Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第50回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、堀切の菖蒲園訪問、横浜一泊旅行でのちょっとした冒険&トラブルなど滞在中の外国人達の日本での楽しみの話がメインとなります。
1878年6月18日 火曜日
富田夫人に、男の赤ちゃんが今夜生まれた。
私は本当に吃驚した。というのは、昨夜一緒に富田夫人と庭を散歩したりしていたのだ。
皆さんきっとお喜びであろう。
授業が済んでから、日本橋に出かけた。
そこで工部大学校のお友達と落ち合うことになっていたのだ。
ピクニックの目的地は堀切の菖蒲園。
ディクソン氏とマーシャル氏が、近く帰国されるマンディ夫妻とクラーク氏とコーリー氏のために催されたものである。
私たちはこの顔ぶれに初めは些かがっかりした。
とても感じの良いダイヴァーズ夫妻が来られるに違いない、とあてにしていたのが外れてしまったのだ。
とにかく顔が揃ったところで、市ヶ谷に行き、屋形船に乗った。
一艘の船に、母、ディクソン氏、クラーク氏、マンディ氏、アディ、マンディ氏の息子のサミーとサニーが。
もう一艘にウィリイと私の他にマーシャル氏、コーリー氏、マンディ夫人と赤ちゃんが乗った。
でもそこからが大変。
マンディ夫人がボードに乗ろうとしたところ、ボートがちょっと傾き、大声を悲鳴を上げた。
それはそれはたいした叫び声だった。
本で読んだことはあったけど、あんな声を聞くのは初めて。
口を一杯開けて――それも相当に大きい口である――叫んだので、そのうちにサニーや赤ちゃんも一緒になって大声を出し始めた。
「やめてぇ! テッド、やめて、やめてぇっ!」
彼女が悲鳴を上げると、意地悪のマンディ氏はわざとボートを揺すぶり、最愛の妻に向かってとてもお上品な命令を下した。
「黙れ! 黙れってば!」
更にマンディ夫人の赤ちゃんがぎゃあぎゃあ泣き叫ぶので、私は頭ががんがんしてきた。
コーリー氏は途中の徒然を慰めるために、日本における生活での、とんでもない馬鹿げた冗談や出来事を話し続けた。
たとえばこんな話である。
「日本人の役者が昼食に来て、紙も使わずに肉汁のかかった肉とジャガイモを袂に入れてしまった話」。
「クラーク氏がある暴風雨の夜に、人力車ごとお堀に落ちた話」などなど。
げらげらとマンディ夫人は笑ってばかりいた。
一方のマーシャル氏は怠け者で、私のレインコートの上に寝転がってしまった。
私たちの船の方が先に堀切に着いた。
もう一艘の舟を待ち、みんな揃ってから長い長い道を歩いて、お茶屋と菖蒲園に向かう。
でもその徒歩は正直うんざりする道行きになった。
紳士方はみんな先に歩いて行って、私はしずしずとその後に続き、またその後からマンディ夫人が、相変わらずぎゃあぎゃあ泣いている赤ん坊を抱き、ぐすぐすしがちなサニーをせき立てながら歩いて来た。
終いにマーシャル氏がサニーの手を引き、ディクソン氏がアディとサミーを引き受けた。
この三人の様子はなんとも滑稽だった。
ディクソン氏は青空に魅せられているかのようにどんどん歩いて行き、アディは彼の手に捕まってできるだけ早く歩こうとしながら、ぐずるサミーを一生懸命引っ張って行った。
ディクソン氏は天を眺めているようなふりをしていた。
けれど、私は気付いてしまった。実際にはウィリイとマーシャル氏の会話を盗み聞きしていたのだ。
彼は時々後ろを振り向き、何かしら滑稽なことを云ったり、或いはマーシャル氏に「ディクソンの下手な冗談」と云われている類のことを云った。


ようやくのことで菖蒲園に到着。
菖蒲を観賞しながら歩き回ったのだけど、この庭園にある菖蒲はなんと三百種類!
