Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第53回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、おやおさん宅訪問とクララ一家の横浜逗留、そしてある日の日曜学校の模様の話がメインとなります。


1878年7月23日 火曜日(下巻12頁)
毎朝十一時に来る小さな生徒が二人できた。
有祐さんの従兄弟で、薩摩のサムライの子供である。
上の子が十三歳で横山元千代、下の子が十歳くらいで横山壮次郎という名前だ。
我が家に初めて勉強に来た時には、元千代が大きい声でABCを暗唱し、壮次郎は兄が相当進むまで待っていて、途中から違う音程で一緒に暗唱しだしたので、私は頭がこんがらがってしまった。
でも今では扱いやすくなった。
兄の方は可愛い悲しげな声をしていて、壮次郎の方が堂々と声を張り上げる。
私はこの子たちを教えるのが楽しみだ。
この屋敷で何か役に立つことをする糸口のように思われる。
フルベッキ家のエマのためのクラブのお別れパーティーに来るようにメイに招待された。エマとのお別れはとても辛い。
家を出たところで村田夫人と林氏にばったり出会ったので一緒に引き返した。
家には何も面白いものがないので、森家のお庭をお見せしようとお連れした。
「まあ、クララさん。上がってお茶を召し上がっていって頂戴」
おひろさんにそう勧められたけれど「お庭を拝見しに来ただけですから」と丁重にお断りした。
「それでは庭をご案内しましょう」
おひろさんは下駄を履いて小さい川、山、丘、林、湖、その他のものが一つの狭い場所に圧縮されているのを見せて下さった。
そのうちに、おひろさんが「あの若い男の方はどなたですか?」と尋ねられた。同行者の紹介をしていなかったのだ。それで「林氏です」と答えると、吃驚されてしまった。
「まあ、あの恒五郎ちゃんがこんなに背の高い立派な青年に育って!」
彼女は何度も頭を低く下げて、有祐さんと一緒に学校に行って下さった親切に対して、お礼を言われた。
しばらくして、今度は村田家のお嫁さんであるおひささんの方をチラっと見て云われた。
「あの美しい方に何処かでお目にかかったことがあるような?」
「村田一郎氏のお嫁さんですよ」
「? 村田氏ってどなたですか?」
不思議そうに問いかえされたので「林氏のお兄さんです」と答えた。どうやら養子になったことをご存じなかったらしい。
こういう会話が取り交わされている間、当のお二人は袂で口元を隠してくすくす笑ってられた。
ところで、林氏も相当の頓馬である。良い例が次の話である。
家に入ってから私はおひささんの紋に気が付いて「彼女の家の紋か?」と尋ねたら「いえ、村田家のものですよ」ということであった。そして林家のは三蓋菱だと。
「それではどうして恒五郎さんの紋は違いますの?」
私の問いに林氏はお義姉さんの方を振り向いて尋ねた。
「僕は村田一郎の兄弟かね、従兄弟かね?」
おひささんは脱力するような一言。
「あら、従兄弟じゃありませんか」
……ちなみに村田一郎と林恒五郎氏は本物の兄弟だ。
この後、私はメイのところへ行くと、いつもの常連が集まっていた。
そしていつものゲームをした。
でも夕食はいつもと大違いで素晴らしく美味しかった。マッカーティー夫人は素敵なお食事をお作りになる。
とても厭なイギリス人のヘリヤ氏が私たちの新聞を編集したがっている。
それも無料でという事だった。
私はそんな取り決めには絶対に反対だ。


1878年7月26日 金曜日
午後、お逸が迎えに来たので、一緒におやおさんを訪ねた。
でも出かけるのがとても遅くなってしまった。
というのは、出ようとしたところへ、丁度ヘップバン夫人が来られたので、私はお話をするために出立を遅らせたのだ。
今日が夫人のお誕生日なのだ。
そこで私はキスをして、真珠のプローチと手紙を差し上げた。
お誕生日と云うことを覚えていたのは私だけだったので、夫人はとても喜んで下さった。
それから更に村田氏の紙屋と、領事館の別当と二人の生徒が、みな同時に到着したので、出かけたのは五時近くになってしまった。
気持ちのよい道中だった。
おやおさんは在宅で、私たちを広い玄関まで出迎えて下さった。
この家に来たのは初めてではないけれど、いつ来ても大勢の使用人が跪いて私たちを出迎えて下さるのには驚かされる。。
おやおさんの後について沢山の曲がりくねった廊下を通って、やっと客間に到着した。
畳は実に綺麗で、歩くのが勿体ないようだった。
天井は高く綺麗で、壁紙や襖には松平家の紋があしらってある。
まず私たちはおやおさんの頭痛やおできのお見舞いを云い、お母様がお元気かどうかを伺ってから、おやおさんの部屋に通された。
彼女のお手製のもの――腰掛けや刺繍のある竹の台や踏み台――が置いてあった。
小さい長い机もうあったが、これは彼女やおすみの勉強机なのだそうだ。
そのうちに松平夫人が入って来られた。
ヨーロッパの王女にも似つかわしいような上品な方だ。実際にとても大金持ちで、本当の王女様なのだ。


