Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第63回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、失礼な白人の話、変わった隣人(元幕府の役人)の話、村田家の夫婦喧嘩の話、そして蓄音機と電話のデモで散々遊ばれたディクソン氏の話がメインとなります。


1878年11月20日 水曜日 
昨日の土砂降りがやみ、明るい太陽が出たので、私たちは喜んで横浜へ出かける支度をした。
十二時の汽車に間に合わなかったので、一時の汽車を待った。
駅の待合室で、近くアメリカに出発されるので衣装を整えるために横浜へ行かれる柳谷夫人に出会った。
ミス・ピットマン、ショー氏、ターリング氏も汽車で一緒になった。
長い汽車の旅をして横浜に着き、柳谷夫人と別れて、私はミス・ピッマンと一緒に町の方へ歩いて行った。
母とは洋服屋さんのところで落ち合った。
私は素敵なマントを作ってもらうので、寸法を取るために来たのである。
五時の汽車で帰ってきたが、横浜駅でミス・ピッマン、柳谷夫人、ショー氏だけでなく、ターリング氏、ディクソン氏、ミス・ギャンブル等々にも会った。
ターリング氏は母にしつこく話しかけてきた。
母は彼の無神経さが厭でたまらなかったようだ。
ディクソン氏は誰にも押しつけがましい真似はせず、黙って見ていたけれど、時々うたた寝をしていた。
母はターリング氏の側を離れてショー氏の横の席に行った。
柳谷夫人と私はのべつまくなしに様々なことについて喋った。
東京に着くと、あの厭なターリング氏が家まで着いてきて、招かれもしないのに夕食までいた。
その上大変無作法で、アメリカの女の人についてだけでなく、ディクソン氏について紳士にあるまじきことを云った。
「ディクソン氏は今でも村田夫人に夢中なのですよ」
一日買い物をした後で疲れていたのに、あの厭な人が帰るまで、否応なしに起きて相手をしなければならなかった。
彼の下らない会話に耳を傾け、日本人についての質問に答えた。
明らかに私たちに日本人のお友達を紹介して貰いたがっているのだが、とんでもない!
私たちはあんな人を同じ白人同士であると認めるのさえ恥ずかしくてたまらない。
本当にたまらなく厭な人だ。


1878年11月21日 木曜日 
今朝外出の支度をしているところへ、村田夫人が入ってこられた。
更にそのすぐ後に佐々木氏、疋田氏、ヘップバン夫人と続いて来られる事態に。
生徒が来ていたこともあって本当に大変だった。
ヘップバン夫人は、母のクリスマスの贈り物に使うスプーンを私に持ってきて下さったのだ。
彼女の訪問は楽しかった。
三浦夫人もみえて長いことおられた。
三浦夫人は編み物が上手になって、ご主人の靴下でも赤ちゃんの靴下でも、自分で作る。
私たちはこの最初の生徒を誇りに思ってはいる。
が、私はあまり勇気づけられない。
というのは彼女は私が教えた英語を忘れてしまっているのだ。
彼女の本は今ではみんな「ご隠居」になったということだ。
ご主人は彼女の世馴れた身のこなしは私たちの家で体得したものだと思っていて、その点が気に入っているらしい。
使用人のヨシは夫が神戸に行かせたがっているのでやめると申し出た。
今日は一日中大雨だったこともあって、結局私は外出せず、家の中で寒くてぶるぶる震えていた。


1878年11月22日 金曜日 
シェパード家のグレタとアニーは、母にとって大変な重荷である。
特にグレタはぶきっちょで、無知で、しばしば生意気である。
年は十二だが、年の割にはおませで、態度が横柄だ。
「わたしね、アメリカに帰ったら、いーっぱいいろんなものを買って貰うんだから♪」
彼女がいつも話すことといったら、アメリカに帰った時に、お父さんが買ってくれることになっているもののことばかり。
褐色砂岩を正面に使った邸宅、カーネション色の自分の部屋、真っ赤なサテンの家具。
そういったものを、まるで、既に決定したことのように喋る。
でも、世俗的な両親によっていい加減に育てられた子供に対しては斟酌してやって、いくらかでも良い影響を与えるように心掛けるべきだろう。
午後柳谷夫人がみえた。
「日本語を話せないアメリカ人のところへ挨拶に行くのに、クララさん、ついて来てもらえませんか?」
そんな依頼だったけれど、私は母について行って通訳することになっていたのでお断りした。
柳谷夫妻は日曜日に横浜に行かれる。
今日は杉田先生を通してとても良いお友達ができた――榊さんというご家族で、お父様は上手な絵描きでいらっしゃる。