お茶屋で食事を注文してから、三々五々庭園の中を歩き回った。
しかし私は堀切も気に入らなかったし、そこに来ているイギリス人も気に入らなかった。何もかも気に入らなかった。
昼食の用意ができたというので、お茶屋に戻った。
その途中でマーシャル氏が「おやじ」と読んでいる人物、すなわち隣の菖蒲園の持ち主に出会った。
彼はぺこぺこして「自分の庭園にも是非来て下さい」と云い、私たちの気を引くために菖蒲をくれた。
私たちは庭全体を見渡せるお茶屋の二階の一室に案内され、ばらばらに坐った。
子供たちはテーブルの上に上がったり、まるで水銀のようにあたり一面に広がった。
マンディ氏は父親らしい台詞を次々と、大声で披露した。
以下、彼の独演会の抜粋である。
「サニー、テーブルから下りろ」
「その菓子に手を付けたら殴るぞ」
「サミー、その琴を弄ったらひどい目にあうぞ」
「坐れ、生意気な」
「おや、パパの可愛い可愛い赤ちゃん」
「眠ってしまえ!」
いやはや、たいした父親ぶりだ。
でも料理は素晴らしいもので、みんな上機嫌になった。
ディクソン氏は私がお茶を注いであげると(彼はビールを飲まないのだ)、日本式に詩を作った。
例えば、以下のような詩である。
『堀切に 来たるは楽しき 人々の
     ビールを飲みては 酔はぬ時には』
『美しき 青き旗見る 楽しさよ
     日本の老婆 眺めながらも』
他にもひどい都々逸のようなものがあったけれど、あまりおかしいので笑わされて食べることもできなかった。
他の紳士方も、素敵な洒落を云ったし、マンディ氏は野蛮な言葉を云った――如何にも彼らしいことだ。
とにかく笑いながらの楽しい食事だった。
休憩して、お皿を片付けてから、船の方へ戻った。
もう日が暮れかかっていたので歩きながら歌を歌った。
私は男の人の低い声に消されないように大きい声で歌った。
ことにディクソン氏の声は大きい強い声なので、私のソプラノの伴奏によいのだ。
私たちはアメリカ民謡やイギリス民謡を歌った。
美しい自然の田舎道を歩きながら歌を歌うのは楽しい。
船に戻ると、ディクソン氏と私は同じ船に乗った。入れ替わったのは私たちだけだった。
「クララさん、私の膝掛けを一緒に掛けませんか?」
隣に坐った彼はそう勧めてきたけれど、私はそんなに彼の近くに身を寄せる気はしなかった。
ウィリイは外に出て行き、コーリー氏は大きな目を据えて黙りこくっていた。
マンディ夫人は眠った赤ちゃんと一緒に黙って坐っていた。
それでディクソン氏と私は自由に話をすることができた。
私たちはあらゆること――ベニス、アメリカ、ヨーロッパ、歌、日本、空、月等々について喋った。
次にインブリー夫人の話になった。
「本当に不思議なことだとは思いませんか? 大人しいアメリカ人男性が、きまって元気なお喋りの女性を奥様にするのは――たとえば、ヴィーダー先生、マレイ先生、パーソン氏、インブリー氏などですが」
更に続けてディクソン氏はこう云われる。
「僕としては静かでしとやかなタイプが良いですね。女の人は余程機智に富んでいるならともかく、そうでないと、お喋りの女は結局くだらないことを一杯喋る危険がある。だから口数の少ないのが一番ですよ」
『私のような口数の少ない女が良いと云っているのかしら?』
薄暗がりの中、私は思ったけれど、当然のことながら口には出さなかった。
私は滅多にお喋りはしない、特に男性を相手にしては。
しかし今夜は薄暗がりだったので勇気が出て、まるでお兄さんに話しているように気楽に話せた。
それでコーリー氏はあんなに目を見張っていたのかもしれないし、マンディ氏は何も云えなかったのかも知れない。
私はマーシャル氏には何も話すことがなかった。
船着き場に着いた時に、ディクソン氏は今日はとても楽しかった。
とりわけ帰りの船が楽しかったと云った。
出発点に辿り着いたのは十時過ぎだったけれど、皆さんがとても楽しかった。
殊に後半は楽しかった、と云った。私も同感だ。


1878年6月20日 木曜日
今日、ウイリィが横浜に行くというので、母は私にも一緒に行くようにと云った。
二時の汽車に乗ろうと出かけたのだけど、駅に駆け込み、汽車の扉が閉まる直前に乗ることができた。
ポート氏も同じ汽車だったし、とても厭なイギリス人が二人と、太り過ぎの日本人が一人いた。
ウィリイとポート氏は話し込んでしまい、後の三人は眠ってしまったので、私は『スコットランドの歌』を読んでいた。
横浜に着くと、真っ直ぐにヘップバン先生のおうちに行って歓迎された。
夫人に我が家の苦難の話をした。これを話すためにこそ私はやって来たのだ。
夫人は同情して下さったが、しばらくして、先生が私を子馬に引かせた馬車に乗せて、時計屋に行くお伴をさせて下さった。
