Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第58回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、クララとお逸の微妙な恋心の機微、勝家に建て始められた新居、そして「日本奥地紀行」で有名なイザベラ・バードの外国人の間での当時の評判についての話がメインとなります。


1878年9月27日 金曜日 
津田氏が昨日見えた。
東伏見宮妃殿下がピアノを持っておられ、習いたいと仰っておられるのですが。
クララさん、殿下のお宅に伺ってピアノをお教え頂けませんか?」
東伏見宮殿下は日本で最も美しい男性と考えられており、内外の楽器をどれでも上手にお弾きになるそうだ。
柴田氏も私のために生徒を見つけてくださった。
忙しくなるけれど、この種の忙しさは楽しいものだ。
五時にお招きしてあったお客様がみえた。
日本の楽器の音楽会をするつもりだったけれど、それは失敗。
まず滝村氏がみえて魔法のばねのついた赤い絹の傘を下さった。
これは全部日本人が作ったのだということだった。
その他に『日本古典音楽』という小冊子の最初に出た一冊を、私に読むようにと持って来て下さった。
以前滝村氏に相談されて、私が英語の添削をした本だ。
これを訂正したものが種々の楽器と一緒にフランスの博覧会に送られている。
次に大久保三郎が吃驚したような顔をしておいでになった。
家を見つけるのに一苦労なさったらしい。
その後に小鹿さんがよそ行きの服装でやって来た。
容姿端麗な小鹿さんと並ぶと、大久保氏は見劣りする。
けれど、社交性では大久保氏が一番。
紳士的であるばかりでなく、まるで学生のように陽気である。
最後にみえたのが柴田氏とディクソン氏だった。
お互いに紹介し合ってから、音楽が始まる予定が、柴田氏と滝村氏が意気投合していきなり演奏を始められた。
柴田氏の楽器は「ひちりき」というものだった。
クラリネットに似ており、まるで工場か機関車の汽笛のような大きい音を出し、滝村氏のやさしく悲しげな笛の音を完全に打ち消してしまった。
演奏が始まった時点で大久保氏、お逸、アディと私の四人は隣の部屋にいた。
けれど柴田氏の騒音が始まると、大久保氏は耳に手を当てて叫んだ。
「助けてくれ! 鼓膜が破れる!」
それで私たちは一斉に大笑いをした。
次に日傘を持って、それで演奏しているような真似をされた。
頬を膨らませ、目を大きく開いて。
お逸と私はおかしくてたまらなかった。
私たち三人は裏の客間で笑ったり、喋ったりして楽しい時を過ごした。
大久保氏は本当に面白い人だ。
私たちは凝った食事をして、アイスクリームを食べて震え上がった。


食後に私が演奏を始めたので、みんな客間に集まってきた。
大久保氏が「埴生の宿」を弾いて、と云ったので弾くと、彼が歌った。
イングランド民謡なのに、前者については日本人に何故か受けるのである。
それから大久保氏の音頭で、全員が「河のほとりに集い」その他を大声で歌った。
「とてもよい歌ですね。でもこの曲が有名なオペラの一節だと云うことをご存じですか?」
そうディクソン氏が説明なさった。
更にディクソン氏は『サウル』の中の「死の行進」<アディと私がアディの歌える子供の歌を一つ歌ってから>を弾かれ、みんなに褒められた。
ただ、みんなといってもお逸は別だ。
彼女は私の椅子の背に寄りかかって私の指輪を褒め、色目を使っている大久保氏の方にすっかり気を取られていた。
私たちは実のところほんの少しばかりお互いに嫉妬しているのだと思う。
お互い相手にない魅力があって、二人とも人の注目を惹くのが好きである<当然のことながら>。
でも私は絶対妬ましいような様子を見せないつもりだ!
私はお逸を心から愛しているし、彼女は私の生活に幾度も光を照らしてくれたのだ。
それに男性方と話をするのは私にとっては遊びであり、娯楽である。
私は今までに出会った男性の誰とも結婚する気はないのだから。
でも、お逸には結婚とは現実的なことであって、私には何でもないようなことが彼女には重要なのだ。
だから私は彼女にできないような真似を平気でしたりする。
しかし、自分の自由な立場を悪用するようなことをする気は毛頭ない。
他の楽器の演奏が済んでから、柴田氏が私に一本指で「主われを愛す」を弾くのを教えて欲しいと云われた。
それで私は彼の丸ぽちゃの色黒の短い中指をつかまえてその曲を弾かせた。
彼は大いに満足し、他のみんなは大いに笑った。
いや、はじめはしんとしていたのだけれど、ディクソン氏と大久保氏がいきなり、からからと笑ったのでみんな真似して笑ったのだ。
私はだんだん顔が赤くなって決まり悪くなりながら、笑わずに辛うじて曲の終わりまで弾いた。
私の弟子の柴田氏は裁判官のように真面目な顔であった。
まるでアブラハムかそういった家長に「ヤンキー・ドゥードル」を教えているような気がした。
それから彼は甲高い音を出す笛を取り上げて、今覚えた曲をこれで吹いてみると云った。
耳をつんざくような音が鳴りわたり、みんな耳が痛くなってしまった。
オルガンの一番強い音でも完全に消されてしまう。
ディクソン氏は部屋中歩き回りながらゲラゲラ笑った。
やがてお客様方は引き揚げ、大久保氏はお父様に書き込んでいただくよう、私のアルバムをお持ちになった。


