Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第45回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、クララたちが新聞を発表する話、向島の勝邸での花見の話、そしてクララのアンニュイな日の話がメインとなります。


1878年4月11日 木曜日
昼食の時に、マッカーティー夫人からのメモが届いた。
ヴィーダー家で集会があるという知らせだったので、一時半までに支度をすませた。
ユウメイが誘いに来てくれて、二人で元気よく加賀屋敷へ出かけていった。
私たちが一番乗りだったけれど、大変歓迎された。
エマとアニーとジョージとウィリイが相次いで姿を見せて賑やかなグループになった。
私は自分の悲しみを忘れ、他人を笑わせ、自分も大いに笑った。
真面目一点ばりのアニーまで終いには笑い出した。
まずジェニーが議長席――大きい肘掛け椅子――について、咳払いをした上で、皆に静粛を求めて開会を宣した。
開会はした。
開会はしたのだけれど……誰も発表するものを用意していなかったというオチだった。
それで次回の会議を定めたあと討議を打ち切って、ゲームをするという提案に全員が賛成した。
「東の星」という新聞を出し、詩や小説や政治評論を発表することにもなった。
その言い出しっぺの私が編集長になることも全員賛成で決定した。
従って次回の開催は、必然的に私の家ということになった。
私は編集者、書記、執筆者の三役を兼ねるけれど、私には願ってもないことである。


1878年4月13日 土曜日
今日は村田氏、富田氏、高木氏と目黒に行く予定で、大いに楽しみにしていた。
昨日富田氏も高木氏もみえて「ちゃんと支度をしておくように」と云われた。
ところが九時頃から突然の烈しい雨。
がっかりした私は諦めてお菓子を作ったりして気を紛らわした。
私たちの新聞「東の星」のことについて、ガシー・ヴィーダーから面白い手紙がきた。
私はもう社説は書き上げてあるし、各欄の区分も済ませた。
きっと面白いものができるだろう。
土砂降りの中を、勝夫人とお逸がやって来られたのには吃驚した。
「“おいっちゃま”がどうてしても来ると云ってきかなかったのですよ」
勝夫人は笑いながらそう仰った。
本当に仲の良い、まるで友達みたいな母子だ。
お逸と勝夫人が来てからは、とても楽しい一時であった。
それにお逸がすっかり元気になって嬉しい。
「勝の別邸が向島にありますから、是非いらしてくださいね」
帰りがけに夫人から、そうご招待を受けた。


1878年4月17日 水曜日 
今日、アディと母と私は、勝氏一家と向島へ行った。
勝夫人、お逸、おゆめ、おせきの四人は私たちの家から一緒だったけれど、小鹿さんは先に行かれた。
よく晴れて桜が綺麗だった。
向島は濃い八重桜が満開で、枝が道の上に広がり、美しいアーチを作っていた。
そよ風に花びらが雪のように降り注ぐ。
水の上に優雅にしだれている枝に一人の男が歌を結びつけていた。
お逸がそれを詠んでくれた。
『水の面に広がる桜見る度に 我思ふなり十六の乙女を』
私もこんな歌を書いて枝に結びつけたいものだと思った。
『風吹けば桜は散りて消えゆけど 神は絶えせず世を治めたまふ』
お昼頃、勝家の別邸に到着した。
美しい庭があってここも桜が満開だった。
真っ赤な楓の葉も美しかった。
躑躅、小手毬、椿が、松、杉、月桂樹の緑に映えている。
全て前に来た時と変わらないが、一段と美しくなっているかであった。
素敵な日本料理が出た。
けれどこれについては、ちょっとごたごたがあった。
というのは小鹿さんが朝注文したお料理が、間違って何処か余所の家に配達されてしまったのだ。
だから、もう一度料理する間待たされたのである。
その時間がなんとも退屈で、本でも読みたいと思った。
だるいのと眠いのに加えて、体が少し痛んだ。洋服が厚地で、走り回ることもできないし。
小鹿さんもだるいらしくて一日中煙草を吹かしてばかりいた。
お逸もまたつまらなさそうな顔をしている。
彼女はお兄様に綱引きとかそういった乱暴なゲームをやらせたかったのだ。
本当に仲の良い兄妹だと思う。……お兄様は大変そうだけれど。 
帰りは月明かりの中を帰ってきた。
「日本ではね、よく月明かりに花見をして、歌を沢山詠む人がいるのよ」
月明かりの下の桜の幻想的な光景はお逸の解説に説得力を持たせた。
でも一方、下界に目を転じてみれば、通りには酒を飲み過ぎた酔っぱらいが一杯。
しかし、誰も彼も無邪気な連中ばかりだった。
一人はお菓子をどうぞと差し出したり、一人は母の人力車に倒れかかって、死んだふりをした。
周りの人は面白がったけれど、アディは吃驚仰天した。