それから私たちは庭に出て、疲れるまで蟹を捕まえて遊んだ。
いったん中に入ってすぐ失礼しようとしたところ。
「どうしても今しばらくいらして頂けませんか?」
おやおさんの珍しい強引なまでの引き止めにゆっくりしていたら、使用人が夕食を運んできたので吃驚してしまった。
夕食を食べ始めるのが一騒ぎ。
誰も一番先に手を付けようとしないのだ。
「お逸さん、どうぞお茶碗とお椀の蓋を取って下さい」
おやおさんはそう勧めるがお逸は辞退し、私も同様に遠慮した。
「じゃあ、せーの! でね」
結局、三人一緒に蓋を取ることになった。
ところが蓋を取っても、今度は誰も食べ始めようとしないのだ。
でもこの難関も同じようなやりとりを繰り返し、ようやく三人はお上品に食べ始めた。
まずおつゆを一口飲み、それからご飯を一口、それから蒸し卵、それからオムレツ、そしてまたご飯から始めて、これを繰り返し。
結局ご飯を二膳、おつゆをお椀に半分、オムレツを半分とお茶を頂戴した。
そうそう、忘れていた。その前に桜茶が出された。これは桜の花で作るものである。
正直ひどくまずかったのだけれど、私は厳かに飲んだ。
夕食後、再び庭に出た。
小さい寝台のような形をしたものに板を乗せ、筵を敷き、その上に赤い毛布を広げたところへ腰かけるように云われた。
私たちは腰を下ろして白い紙で蝶々を作り、長い髪の毛で扇子の端に結びつけた。
扇ぐとまるで生きているようにひらひらと舞い踊った。
そのうちに松平夫人が縁側に出て来られて、私たちの方をご覧になりながら、お逸の髪の毛や服装をお褒めになった。
七時半にお土産を頂いてお暇した。
「昨日ね、徳川家の奥方様にお会いしに行ったのよ。今年になって三回目かな?」
帰路、お逸が昨日の経験談を語り始めた。
奥方様は将軍家の失われた権力を偲んで、昔の将軍家の衣装を付けておられるとのことだ。
「それでクララから貰った調理本の通りに、アイスクリームを作って差し上げたのよ。
ちゃんと、貴女から教わったものであることも奥方様には伝えたわよ、凄いでしょ?」
お逸は何故だか胸を張って、誇らしげに答えた。
ところで私が気になったのは全然別のことだ。
「将軍家の奥様に会いに行ったのなら、当然正装で行ったのでしょう? まさか、正装のままアイスクリームを作ったの?」
「いや、勿論それは脱いで作ったわよ」
奥方様はお逸に綺麗な簪を二本と、帯と櫛を下さったのだそうだ。
夜、ウィリイと私はド・ボワンヴィル夫妻のところへお食事に招かれて行った。
とても良い方たちである。私は夫人にすっかり魅了されてしまった。


1878年7月27日 土曜日
母とアディと私は、今日いろいろの方を訪問して歩いた。
まずメアリと名付けられた新しい赤ちゃんを見に津田家に行った。
次に杉田先生のお家に寄って楽しい一時を過ごし、それから銀座にも出た。


1878年7月29日 月曜日
今朝私たちがまだ寝ているうちに滝村氏がみえて、なんと午後三時までおられた。
「パリの博覧会に送るための古典音楽についての長い論文を書いたのですが、クララさんに不備な点を直して欲しいと思いまして」
私は一日中その仕事にかけ、日本の音楽についていろんなことを学んだ。
三時から一緒に町に出て、ディクソン氏ご推薦の二見朝隈写真館に寄った。
なるほど、ここで撮った写真はよく出来ていた。
亀屋にも寄って、隣から取り寄せたアイスクリームを食べた。


1878年8月4日 日曜日
もう八月だとは信じられない。けれど、時は容赦なく過ぎていく。
水曜日から、横浜のヘップバン家に来ている。静かな楽しい日々である。
始めの三日間、母とアディは息抜きにグランドホテルに泊まっていて、私も時々会いに行った。
毎日読書をしたり、書き物をしたり、オルガンを弾いたり、エプロンの刺繍もしたり。
それから宗教的な音楽と世俗的な音楽、両方相当数の写符もした。
今朝は日本人の教会に行き、粗末な日曜学校にも行った。
五時にホテルに行き、母を誘って一緒に聖公会の礼拝に行った。
聖歌隊の歌い方は早過ぎてまるで他の人には歌わせたくないようだったけれど、音楽はとてもよかった。
でも、お説教もとても早口で、しまいには話についていくことを諦めた。