途中で先生に日本の宗教のことを尋ねた。
私は日本の宗教について、ちょっとしたエッセイを書きたいと思っているのだ。
今日は疲れたので早く寝てしまった。


1878年6月21日 金曜日
今朝、ヘップバン夫人が子馬の馬車を用意させて、居留地へ連れて行って下さった。
そこで母の注文の品を買い、ヘップバン夫人に見立てて頂いて、綺麗な帽子を買った。
他に、二、三箇所寄ってから山手に戻り、隣のシモンズ夫人をお訪ねした。
「午後テニスをしにいらっしゃい」
そう誘われたので、帰りを遅らせ午後七時の汽車にした。
午後ヘップバン夫人が昼寝をしておいでの間に、私はアニー・ブラウンを訪問しに出かけた。
しかし私は横浜は不案内な上、横浜の番地は売り出された順番で付けられているため場所が皆目見当が付かない。
だから途中で流しの人力車の車夫に「六十七番地ば何処か?」と尋ねてみた。
車夫は遠くに見える二本の松の木の間に建っている家を丁寧に指差して教えてくれた。
だから私はその車夫の人力車に乗って行くことにした。
しばらく威勢よく走ってから、車夫が「ここで人力車を降りて下さい」と云った。
そこから段々になっている道を、二、三段下りていく。
後についていくと、やがてある家の門の前で足を止め、得意気に。
「あそこでございます」
門を入り木の間の曲がりくねった道を歩いていくと、たらいで洗濯をしている娘さんのところへ来た。
「お嬢様はいらっしゃいますか?」
私がそう尋ねると、女は「見て参ります」と入って行き、やがて年上の女を連れて戻って来た。
この人は髪を結って貰っている最中だったらしい。
「誰に会いたいのですか?」
そう丁寧に聞いてきた彼女に、私がまた「お嬢様に」と云うと、彼女は「見て来る」と入って行った。
二、三分すると困惑したような顔をして戻って来た。
「“お嬢様”はこちらにはおられません。もっと詳しく、どういう人を探しているのか教えて頂けませんか?」
私は「私と同年齢で、ブラウンという名前だ」と答えると返ってきたのは意外な答え。
「ここにはサンズという人はいますけれど、ブラウンという名の人はいらっしゃいません。
もし宜しければ、ブラウンさんのおうちにご案内致しましょうか?」
私がお礼を云うと、坂道をかなり上って、家がはっきり見えるところまでついて来てくれた。
「大変お手数をかけて申し訳ありませんでした」
私はお礼とお詫びを云って人力車に戻ると、車夫にさっきの家は違っていたと云った。
その時ふと私は上を見あげた。
今さっき私が訪問していた建物の方をだ。
天然痘病院』
何故先程はそれが目に入らなかったのだろう? こんなに大きく看板に書いてあるのに。
私は勇気あるアメリカ娘の筈だけれど、流石にゾッとした。
呆然と見上げる私の視線の先。
二階のベランダの寝椅子に一人の患者が横になり新聞を読む姿が。
顔に疱瘡の後があるかどうか。
更に凝っと見つめると、新聞の影から、私をじっと見据える大きな荒々しい青い目が見えた。


慌てて逃げ出した私はなんとか無事、アニー・ブラウンの家に到着した。
玄関に出て来た使用人に「ホイットニーという者が東京から来た、とお嬢さんに云って欲しい」と頼んだ。
彼は玄関の中に私を待たせて二階に上がっていった。
そして次のような会話が取り交わされているのが否応なしに耳に入って来た。
「お嬢様、お客様がみえています」
「どなた?」
「東京からの方で、私は初めてお目にかかる方です」
「女の方?」
「はい、若い女の方でございます」
「私くらいの年?」
「はい、でももう少し年下で、小さい方です」
私はくっくっと笑ってしまって、その先は聞こえなかった。
「あら、クララじゃないの」
階段を下りてきたアニーが大声で叫ぶと、使用人はにやにや笑いながら台所へ消えていった。
アニーは客間に案内してくれたのだけど、部屋はごった返しになっていて、明らかに大掃除の最中だった。
ソファに坐って、私は自分の冒険談を威勢よく大袈裟に喋りまくった。
アニーは真面目一点張りで、笑わせるには相当の努力がいるのである。
まだ十六歳なのに三十歳くらいの感じである。それに六十歳の人ほどいろいろ病気を持っている。
彼女を訪問すると、いつもひどく憂鬱になる。
彼女は自分の置かれた現状に不満だらけなのだ。
『今年になって一回しかパーティーに招かれなかった』
『きっとオールド・ミスになるに違いない』
ああ、もしも彼女が真の幸福の源を知っていたなら、そんな愚痴を零している代わりに、元気を出して神様のため、あるいは自分の修練のためにつとめる筈だ。
私は二時間も彼女のところにいたのに、神様のことを一度も口にしなかった。
どうして私はこうも大事なことを忘れてしまうのだろう?