1878年11月23日 土曜日
今朝ド・ボワンヴィル夫人が母と一緒に祈祷会をしに来られたので、私は紅葉を飾り、部屋をできるだけ綺麗にした。
紅葉の暖かい色が、真っ青の壁紙と美しい対照をなしている。
食後、母と私は重要な訪問に出かけた。
マッカーティ夫人、シェパード夫人とブランシェー夫人のところである。
楽しい訪問を終えて早いうちに帰宅した。
ところで、我が家の隣の家に料理マニアのご老人が住んでいる。
そして毎晩のように料理の本を抱えてやって来ていろいろ質問してくる。
変わった人で、元は徳川幕府の役人だったらしい。
しかし今では隠居して、何もすることがないので、料理を研究し始めたとのことだ。
オランダ語が読めるし、二十年前に長崎で英語も勉強したそうだ。
昨夜十二時に大きな地震があって、とても怖かった。 


1878年11月24日 日曜日
アディと私は今朝日曜学校まで歩いて行った。
けれど、少なくとも三マイルはあるのでとても疲れた。
ミス・ホルブルックという新しい先生がみえたが、オルガンも歌も駄目なので、私はやはりお役御免にはならない。
今日のテキストはキリストの山上の垂訓の一部であった。
「先週の日曜は何の話だったの?」
ネリー・アマーマンにそう聞いたら、とんでもない返事が返ってきた。
「妹を虐めて殺しちゃった男の子の話よ」
仰天したけれど、よく聞くとカインとアベルの話だった。
ネリーって本当におかしな子だ。
礼拝の説教はデイヴィッドソン先生だった。
良い若い先生だけれど、説教は格別面白くもない。
ド・ボワンヴィル夫人とミス・ワシントンが私たちと一緒の席に坐った。
午後母のお伴をして、YMCAの会合に行った。
司会のポート氏が罪との戦いのために武装することについて話された。
彼は武具を体から放す危険を示す寓話をお話になった。


1878年11月25日 月曜日
村田夫人が来て、ご主人と初めて喧嘩をしたという話をした。
「どうしてまともなシャツを作ってくれないのか!」
村田氏が古いシャツを持ってきて、そう云ってきたそうだ。
「わたし、シャツなんて縫えません!」
「では、習いに行け!」
そう村田氏は言い付けたそうだが、奥様はその図々しさに腹を立てているのだと云う。
「普通のシャツなら学校で習ったけれども結婚してから作ったことはないし、これからも作る気は毛頭ありません。
主人には仕立屋にシャツを縫わせるぐらいのお金はある筈ですもの!」
彼女はそう考えている。
奥様はとても頭の良い面白い人だ。


1878年11月26日 火曜日
蓄音機や電話についてのユーイング先生の講演を聞きに、YMCAに行った。
YMCAにいる間にかなり強い地震があり、家に帰って床に就いてからもまたあった。
会には大勢の人が来ていたが、大半は宣教師団に所属する独身の女性。
彼女たちは、青年の集会でも祈祷会でもぞろぞろ出かけて行く。
そして、ディクソン氏に憧れの眼差しを向け、彼が微笑すると笑い、彼が真剣な顔をするとセンチメンタルな表情をする。
実に滑稽な光景だ。
ディクソン氏とジュエット氏は、私たちのそばに腰掛けていて、二人とも私たちに対し慇懃で面白かった。
気の毒なディクソン氏はいろんなことをさせられ、いくつも歌を歌わされた。
みんなは笑って聞いており、乙女たちはくつくつ笑い、ユーイング氏はこんな冗談まで飛ばしておられた。
「ディクソンさん、音痴に歌っても構わないですよ、蓄音機の方で直しますから」
そのうちにディクソン氏は隣の家に行って、電話を通して歌を歌わされた。
それは彼の心を奪ったスコットランド北部の乙女の歌だった。
けれど。
「乙女の輝ける青き瞳は 我が胸を裂き――」
歌詞がそこまで来た時、電線がぷっつり切れ、ジュエット氏は私にも聞えるように囁かれた。
「ディクソン氏のあの言葉には電線も堪えられなかったのですよ」
真っ赤な顔をして戻って来たディクソン氏は、ジュエット氏の前にどっしりと腰を下ろした。

 
1878年11月27日 水曜日
今日はお天気が悪くて、一日中家にいてクリスマスの準備にせっせと針仕事をした。
晩までには、私たちが作っている赤ちゃんの乳母車用の毛布に、ピンクの四角を数個縫い足したし、ウィリイのスリッパに沢山刺繍をしたし、私のテーブル掛けを仕上げて枠から外した。