Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第66回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、ホイットニー家で開催された蓄音機の披露式の話、兄ウィリイの帰省が近づきウキウキするクララの話、そして勝海舟邸での年末の大掃除&餅つきの話がメインとなります。


1878年12月19日 木曜日
金沢から電報が来た。
ウイリィは二十六日頃に帰って来るとの報でとても嬉しい。
昨晩ド・ボワンヴィル夫人と一緒に聖歌隊の練習に行き、火曜日は母と二人で横浜へ行った。
今夜はユーイング氏の蓄音機を見せる会に大勢のお客様を招いた。
が、皆様に集まって頂くのはなかなか大変だった。
最初勝氏は田虫に罹っておられて来られないと仰り、大鳥氏も風邪ということ。
中村氏は頭痛があり、ディクソン氏はYMCAの集会があった。
そういうわけでユーイング氏の立派な蓄音機をお見せするのに、十分人が集まらないのではないかと心配した。
しかし、晩になって勝氏も来られることが分かり、お嬢様や令息もみえた。
ディクソン氏は夕食まで残り、中村氏は代理として奥様とお嬢様をお寄越しになった。
杉田先生、富田氏、津田氏も見えた。
富田氏はイギリスに行かれ、三年間ロンドンに住まわれることになったとのこと。
奥様と赤ちゃんはお帰りになるまで、市兵衛町でお待ちになるそうだ。
彼がおられなくなるのは心残りだ。
ところで、料理人のカネは不潔で生意気なので暇をやった。
カネを追い払うことができて嬉しい。
私はカネが嫌でたまらなかったが、頸にすると宣言するのも怖かったのだ。
お逸が使用人に暇をやる時の文面をくれたので、それを写して読み上げたのである。
カネの代わりにハイパー夫人のところにいた料理人を雇った。
弥三郎という名前で、申し分なく清潔である。
もともと精養軒で働いていて、それから三年間大阪で日本のお茶屋に勤めていたそうだ。
閑話休題
さて、私たちの会の話をしかけていたのだったっけ。
結論から言えば、それは……完全な失敗だった。
中村氏の代理として中村夫人と令嬢の二人が来られたことにより、すっかり混乱してしまったのだ。
私は台所へ自分で立って行って、料理を監督しなければならなかった。
十人分用意したスープが十三人分にならないことが分かり、料理人が杓子に一杯の水をスープ皿に入れてしまった時に感じた絶望。
まるっきり悪夢だ。
杉田先生のお皿にはお魚の頭だけが、ディクソン氏のお皿にはお魚の尻尾だけが入っていた。
その一方で、私のお皿には一番上等な部分が入っているのだ。
ああ、どうして使用人というのは頭が悪いのだろう!
デザートまで辿り着いてもまだみんなに行き渡るようにする問題があったけれど、やれやれと思った。
こんな目に遭うのはもうこりごり。
食後に蓄音機を使って面白かったけれど、私はみんなの前で吹き込まされて上がってしまった。
それでも日本語と英語で吹き込んだ。
おまけに歌まで吹き込まされたが、その間ユーイング先生は私の頭の上から「もっと大きな声で」と囁き続けた。
津田氏はあまり大きい声で怒鳴られたので、ホイールが完全に壊れてしまった。
勝氏は私たちが彼のために特に調達した大きい椅子に悠然とおさまっておられ、小鹿さんはひげを捻りながら、勿体ぶった様子を見せていた。
屋敷内の大勢の人が見物に来た。
中村氏の令嬢は、名前はたおやかだが、洗礼名は「バーサ」だそうだ。
お客様は十時半に帰られ、私は食事の失敗にぐったりしたが、母があまりにがっかりしているので、つとめて元気に振る舞った。
おやおさんの義母である松平夫人は癌が再発して明日はおいでになれないとのことだ。


1878年12月21日 土曜日 
母は午前中にド・ボワンヴィル夫人を訪問した。
可哀想にチャーリーちゃんは種痘で腕に炎症を起こしてしまったのだ。
夫人はうちのすぐ近くの赤坂檜町に近く越して来る予定である。
月曜日の午後教会の飾りつけを私に手伝って欲しいと仰ったそうだ。
午後アディと一緒に買い物に出かけて、母にあげる綺麗なトースト立てと財布を買った。
家を出た時はよく晴れていたのに、帰る頃にひどい土砂降りになった。
かと思うと、急に陽がさしたりしておかしな天気だった。
こういう天候を日本では“狐の嫁入り”というんだよ、とはクリスマスのための裁縫を手伝いに来てくれたお逸の弁。
ウィリイから福井で打った電報と手紙が同時に着いて、帰りの道順の予定が書いてあった。
ウィリイは契約が更新されたので、帰って来ても長くはいられないのだけれど、早く帰ってほしい。
先日の晩、勝氏がご親切にウィリイのことを尋ねて下さった。
どなたもウィリイのことを褒めて下さる。
ことに金沢でキリスト教への関心を呼び覚ますことに成功した様子だし、何軒かの家に聖書があることを彼は発見した。


