Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第70回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は「クララの家で開かれた音楽会の模様」「またまた使用人とのトラブル問題」、そして「クララの焼いたパンに対する勝家の皆さんの反応について」の話がメインとなります。


1879年1月24日 金曜日
夕べはひどい暴風でよく眠れなかったが、明晩の音楽会の準備で一日中大忙し。
奇妙なことに種田氏から同じ晩の、同じような催しへの招待があった。
お逸の一番上のお姉様である内田夫人が手伝いに来て下さり、手伝う仕事があったことを喜んでおられた。
勝夫人もみえて、ご主人のためにドーナツを持ってお帰りになった。
私は月曜日の船でアメリカに送るエッセーを書くのに追われて忙しかったが、やっと完成し、母もよく書けていると褒めてくれた。
夕べウィリイから手紙が来た。
六十五マイル歩いて、くたくたになって金沢に着いたということだ。
可哀想なウィリイ。
私は時々どうしてもウィリイを呼び戻さなければならないと思う。
あんな淋しいところに独りぼっちで、きっと何か危険な目に遭うと思う。
天の神様、どうかウィリイをすべての危険からお守り下さい。 
話は変わるけれど、火曜日に松平定教氏がみえた。
アメリカから帰ってきたばかりで、とても素敵になった。
桑名藩の若殿様で、一年前に亡くなったおやおさんの婚約者と一緒にアメリカに留学していたのだ。
一緒にアメリカに行った三人の公子のうち一人だけが生き残ったことになる。


1879年1月25日 土曜日 
昨日一日中準備をしていた音楽会が素晴らしくうまくいった。
ご招待してあった滝村氏と岩田通徳氏がみえて、五、六カ所から別々に届けられた楽器をうちの客間に用意された。
やがて銅鑼が鳴って他の六人の音楽家がみえた。
皆さん立派な和服姿で礼儀正しく、紳士的だった。
獅子のような顔に白髪の髭をはやした岩田氏。
琴を弾く教授のような感じの紳士。
大きな声に派手な身振りの滑稽な小柄の東儀氏。
前に私の注目を引いた素晴らしいテノールの持主で一等伶人である芝葛鎮氏。
皆さんが上(うえ)と呼んでいる名人の、丈の高い立派な顔の方などがみえていた。
この他に名前を存じ上げない方が二、三人みえた。
それから河村氏という笙の演奏者で、いつもしかめっ面をしているおかしな方もおいでになった。
お招きしてあった松平定敬氏も来られ、アディと鞠投げなどして陽気に振る舞っておられた。
以前には封建時代の大仰な態度が彼の特徴だったけれど、今ではそういうものは影もなかった。
すっかりアメリカ化されておられる。
最初の一曲はユニゾンで演奏され、次に声楽を加えて演奏された。
そのあと「ご馳走」の番になり、皆さんを食堂にご案内して、我が家の質素な茶菓を差し上げた。
茶菓のあと演奏者たちと勝家の皆さん、松平氏、ディクソン氏は客間に戻って、お互いに親しくなるよう話し合われた。
男性方は、女性方に椅子を譲って床に坐り、煙管と煙草を女性に差し出した。
「次はクララさん、是非一曲弾いて下さい」
大勢の本職の音楽家たちの前で弾くのは胸がどきどきした。
けれど、弾いてみると、皆さんが手や足で拍子を取ってくれ、不思議なことにいつもより上手に弾けた。
ディクソン氏は音楽家たちに恐れをなしてか「死の行進」はいつもよりずっと下手であった。
私が歌を歌い終わると、皆さんが周りに集まって来て下さった。
「クララさんの歌い方は大層上品ですね」
次にディクソン氏と私が『古今の歌』の中からやさしい歌を合唱して、盛んな拍手を受けた。
男女の合唱は珍しかった。
でもディクソン氏はバスなので、私のソプラノに合わせるのは難しい。
私としてもテノールと合唱する方がうまく歌えるのだけれど、皆さん良い合唱だったと云って下さった。
その後「いかばかり」という彼らのお仲間である東儀氏の作曲の歌を歌ってみて欲しいと云われた。
それは降る雪を見ていると親しい友人と庭を散歩したくなる、といった内容である。
私だったら、ストーブのそばに近付きたくなるところだが、私はあまりに実際的なのだろう?
もっともその曲を和琴と笛と笙の演奏で歌うとなかなかよかった。
次に七人の男性の声も加わって賑やかに歌った。
その声は家中に鳴り響き、梅の木に囲まれた東屋におられる勝安房守にも聞こえたであろう。
芝氏は綺麗なテノールで、磨く値打ちがある。
彼はオルガンの横に立って歌の先導をしたり、一緒に笛を吹いたりした。
後で音楽について彼と色々楽しく話し合った。
和琴の本を見せて下さって、漢字の読み方を教えて下さった。
私にもすぐに覚えられそうだ。
皆さんは十二時過ぎまでおいでになった。