1878年10月1日 火曜日 
今日日記を数えて、私が日記をつけ始めてから七年間に、どれだけ紙を浪費したかを計算しようとした。
しかし書くことこそが私の十字架なのだと思い直した。
もし日記がなかったら耐え難く淋しいであろう。
とりあえず、過去はしまっておいて、現在のことを考えなければならない。
現在は幸せと喜びに溢れているけれど、悲しみや苦しみも多い。
今から書こうと思う昨日の出来事は愉快な楽しいものだった。
でもその前に、私たちの新しい家――私たちの家となる予定の家――のことを書かなければならないだろう。
木挽町の住みよい家を出たのは七月だった。
森氏のご厚意で、新しい家が見つかるまで永田町の彼の持ち家に住んでいる。
その間、友人たちが一生懸命探してくれたがなかなか見つからなかった。
それでご親切に勝安房守様が私たちのためにお屋敷内に家を建てて下さることになったのだ。
小鹿さんと富田氏の監督の下、今日から建て始められることになる。
私たちは本当に感謝にたえない。
何とかして感謝の気持ちを表したいと思う。
おっと、昨日のことはまだ書いてない。
富田夫妻がピクニックを計画して、私たちの他にディクソン氏、シェパード夫妻とお子さんたち、村田氏、お逸を招待された。
私たちは大きい屋形船で、一時に華族銀行の近くの宝来橋のところから出発した。
みんな大喜びで、運河を下って東京湾に出て、そこから静かな隅田川に入っていった。
三時間の楽しい船旅――その間に煎餅や、福徳の包みや、ゆで栗をたくさん食べて――の後に向島の植文茶屋に着いた。
中に入ると女の人たちはすぐにテーブルの用意をしてくれた。
もっともテーブルといっても、ベンチのようなものを三つ並べて上に白いテーブル掛けを掛け、ナイフやフォークやナプキンを揃えたものだ。
みんなどうにかテーブルの周囲に坐った。
ある人は横膝に坐り、ある人は胡座をかいた。
シェパード氏は滑稽な方で、床にべたっと坐って、足をテーブルの下に突っ込んだが、向こう側まで届くほどだった。
私はいつものように坐ったが、村田氏が他の人たちにこんなことを話しおられるのが聞こえてきた。
「クララさんは本当にとても上手に坐られますな、まるで日本人のようだ」
私はディクソン氏とシェパード夫人の間に挟まれていたけれど、夫人はしょっちゅう私をつっついて、次々に回ってくるご馳走を「これは何ですか?」と聞いてきた。
一つは大根だったのだけど、彼女は私が「ドライコーン」<乾したトウモロコシ>と云ったと思ったらしい。
みんな賑やかに喋ったり、笑ったりして楽しい食事だった。
食後に花屋敷の中を散歩して、土地の人が珍重する「秋の七草」などを鑑賞した。
夜に入ってからの帰り道は一団と快適であった。
あたりをぼんやり照らす朧気な提灯の光の中でいろいろの歌――荘重なものから滑稽なものまで――を歌った。
滑稽なものでは「三匹の黒い鵜」「メアリ・アン」「可哀想な駒鳥」「乙女」「ちいさい子ネズミ」などが一番おかしかった。
子供たちも上手に歌って興をそえた。
とにかくとても愉快であった。
ディクソン氏が家まで送って下さり、大学の帽子とガウンを見せて下さると約束した。
家に着いたのは夜の八時半だった。