1878年4月18日 木曜日
今日はよいお天気だったので、母と一緒にホートン夫人やサットン夫人を訪問した。
お逸と小鹿さんが夕方うちへ遊びに来て、十時までいた。
私たちは一緒に木挽町の花市に出かけた。
お逸と私が並んで歩き、小鹿さんが先導、ウィリイが私たちの後から、家の使用人のカネが、提灯を持って殿を勤めた。
植木や花に値段をつけながら、市の端から端まで歩いた。
市ではまずべらぼうに高い値を付けて、後で下げるのが慣例である。
小鹿さんが椿の値段を聞いたら、一円二十五銭。
でも小鹿さんが「二十五践なら買おう」と云うと、結局その値に落ち着いた。
カネは私のために五銭で椿を買ってくれたけれど、これも最初は五十銭と云われたのだった。
それから門のような形に作られた松を、十五銭で買ってくれた。
これなど仕上げるのに、三年はかかっていると思われる。


1878年4月19日 金曜日 
今日は杉田氏たちが何処かに連れて行って下さることになっている。
でも、受難日だったので芝の教会にまず行った。
ショー先生が祈祷文を読まれてよいお説教をされた。
ひどい雨だったけれど、杉田先生のところへ行ってみると、お逸も含め皆揃って待っていて下さった。
そこから真っ直ぐに、大橋屋という浅草の大橋近くの大きなお茶屋に行くことになった。
元は大名屋敷の広い綺麗な建物だ。
私たちの部屋は三階で、新しい清潔なところだった。
素敵な日本料理をご馳走になり、それから建物の内部を、お風呂場に至るまで全部見せて貰った。
そのあと一室で二、三のゲームをした。
畳が柔らかくて、部屋に何も置いていないので、目隠し遊びをするのにもってこいの場所だった。
武さんは鬼が好きで何回も鬼になった。
六蔵にぶつかったり、屏風を抱え込んだりしているのは、なんともおかしかった。
一度私が彼の広げた腕に捕まったが、その腕の骨張って固まったこと。
賑やかに楽しい時を過ごして、上機嫌で家に帰ってきた。
そして杉田夫人と母、武さんとウィリイ、お逸と私、六蔵とアディ、それにおやすという一行は、土砂降りの雨がやむまで家で一服した。およしさんが病気で一緒に行けなかったのは惜しいことだったけれど。
あと私の洋服を取りに横浜へ行った。
絹の服の縫い直しが上手にできていて、直したものとは思えない。
最近私の胴は瓢箪のようになってきた。
「クララさんも随分女性らしい体つきになってきましたね」
マーティン夫人はそう云って下さるけれど、私としてはなんだか縮んでいるような気がする。
フランス人の経営するペール・フレールで、素晴らしく美味しいコーヒーを飲んだ。
母はペールさんにねだって、炒ったコーヒー豆を一ポンド売って貰った。
ペールさんは惜しくてたまらない様子だった。
雷雨に会ったので、急いで帰ってきた。


1878年4月22日 月曜日
今日は母に叱られて、とてもみじめな一日だった。
ウイリイは笠原を信用していなくて、私が一緒になってよからぬことをしていると、母に告げ口したのだ。
それで私は酷く叱られ、憂鬱になってしまった。
兄の悪口が癪に障って、私はやけっぱちになる。
でも、母の叱責は私の浅はかな心にも染みとおる。
私の問題だけではなく、家では学校のことでまた矢野と上手くいってない。
矢野は悪意のある人物で、私たちは何も彼に不当な仕打ちをしていないのに、いつも私たちに害を加えようとするのだ。
商法講習所で父の片腕を務めている高木氏もみえたので、母は彼に文句を云った。
高木氏は本当に煮え切らない頼りない男だ。母に文句を云われても仕方がない。
現に母に何を云われても、何も云い返せないでいる。
私は六時に強風に吹かれながら、低く垂れ込めた雲の下をアマーン夫人の家まで歩いていった。
橋を渡る時に、私はふと真ん中当たりで足を止めた。
橋の下で荒れ狂う黒い水を見下ろしながら、何故かぼんやりこんなことを思い浮かべてしまった。
『死ぬというのは、どんな気持ちのするものだろう?』
家に帰って来たら、母が優しく迎えてくれたので、母の腕に抱かれながら泣いてしまった。


