Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第62回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、日本の音楽学校に招かれた話、クララと駐米領事夫妻の初対面、そして虎ノ門で発生した兵隊と警官の間に大衝突の話がメインとなります。
で、今回の超訳日記解説では、何故か幕臣として名高い川路聖謨の話題が。


1878年11月10日 日曜日
コクラン先生が『出エジプト記』二十章八節「安息日を憶えてこれを聖潔すべし」をテキストに説教された。
それは明らかに“あてつけ”だった。
先週の日曜は天長節であり、寺島家で行われた宴会に招かれ、それを承諾した若いディクソン、ユーイング、グレイの三人に向けてなされたものだ。
このうち後の二人は実際に出席したのだが、ディクソン氏だけは母に「行かない」と約束させられていたので欠席した。
もっとも後から彼は「行くことが悪いとは思わないのだけど」と付け加えた。
コクラン先生は随分はっきりと仰ったので、私たちの義務についての疑問の余地はなかった。
それは私たちみんなにとって大事な教えで、よく心しておくべきものである。


1878年11月11日 月曜日
午後、招魂社の近くの湯島にある日本音楽の学校を訪問するという幸運に恵まれた。
滝村氏が迎えに来て下さって、二時に大きな日本式建物の前に着いた。
高主に滝村氏が取次を頼むと、私たちは中に招じ入れられ、岩田通徳氏に紹介された。
この方が主任音楽家であり、音楽の表示法に関する著書を滝村氏が翻訳しておられるのだ。
「万博に出展される本の翻訳、お手伝いいただきどうも有り難うございました」
岩田氏は私が滝村氏を手伝ったことに対してお礼を云われた。
そして、二つの大きなガラス戸を開け、垂木が露出し、床にカーペットを敷いた大きな広間に私たちを案内された。
ここには二十五人から三十人の日本人の男性が集まっていた。
年齢はまちまちだが、明らかに上流階級の人たちだ。
ある人は静かに腕を組んで黙って坐っていたが、眼は傲慢な下がり目で、唇は人を見下すように両端を下げていた。
またある人たちは楽器を奏でていた――私たちは演奏の最中に入ってきたのだった!
中には拍子木で拍子を取っている人もあり、歌を歌っている人もあった。
本当に荘重な曲だった。
男性的な声が垂木の間を漂って消えていく。
最後に拍子木が鳴って曲の終わりを告げるまで、私たちはじっと聞いていた。
終わるとみんな一斉に深々と頭を下げ、立ち上がって退出し始めた。
私たちの来るのが遅かったのである。
彼らは初めのうち、尊大で無口だった。
けれど、私たちが次々といろいろの楽器を見せて頂いているうちに、段々近寄ってきた。
そして間もなくすっかり打ち解け、まるで魔法にかかったように礼儀正しい感じの良い人たちに変わった。
私たちに何でも教えたいという様子だった。
あらゆる楽器を持ち出してきて、一人一人が自分の得意な楽器を弾いてきかせてくれた。
一人は和琴、一人は琴、一人は笙、それから琵琶、笛、太鼓、ひちきり、等々。
私は数々の新しいことを学び、新しい曲を聞いた。
一つの曲は初め和琴と笛で演奏され、ついで笛とひちきり、笙、羯鼓でもって演奏された。
次に声楽と笛、ひちきり、琵琶、和琴、琴その他の一大合奏があった。
みんなにお礼を申し上げ、特に滝村氏に、ここに連れて来て下さったお礼を申し上げてお暇しようとした時に、どの楽器でも演奏できる愉快な一人の方が仰った。
「外国の音楽が是非聞きたいですので、お宅に伺っても宜しいですか?」
「ええ、どうぞ。歓迎します」
他にも何人かの方が私たちの国籍や住所をお聞きになった。
その中の一人は大きい黒い髭を生やした立派な顔立ちの方で、見事なテノールの声をしていた。
また一人はふさふさとした長い髭のご老人で琵琶を弾かれる。
真っ白の髭を琵琶の上に垂らし、厳かにこの東洋の楽器を弾いている姿は印象的だった。
相当の年齢だと思うけれど、矍鑠としていた。
「パーラー」でお茶を頂いてから、岩田氏にお別れして外へ出た。


何人かの立派な容貌の方々が丁寧に見送って下さったのだけれど、ここで問題発生。
うちの車夫のヤスの姿が見あたらないのだ。
「ヤス、何処だー?」
滝村氏がまず声を上げ、そのあと皆さんで「ヤス、ヤス」と一生懸命呼んで下さり、ヤスの名前で庭中に鳴り響いた。
どこかへ消え失せた車夫を、まめまめしく探して下さる情景は、とても滑稽。
特に本人は、車の中で膝掛けを被って寝込んでいて、二、三分たってからのこのこ出て来たので何ともおかしなことであった。
みんな大笑いをして、恭しくお辞儀をしてからぞろぞろと麹町の方へ歩いて行った。
一人の方はもう一度足を止めて、私たちにまた来るようにと云い、続けて
「もう一度おいでになるなら、もっと大勢の演奏家を揃えて」
そう云って天井の垂木を指差し「この部屋一杯に楽しい調べを鳴り響かせます」と云った。
ただ私は正直思った。
あの物凄い“ひちりき”が合奏に参加するのでは「楽しい」かどうか、極めてあやしいと。
しかし本当に善意の方々で、とても親切だった。