1878年10月3日 木曜日
アディと私はサットン家のテニスのパーティーに行く予定の筈が。
プレストン・クレッカーの誕生日だということなので、アディはプレストンを手伝ってお祝いをしてあげるために築地に行くことになり、私は連れて行かなければならなかった。
帰り道いろいろ用足しをした。
ド・ボワンヴィル夫人が夕食にみえて、そのあと母と一緒にYMCAのパーティーに行かれた。
でもその前にちょっとした音楽会を家でした。
夫人はとても良い声で、正確に歌われる。
私は母たちのお伴はせず、家にいて本を読んだりオルガンを弾いたりした。
「YMCAのパーティーに連れて行ってあげましょう」
ディクソン氏は以前からそう宣言したのだけれど、今日の午後になって悲しい顔をして現れた。
「パークス夫人について来て欲しいと頼まれてしまい、どうしても断り切れなかったので先般の約束は勘弁して頂けませんか?」
「…………」
それは侮辱と取るべきかどうか分からなかったけれど、私たちは憤慨した。
でも母は何事もなかったような顔をしていた。
しかし私たちの復讐は十分遂げられた。
というのは、ディクソン氏が公使館に行くとパークス夫人は行けなくなったという回答が。
しかも、代わりに実にいやな老嬢イザベラ・バードをお寄越しになったのだ。
イザベラ・バードは本を書くつもりで、誰にでもしつこくいろいろ聞き出そうとするので、誰もそばに行きたがらない人物なのだ。
先日まで東北地方と北海道を旅行しており、日本での旅行記を書くそうだ。
ディクソン氏は銀座まで歩かされ、帰り道もずっと歩かされた。
すっかり「騙された」彼は、その晩不景気な顔で一度も笑わず、可愛いジェニーやガシーにまで素っ気ない態度を取った。
音楽会でミス・ピットマンの歌を紹介する時に「ミス・ホイットニー」と云ってしまい、慌てて言い直して今度は「ミス・ホイットマン」と云って聴衆から大笑いされた。


1878年10月5日 土曜日
陰鬱な不快な一日だったので、開拓使行きは延期しなければならないかと思った。
でも母とド・ボワンヴィル夫人が祈祷会をしている間に私は築地へ行き、森夫人も訪ねた。
午後グレタ、アニー、ルウの三人のシェパード家の子供たちが遊びに来たので、お庭に行った。
子供たちは結構楽しんでいるようだったが、母も私もむっつりしていた。
陽気のせいだと思う。
私たちの留守中に大久保氏が、お父に書き込んで頂いた私のアルバムを返しにみえた。
図師氏も来られた。
昨日私たちはダイヴァーズ夫人を訪問して、イーディスとエラの二人のお嬢さんは教育のため横浜の修道院に送られたことを聞いた。
夫人は私に遊びに来るようにと仰った。
それからお悔やみを申し上げにビンガム夫人を訪問した。
夫人が突然アメリカにお帰りになるのはとても残念だ。本当に悲しい。
娘さん――フレージャー夫人――が亡くなったという知らせを、この前の日曜日に教会から出て来られた時にお受け取りになったのだが、それ以来悲嘆に暮れておいでになる。
ルーシーは一番お気に入りのお子さんで、晩年を一緒に過ごしたいと思っておられたのだ。
今月の二十一日に夫妻はアメリカに向けて出発なさり、六ヶ月不在になる。
ご夫妻がいらっしゃらなくなったらどてしていいか分からない。
ビンガム氏はすべてのアメリカ人の保護者であり、父親である。
あるイギリス人がこう云っていた。
「パークス夫人はとても良い方だけど、アメリカ公使館のやさしい小さいご婦人とは比較にならない」と。
いつも好意的な言葉をかけて下さり、私たちみんなを愛し尊敬していると云われた。
彼女がいなくなるのは本当に悲しい。


1878年10月6日 日曜日
ヴィーダー先生が黙示録十四章の「神のうちに逝く者は幸いなり」をテキストにして弔いの説教をなさった。
それはビンガム公使の長女が亡くなったからであろう。公使とミス・エマは教会にみえていた。
ひどい雨にもかかわらず、大勢の新しい人たちがみえていた。
ディクソン氏の親友のユーイング氏がスコットランドから来て、二人とも礼拝に来られた。
あのしつこいイザベラ・バード嬢も一緒で、遅れて来て大人しく後方の席に腰掛けた。
「親友のユーイング氏をお宅に連れて行って宜しいでしょうか? 火曜日には是非アジア協会の会にお伴させて欲しいのですが」
ディクソン氏は弁解するようにそう云い、でも最後にこう付け加えた。
「――バード老嬢にひっさらわなければ」
彼は老嬢からできるだけ遠く離れて、しかしやむなく一緒に帰って行った。
私がすっと横を通り過ぎた時に、いとも悲しげな顔をしてお辞儀をしたけれど、私はつんとして通り過ぎた。
今日は聖餐式だった。