1878年4月23日 火曜日
新しい畳が今日「ようやく」来た。
午後には絹地を買いに出かけた。
白木屋で雷雨のために足止めを喰ったけれど、店員がとても丁寧で親切だった。
越後屋では外国人に慣れているので、言葉遣いも丁寧で外国人向きだ」
それがもっぱらの評判だけれど、白木屋では私たちにも丁寧な言葉を使う。
私たちはパーソン先生の「有神論」についての講演を聞きに行った。
大変博識な講演だったけれど、正直私には少し難しすぎたかもしれない。
ディクソン氏とマンディ氏が訪ねて来られ、晩にとても上手な講演をなさった。
今年ディクソン氏とは多分一緒に日光に行くことになる予定だ。


1878年4月24日 水曜日
お逸が遊びに来た。
でも、なんだかつまらなさそうな表情をしているので、水を向けてみると、お兄様が休暇を終えて海軍兵学校に戻るということだ。
お兄様をからかうことが、お逸の最近の最も楽しい娯楽なのだ。
母が、ド・ボワンヴィル夫人を訪問している間に私は富田夫人を訪問し、そこで杉田夫人や津田夫人にお会いした。
その後アルバムを頂きに、福沢先生のお宅に伺った。
けれど行ってみると、家は閉め切ってある。
偶然な軒先にいた見覚えのある使用人に尋ねてみると、先生はお子さんを連れて箱根にいらっしゃって留守とのことだった。
がっかりして帰ろうとすると、慌てて男が付け足した。
「奥様ならいらっしゃいますけれど」
私はそこで中に入って奥様にお会いすることにしたのだけれど、奥様が英語をお出来になったらもっとお話がうまくいったであろう。
帰ってみると、ユウメイからの伝言が届いていた。
『わたくし、本日は一人で留守番を致していますから、クララさんがもし来たいのなら来てもよろしいですのよ?』
……つまり、一人で淋しいから私に遊びに来て欲しいと云うことだろう。
夕食後、隣家のマッカーティー先生のお宅に出かけ、ユウメイと新聞のことを相談したり、記事を書いたりした。
私たちの新聞は、驚くべき才能の見せ場になる筈だ。
九時になってウィリイが迎えに来た。


1878年4月25日 木曜日 母の誕生日
朝日が窓の格子を通して射し込み始めた頃、私は窓辺で囀る小鳥に目を覚ました。
まだ四時だったけれど、私の体は痛みをおして――昨夜は寝付きが悪く、十ニ時になってやっと寝苦しい眠りについたのだった――起き上がった。
母の誕生日なので、驚かそうと思ったのだ。
急いで服を着て庭に降り、母の誕生日の花である躑躅を探した。
母は誕生日には決まって躑躅を飾るのだ。
庭には見つからなかったので、夕べ買っておいた赤い躑躅を飾り、ユウメイの家に白いのを貰いに行った。
母のベッドの横に丸いテーブルを置いて、その上にプレゼントを並べた。
今日は生徒たちも残ってお昼を一緒に食べた。
母を感心させるような素敵なお料理が出来て、母がおいしそうに沢山食べてくれたので嬉しかった。
ここのところ母はあまり食欲がないのだ。
今日はアニー・トルーの誕生日でもあるので、アディと一緒に誕生祝いに行った。
アニー・ブラウンも来ていたけれど、頭痛がするとかだったし、私もあまり気分が優れなくて遊ぶ気にも喋る気にもならなかった。
私はいつもはこんな風ではないのだけれど、アニーはいつも気が抜けているし、その上に今日は頭痛のせいで不機嫌だったのだ。
母がダイヴァーズ夫人や、工部大学校のダイアー夫人を訪問して面白かったということである。
ウィリイはディクソン氏のところへ行ったが留守だった。