ヘップバーン先生の家に帰ってみると、夫人はシモンズ先生の所へテニスをしに行く支度をしておられた。
私もお伴をする支度をした。
シモンズ先生、ミス・ウイン、ハティ・ブラウンとガシー・ヴィーダーがテニスをしており、老婦人方やテニスを習いたての人たちがテラスにいた。
ガシーが私を歓迎してくれた。
ヘップバン夫人にくっついてテラスの方へ歩いていくと、ヘップバン先生がベールを取って「ご婦人方にご挨拶なさい」と云われた。
私は精一杯愛想良く挨拶した。
ヘップバン夫人は私をそばにおいて、いろいろ私について親切な説明をみんなにして下さった。
やがてお茶とお菓子が出され、私はガシーとルース・クラークのいるところへ行った。
雨が降ってきて、テニスをやっている人たちも、中に入って来たのだ。
ガシーが小声で囁いた。
「ルース・クラークはトム・ブラウアズと婚約しているらしいわよ」
トムはよく気の利くハンサムな青年である。
アニー・ブラウンも私に同じ事を言った。
それから「メーベル・ブルックはクック氏と結婚するらしい」とも云った。
十六歳や十七歳の女の子が、婚約だの結婚だのって不思議な話だ。
とにかく横浜で随分知識を得た。
そのうちお暇する時間になったので、ヘップバン家に荷物を取りに戻り、夫妻にさよならを云った。
それからシモンズ先生の家にもう一度行った。
素敵なパンとお菓子とお茶があり、舌肉もあった。
しかし私は舌肉を一口しか食べなかった。腐っているようなひどい臭いがしたのだ。
それからみんなにご挨拶して、人力車でフレールに行って、家へのお土産にお菓子を買った。
ここにいるうちに、さっきの腐った舌肉の影響がウイリィに現れ始めた。
兄は胸が悪くなり吐いた。
そして途中で「バットへ寄ってお薬を買うから先に駅に行くように」と私に云った。
私は荷物を全部持って一人で歩いて行き、やがて駅に着いた。
ドアが閉まり、発車のベルが鳴って、汽車は東京に向かって動き出した。
赤帽たちは私の方を見てにやにやしながらこう云った。
「次の汽車は十時!」
私はがっくりきて、もしウイリイがそこにいたらひどい目に遭わせるところだった。
だから私は「馬鹿な馬鹿な馬鹿な」と数回云うだけでなんとか我慢した。
それは『腹立ち紛れに帽子の箱を蹴飛ばして自分の帽子を台無しにする』とか。
『鞄をひっくり返して壊れやすい中身を粉々にする』といったことをするよりはましだったろう。
そのうちやっとウイリィがやって来た。
でも、もう今更どうしようもないので、家に電報を打ってから、次の汽車を待つ間、バラ夫人のところへった。
雨は土砂降りになるし、私は悲しくなるばかり。
バラ夫人の家に辿り着き、夫人の温かい胸に抱かれるまで、みちみち大粒の涙をぽろぽろ流した。
舌に痛みを覚えたので薬を飲み、それもやっと収まっていくらか元気になった。
夫人はアルバムを取り出して写真を見せて下さった。
息子さんは十六歳だが、最近送ってきた写真は、とてもよく撮れていて印象深い顔だった。
その若い顔には男らしさとやさしさが同居していて、私はすっかり魅せられてしまった。
深く胸を打たされたのは何故だか分からない。
『しばしの別れをだに嘆きし、愛するものの笑顔』にほんの少し似ていたからかも知れない。
夫人は母親として当然の誇りに満ちていた。
私がその写真に惹かれているのに気付いて、次のように云われた。
「気に入りました? この子を永久に差し上げてもいいのよ」
私はお礼を述べてから、こう切り返す。
「ご本人よりも写真を下さい」
けれど、お母様は写真を手放すことはできなかった。
彼の名前はオーランド・ベントンというのである。自分では「オーリー」と云っているらしい。
オーランドって、なんて素敵なロマンチックな名前!