1878年8月8日 木曜日
家に帰って来るとき、ウォトソンという立派な顔立ちの礼儀正しい紳士の庇護下におかれた。
この方はヘップバン先生のお友達である。
久しぶりに中原国三郎さんと一緒で、東京まで楽しい旅であった。
東京に着いてからウォトソン氏の人力車に乗せられて家に送り届けられた。
家の人たちは大歓迎だったし、私も家に帰って嬉しかった。
母の顔を見るのが何よりだ。


1878年8月9日 金曜日
数日ひどい痛みを覚えていたが、母のお薬と包帯のお陰で、今日はずっと楽だ。
ヘップバン夫人は、ニ、三週間函館に行かれるそうだ。
帰ってきた後は、姪御のリーナが一緒の家に住む予定である。
サム・ヘップバン氏の奥様とはだいぶ親しくなったが、とても良い方だ。
横浜にいる間、二回彼女を訪問した。
横浜に行く時にはヴァーベック先生のご家族と一緒だったけれど、この一家はダグラス夫人と一緒にチャイナ号でアメリカに帰られた。


1878年8月11日 日曜日
昨日郵便が着いて、沢山の手紙が来た。
その中にセアラ叔母さんのが入っていて、ホイットニーお祖父さんの死を報せてきた。
お祖父さんは六月十八日に苦しみ悶えながら亡くなった。
二週間悪寒や熱や足の激痛があって寝ていたが、そのうちに毒を含んだ血液が心臓に達してしまったのだ。
もっと若い人であったら、医者は膝の下から切断しただろう。
けれど、七十八歳では手術には堪えられなかったのだろう。
その結果、誕生日の一日半後には亡くなってしまった。
お祖父さんは親切で同情心が深く、とりわけ熱心なクリスチャンであって、とても良い人だった。
父宛ての手紙の中に、いつも死を平然と眺めている様子が窺われた。
信仰の厚い人だから死を恐れてはいなかった。
今は天国にいて聖人になった故人に混じって、救い主の輝くお顔を拝し、亡くなった親しい友達ばかりでなく、昔からの大勢の信仰篤い人たちと親しく交わっておられるだろう。
今度の便で着いた悪い知らせはこれだけではなかった。
アメリカでの私たちの事情は悪化して、フランクリン街の家を売らなければならないかもしれない。
お祖父さんとお祖母さんが住んでいた家、リビー叔母さんが生まれた家。
なんとかして売らずにすみますように。売られたら母は悲しむに違いない。
親戚のフランク・リグビーが家族みんな――メイム、セアラ、ジョージー、マリオンを入れて――の写真を送ってくれた。とても立派な家族である。


教会ではヴィーダー先生のお説教を聞いた。
家を出る時にご近所を回って、お子さんやお母様方に「日曜学校に誘っておくように」と使用人のカネに頼んでおいた。
午後一時に四人の子供が来たが、うち二人はいつも勉強に来ている生徒だった。
みんなが坐って絵の描いてあるカードに興味を持ち始めた頃に、小さい足音が遠くからばたばたと聞こえてきたと思ったら、一団の子供たちが現れた。
そしてちょっと躊躇ったが、そのうちに入って来たお兄さんたちのそばに坐った。
みんな女の子で綺麗な着物を着て、手足を綺麗に洗って来ていた。
そのうちに二人の身なりのきちんとした初対面の老婦人が戸口に現れると、子供たちが口々に云った。
「ご隠居様だ!」
とても感じの良い老婦人で、中に入ると深々と頭を下げ、いろいろ親切な言葉を述べた。
一人は壮次郎と元千代を教えて貰っているお礼を述べ、もう一人は孫を教えて欲しいと云った。
私は自分の大胆さに内心びくびくしながら、神様の話をした。
神様が私たちみんなをお創りになったこと、小さい者を愛されるイエス様のことを。
時々老婦人がたが口を挟んで私の言葉に同意し、質問をした。
私が話し終わると一人が「毎日曜日に教えて欲しい」と云い「こんな老人の耳に有り難いお話が入っていくものかしら」とも云った。
とても楽しい会だった。
「主我を愛す」を歌ってから、みんなにお祈りするから手を合わせるようにと云った。
隣に坐っていた老婦人が私に倣って手を合わせると、組み合わせた小さい手の上に、小さい頭が一斉に下がり、私は「この人たち全てと私の拙い努力を、天の神様がお守り下さるように」と心をこめてお祈りした。
きっと神様は聞いて下さったと信じる。
もう一つのクラスは雨のせいか集まらなかった。
でも、私にとっては本当に恵まれた聖日であった。
このような日曜日がまたたびたび来ますように。