1878年12月22日 日曜日 
今日はソーパー先生が「徳」について説教されたが、後ろから風が吹き付けるので母が心配して、私に家に帰るようにと云った。
そのため私はお説教を聞くことができなかった。
私たちの隣の席のホワイト夫人が、暖房が暑過ぎて卒倒したために戸も窓もみんな開けたので、ひどく冷たい風が流れ込んだのだ。
日曜学校の方はマクラレン先生のクラスに出たが、お話はとても面白かった。
午後の私の家の日曜学校には、おやおさんがおすみを連れてみえた。
「わぁ〜、随分お久しぶり♪」
お逸は久々の再開に喜んでいたけれど、私としては小泉氏がお伴をして来るのは不愉快だ。
彼はひどく威張っている。
ところで、クリスマスのお祝いを二十八日まで延ばすと、おやおさんは来られない。
去年亡くなった婚約者であった松平康倫氏の一周忌なのだ。
でも、ウィリイは二十八日でないと帰って来られない。
それで月曜日の三十日まで延期することになるだろう。
おやおさんは背が伸びて一段と綺麗になった。
どうか聖書に対する関心を失わないで下さるように。
そうすればキリスト者としてどんなにか良い働きがおできになることだろう。


1878年12月23日 月曜日
母はお昼に横浜に行ってしまったし、アディはネリー・アマーマンのところへ遊びに行ったので私は一日中独りきり。
オルガンを少し弾き、羽根をついて暖まってから裁縫をしたり、書き物をしたりした。
家の中は静まり返り、書き物をするのにはとても具合がいい。
木挽町でも永田町でも戸外で絶えず何かが起こり、書き物をするのは不可能に近かったからだ。
今日は勝家の大掃除の日。
皆さんは午前四時起きだ。
ただし、勝氏と小鹿さんは掃除が嫌いなので外出してしまわれたそうだ。
畳も敷物も全部外に出して隅々まで竹の棒で叩き、障子を外して床を洗う。
女性十人で大掃除をして、夕方には完了していた。
ところで、こういった大掃除の時に大名屋敷で行われる奇妙な習慣がある。
女中たちが一人の青年を選んで胴上げするのだ。
一人の女中がこの男性の袖に手を掛けると、これを合図に元気の良い女中たちが笑いながら彼に向かって突撃し、逃げる間もなく彼は高々と胴上げされてしまう。
そうして、胴上げしておいて、床の上にどたりと落とすのだ。
そして起き上がるとまた襲撃される。
女中たちは大喜びだが、気の毒なのは犠牲になる男性である。
勝家では小鹿さんは真面目過ぎるし、梅太郎は若すぎるので、犠牲に選ばれたのは七太郎さんというサムライ。
彼は背の高い屈強な男性で、蹴ったり、引っ掻いたり、噛みついたりして勇ましく抵抗した。
頑丈なおきくを突き倒し、おせきを引っ掻き、おえいに噛みついて、自分も歯を一本折るというすさまじい奮戦振り。
それでも女たちはめげず彼を掴まえては投げつけたので、終いには悲鳴をあげて降参した。
大きな笑い声や悲鳴が、松、椿、竹などの植え込みの向こうから聞こえてきた。
大変な騒ぎだった。
この後は新年の準備のため、新しい着物を縫ったり、餅をついたりするのだ。


1878年12月25日 水曜日 メリークリスマス。
芝教会へクリスマス礼拝に行った。
ウィリイが帰って来るのを待つことにしたので、今日はクリスマスのお祝いはしない。
「じゃあ、うちに餅つきを見に来なさいよ」
お逸がそう誘ってくれたので行ってみると、男性の使用人が蒸した餅米を臼の中に入れて、大きい杵で搗いていた。
餅がやわらかくなると別の男がそれを綺麗な広い板の上に乗せて、米の粉をつけてこね、いろんな形に丸める。
紅を使ってピンク色にしたものもあった。
奥様は「貴女がたが食べる用ですよ」と砂糖や、大根下ろしや海苔をつけたものを下さった。
とてもおいしかった。
これが毎年行われる新年の準備で、女中たちは午前二時に起き、一日中働いていた。
聖書にある“膨らし粉を入れないパン”というのは餅のことではないかと思う。