素晴らしい顔の青年にピッタリの名前だ。
出かける時には雨も殆どやんでいた。
今度は乗り遅れることもなく、一時間後には母の腕の中にいた。
疲れ切って我が家ほど良いところはないと思った。
『小鳥の雛は 巣の中にいてこそ安全』


1878年6月22日 土曜日
昨夜床に就いたのは十二時を回っていたので、私たち一家が起き出したのは九時過ぎ。
ネリー・アマーマンの甲高い声で目が覚めた。
彼女はアディと遊ぶためにやってきたのだ。
お昼に新しい赤ちゃんを見に、母と富田夫人のところへ出かけた。
しかし、道すがら私が行くのは早過ぎるということになり、母だけが一兵衛町に行って、私は勝家に行った。
勝家ではとても親切にして下さって、古い作法の本を一杯見せて下さった。
それは興味深い面白い本だった。
「マーシャル氏にあげるために百人一首を買ってきて欲しい」
母のお使いに、お逸と私は芝に出かけ、一ドル二十五セント払って一冊買ってきた。
でも勝夫人に云わせると「昔はたった二十五セントでしたよ」。
帰ってから勝夫人が私たちのためにお茶を点てて下さった。
それから私に綺麗な刺繍のある清国の扇を下さった。
みんな親切にして下さるのでとても楽しかった。
帰り道で麻布坂を下りてくるディクソン氏を見かけた。
私は敢えて知らん顔をして通り過ぎようと思った。
けれど彼は足を早めた様子で、道の分岐点の大きな木のところまで来た時に呼び止められてしまった。
しばらく立話をしてから私の人力車の横にくっついて工学寮まで歩いて来られた。
とても陽気でお話好きで、来週の火曜日に予定されている富士山についての講演に招待して下さった。
そのお返しに、私はヘップバン夫人から彼に伝えて欲しいと云われていたこと――横浜のアジア協会での彼の講演が大変面白かったこと――を話した。
彼は夫人を深く尊敬しているので、夫人に褒められたことはとても嬉しい様子だった。
いろいろお互いに冗談などを云って別れ、私は家に帰った。
それから森夫人のところへ行って、遅くなったお詫びを云い、ピアノの稽古をした。
レッスンの後、森氏の素晴らしい中国の収集品を見せて頂いた。
夫人の骨董品は、中国のお寺で買われた醜い小さい仏像である。
でも、夫人はとても良い方だ。


1878年6月23日 日曜日
今朝、少し散歩したので、母と私は日曜学校に少し遅れてしまったけれど、私がオルガンを弾く時間には間に合った。
会衆は大勢だった。
パーソン先生は、ヨハネ伝の中の「人新たに生まれるにあらずば……」のところをテキストとして説教をされた。
私はとても良いお説教だと思ったのだけど、マクラレン氏は気に入らない様子。
パーソン先生はいつも正当派的なマクラレン氏の気に障るようなことを云われるのだ。
午後の私たちの聖書勉強会に、思いがけず森夫人がみえた。
五時にディクソン氏がウィリイと一緒に入ってきて、十時まで歌を歌ったり、喋ったりして行かれた。
彼は賛美歌を作曲して、それに言葉をつけるようにと私に云った。
挽歌のようなのが良いとのことだった。
「火曜日の講演会には是非お伴をさせて下さい」
そう申し出られたけれど、ウィリイが家にいるからその必要はないのだ。
彼は段々親しげに打ち解けてきたけれど、今日被ってきた帽子といったらなかった。
後ろは日除けのボンネットのようなのだけど、前は兵隊の兜のようだ――兵隊が兜を被るのかどうか知らないけど。
一応この変な帽子は本当は東京で夏によく見られる日除け帽子だったりする。
けれど、今までに見たこともない変な形だ。
トルコ人の湯上がりタオルのような大きなタオルが帽子の山の周囲に巻き付けてあって、横のところで大きな蝶結びになっている。
とにかく滑稽至極な代物で、短いコートと組み合わせるとおかしくてたまらない。