゃんから色々なことを聞き出して面白がっていた……最初のうちだけは。
「おひな姉様は本当は十九歳なのにいつも十七歳と云っているの」
「おゆき姉様は本当は十七歳なのにいつも十五歳と云っているの」
「お母様はおゆきさんと六三さんが一番お気に入りで、私のことなんてあまり気に入っていなかったの」
「次郎さんはお母さんが亡くなったと聞いた時に、もう叱られないからと喜んでいたの」
……段々お菊ちゃんの発言が危険領域に入っていったので、私は勿論、お逸も黙ってしまった。
夕食に小鹿さんがみえたが、大変なご機嫌だった。
上杉氏は熱海へ明日行かれるのでお別れの挨拶にみえた。
母はお金のことを心配している。


1878年2月16日 土曜日 
お菊ちゃんは昨日既にだいぶホームシックのようだったが、家には帰りたくないと云っていた。
お逸が上手に宥めてくれたのでもう大丈夫。
そう思っていたら、今朝またホームシックが始まってしまった。
それで結局おうちに帰した方がよいということになった。
でもまず西田氏のおうちに連れて行って、女中さんに髪を直して貰った。
「彼女は大鳥圭介氏のお嬢さんなんですよ」
そう云ったら、西田家の人たちは拝まんばかりに恭しく扱った。
私は戸口に腰掛けて、お菊ちゃんのお母様が亡くなった話をした。
西田夫人はすっかり同情された。
西田家の小さい赤ちゃんは相変わらず真っ赤な醜い顔でよく泣く。
ボーヤは赤ちゃんに嫉妬している。
十時に私はお菊ちゃんを連れて車で三光坂の大鳥邸に行った。
途中で色々面白いものを見た――髭を一本一本抜いている男の人、家財道具を積んだ荷車のてっぺんに乗っている檻に入れられた二匹の猫、雪合戦している二人の車夫など。
お菊ちゃんのお姉さんたちはあまり妹を歓迎しなかった。
実はお菊ちゃんは養女にやられていて、田舎で育ったからだということである。
帰途福沢諭吉家に寄って、奥様を火曜日の夕食にお招きした。
「どうぞ上がっていってください」
ご在宅だった福沢氏がしきりに仰っるので、私はその勧めに素直に甘えることにした。
靴がまだ泥んこになってしまっていたので、靴を脱いで上がった。
福沢氏はとてもご親切だ。
お嬢さんのお琴の練習を聞きに連れていって下さり、日本料理の昼食をご馳走になった。
福沢氏のうちは日本建築だが、埃一つ無く綺麗だ。
いつも親切にして下さるので私は先生を尊敬している。
強い男らしい方で、いろんな有益な本を日本語に訳しておられる。
先生の学校、慶應義塾は弁論で有名だ。
また先生は非常にリベラルな考えの持ち主である。
開校した当時は杉田武氏がただ一人の学生だったが、今では大きな学校になっている。
福沢氏は日本のために大いに功績がある方だ。


二時に帰宅。
そのすぐ後にビンガム夫人が母のところへ訪ねて来られて、六時までいらっしゃった。
こまつもアディのところへ遊びに来て、夜の十時までいた。
ビンガム夫人と母が話している間に私はユウメイの家へ行くことにした。
二人で散歩に出かけるのだ。
まず築地の方へ歩いて行った。
ペルー領事館の門が開いていたので中に入ってみた。そこはまるで御伽の国のようだった。
素敵な松の木立や丘。木立の中の道を歩きながら二人で御伽ぎ話を作り上げた。
そして夜。
我が家のハンサムで礼儀正しく魅力的な料理人は消え失せてしまった。
一ヶ月分の給料の十ドルを受け取ると、さっさと荷造りをして出て行ってしまったのだ。
本当のことを云うと。
金曜日にストーブのことで癇癪を起こしたのだ。
それも酷い癇癪。
鍋や薬缶を投げつけ、拳骨で壁に穴を開け、台所用のスプーンを折り、カネや笠原を箒で追い回したという。
なんと恐るべき暴漢!
怒らせたが最後、どんな目に遭うか分かったものではない。
しかし幸い私たちは現場にいなかったので、暴れるのを目撃しなくて済んだ。
カネは彼の顔色にびくびくしていた。
出て行ってしまったのは残念だけれど、家の中に暴漢をおいておくことはない。
料理人がいなくなって、私たちはまたしてもカネを呼び戻すことになった。
カネは大人しい人で、なんでも頼まれたことをきちんとやってくれる。


1878年2月17日 日曜日 
おやおさんの七十日の喪が明けたので、以前のように人力車で乗り付けてきた。
前にも増して美しく、控えめな身なりであった。
前に習ったことは少しも忘れていないばかりでなく、前よりも知識が増したようにさえ思われる。
美しい声でみんなと一緒に歌も歌った。
あの方が仲間に戻ってくれて本当に嬉しい。
こまつ、武夫、梅太郎、七郎、お逸、おせき、おやおさん、すみ――今日はこれだけの人がみんな集まった。
テキストは、種を蒔く人の話だった。