1878年11月16日 土曜日 
母と一緒に布を買いに町へ出た。
よいお天気だったので、気持ちよく散歩して途中から車に乗り、虎ノ門のところで母と別れた。
私はまずド・ポワンヴィル夫人の家に行った。
昨日勝家からの帰途「子供達の写真を撮るのに写真屋に案内して欲しい」と頼まれていたのである。
夫人は私の来るのを待っておられたので一緒に出かけた。
最初浅草の清水東谷館に行ったのだけれど、そこの子供の写真は夫人のお気に召さなかった。
というわけで、私の嫌いな内田写真館に行ってみた。
次に銀座に出て二見写真館に行くようにと車夫に命じたのだけれど、やんちゃなマリーがどうしてもじっとしていないので、今度またご主人が来られる時にすることにした。
家に帰ってみたら招待状が二つ来ていた。
一つはブランシェー夫人からで、もう一つはシェパード夫人からのもの。
ブランシェー夫人のところは、遠すぎて行けない。
というわけで、私はシェパード夫人の方に行った。
富田夫人が迎えに来て下さり、私はおめかしをして出かけた。
スコット夫妻、ジョードン氏、駐米領事柳谷謙太郎夫妻などがみえていた。
領事は陽気でアメリカ化されている。
今は和服の夫人は洋服もお召しになるのだそうだけれど、きっと似合わないと思う。
彼女は最大限に日本の技術を用いても美しくはならない。
今洋服の世話をしているフェノロサ夫人は、通訳を通さないと話ができないので、私に世話して欲しいというのが柳谷氏のご希望である。
楽しい夕べではあったけれど、あまり高尚な集まりではなかった。
話題は主として、謎とか、お風呂のこととか、女優のことだったからだ。
それと見るのも恥ずかしいような絵もあった。
でも柳谷氏は大変愛想が良く、私は彼とスコット氏の間に腰掛けていたのだが、彼は私と名刺交換し、奥様を訪問するようにと云った。
夫妻は今月の二十四日にサンフランシスコに発つのだそうだ。
宮城に近い四谷に住んでいるので、一緒に帰ってきた。


1878年11月17日 日曜日 
アディと私は今朝日曜学校に行くのに銀座まで歩いて行った。
気持ちの良い日は車で行くより歩いた方が楽しい。
虎ノ門のところで兵隊と警官の間に大衝突があったそうだよ」
途中で出会ったアンガス氏にそう教えられた。
とても危険なことに、戦いはいつも近所で日曜日に起こる。
教会ではインブリー氏が、はじめて私たちの牧師として説教された。
つまり、彼が教会によって牧師に選ばれたのだ。
彼の説教は教会のこと、会員はキリスト者として行動すべきであるということについてであった。
大勢の会衆が出席した。
芝教会のダイアー教授夫妻や、ド・ボワンヴィル夫人まで来ておられたが、失望されることはなかった筈である。
大変立派なお説教だったから。
このように精神的な教えを聞くことができるのは幸いである。
だけど、私の心は浅薄であって、神様の御名を聞いても、神様への奉仕に全精神を捧げることができないかもしれない。
どうか私の魂を忠実なものとなし給え。
これが日曜日の夜の私の祈りである。


1878年11月18日 月曜日 
昨日の続報である。
兵隊と警察官の間の衝突は大事件であったことを今朝聞かされた。
数人の人が殺され、あるいは虎ノ門の橋の上から堀に投げ込まれたそうだ。
兵隊は抜刀を禁止されており、禁を犯した者は死刑になる。
従って必然的に、六尺棒を自由に使える警官のほうが優位に立つことになる。
今朝早く富田夫人のところへ行って、団子坂の菊の展示会にお誘いした。
夫人は行くと仰ったので、私は支度をしに家へ帰ってきた。
二時に私たちの「菊見」の仲間が集まった。
母とド・ボワンヴィル夫人、ディクソン氏、アディ、富田夫人、村田夫人と私は揃って出かけた。
展示は綺麗で上手に出来ていたし、菊の花は大きくて綺麗であった。
だけど正直なところ、私は花も見飽きたし、人も見飽きた。
私たちは久保町の「売茶亭」というお茶屋に行き、そこで村田氏に会って素晴らしい日本食の夕食をいただいた。