1879年1月28日 火曜日
母の具合が悪いので、私はサイル夫人が使って大変よく効いた塗布薬の名前を教えて頂きに行った。
十二時半に着いたら、丁度昼食が始まるところで、私にも食べて頂くようにと云われた。
ブニンシェー夫人と赤ちゃんもみえていて、楽しい時を過ごした。
サイル先生は、いろいろ面白い話をご存じで、奥様に「すずめちゃんはどう?」などとお聞きになった。
ミス・ワシンシンはある女性のことについて、こんな話をした。
「男という男がみんな彼女の足元にひれ伏しかねない」
でもミス・ワシントンはご自分のお母様については以前こう云っていたのだ。
「全ての男性がこの女性を蹴飛ばしかねない様子だ」と。
それにミス・ワシントンはド・ボワンヴィル夫人に、私のこと和まだ子供で付き合う価値がないと云ったそうだ。
このことを詰問すると顔を赤らめていた。
赤らめて当然だ!
帰途に築地薬局で母のために油薬を買ってきた。
それから洋書店の十字屋に寄って、ウィリイに送る本を買った。
十字屋の番頭さんはお世辞が上手な上に、今英語を勉強している。
「短期間にどうやって完全な日本語を覚えたのですか? 大抵の外国人はとても日本語が下手ですのに」
この番頭さんに、以前ミス・エルドレッドが「英語と日本語の交換教授をしよう」と申し入れてきたことがあるそうだ。
「ところがですね」
が、彼によると彼女の方ばかり練習して、彼には少しも教えてくれないので厭になったということだった。
「ミス・エルドレッドは宣教師だから日本語が必要ですけど、番頭さんは英語をそれほど必要としないでしょう?」
私はそう云ったけれど、番頭さんとしては自分を犠牲にしてまで、他人のために尽くす気はないらしい。
帰途縁日で、綺麗な形に作られた白い八重咲きの桃の鉢植えとピンク色の姫椿と福寿草の鉢植えとを買った。
 

1879年1月30日 木曜日 
昨日の午後、お逸と私は月琴の練習していたときのこと(いま巷でも月琴が大流行なのだ!)。
使用人のタケが入って来て、笠原という紳士が外に来ていると告げた。
私たちは勿論彼の出現に驚いた。
とりわけ彼の服装に驚いた。
それは“かかし”でも恐れをなすようなものだった。
ウィリイの一番古い洋服――黒っぽいシャツ、編んだネクタイ、前が破れたスボンに穴のあいた靴下を履いていた。
一年間散髪したことがない様子で、肩まで房々と髪が垂れ下がっている。
「お化けみたいね」
お逸の感想は至極もっともなものだ。
ともあれ、私はウィリイに変わったことでもあったのではないかとギョッとした。
しかし笠原は、兄は元気だと彼は云い、函館に用事があって出て来たと云った。
だけど、話しているうちに、彼の真意がすぐに分かった。
今度公使として倫敦に赴任される富田氏が英国に行かれる時に使用人としてでも連れて行って欲しいと頼みに来たのだった。
勿論そんなことは断られるに決まっている。
条件の良い職を捨ててこんな馬鹿げた冒険をするなんて、本当に愚かなことだ。
富田夫人も彼に愛想を尽かして「いけない」ときっぱり仰った。
今日の昼食にはサイル夫人、ド・ボワンヴィル夫人とミス・ワシントンをお招きしておいた。
しかし、土砂降りの雨のため、ド・ボワンヴィル夫人だけが見えた。
サイル夫人は三年程前に転んで以来雨天の時には外出しないのだ。
それで午後は気持ちの良い客間に腰掛けて『デイリー』紙に約束した記事を書いた。
築地の火事のこと、婚姻関係の変化、国会議員リード氏の処遇、琉球処分のことなど広範囲の題材がある。


今日使用人の弥三郎に暇を出した。
最近は上手くいっていなかったのだ。
ケライとして田中を雇っておく価値が今日はじめて分かった。
今まではこういう種類のことは全部私がしなければならなかったのだが、それはつらい仕事であった。
ところが今日はまったく偶然のように疋田氏がみえて、田中とお話しなさった。
しばらくするとが呼ばれ「給料を下げるがよいか」と云われた。
彼は深々と頭を下げ、しかしハッキリと拒絶の意を示した。
「旦那様のお気に障るかも知れないが、病気の妻と五人の小さい子供を抱えて給料が減っては困ります」るのだと答えた。
(ちなみに、本当は弥三郎に子供は二人しかいない!)
疋田氏はしばらく遠回しに話をあれこれなさってから、云われた。
「二、三日休暇をやるから新しい仕事を探すように」
弥三郎は間抜けではないのでこの意味を了解した。
「それでは新しい職場を探す間、二、三日この家にいても宜しいでしょうか?」
「いや、解雇された後にまで留まることはできない」
このあと唐紙がそっと開いて、疋田氏が静かな声で「クララさんはおいでですか」と仰った。
そこで私が出て行き、緋毛氈の上の火鉢の近くに坐って、話し合いに加わる。
「予告なしに急に追い出すのは気の毒ですけど、家で食事をするとなると、新しい料理人と喧嘩をするかも知れない」
私が正直なところを告げると、疋田氏が殿様然として、腕を組み、唇をぎゅっと結び、眉をひそめて云われた。
「ではすぐに暇を出そう。喧嘩をしたければするがよい。そうすればもっと早く追い払う口実ができる」
疋田氏は実際いつもとはまるで別人のように殿様然とした態度で腕を組み、険しい目つきで腰掛けておられ、田中は彼の足元に恭しく跪いていた。
彼はこういう事に慣れておられて、使用人の扱い方について私にいろいろ忠告してくださった。
不都合があった時には怒って、その怒りの声を田中に代弁させればよいのだ。
「やさしい人は付き合うのにはよいが、厳しさがないと家を治めることはできない」
それが疋田氏の意見だった。


1879年1月31日 金曜日
笠原は外国に行くための費用を調達する目的で北海道へ行った。
彼は刀を私に預けていった。
「必要が生じた時には返して頂きますから、預かっておいて下さい。
もしヨーロッパにもアメリカにも行けないのなら、これでハラキリせねばなりませんから」
鋭利な彎曲した刃のある短刀で、切ったら痛そうだ。
風の強い陰気な一日で、私は頭痛がしたし、台風になりそうな気配で、風邪もよくならないから外出の予定を変更して家でパンを焼いた。
勝氏のお夕食にと思って少し届けたが、間もなくお逸から次のような手紙が来た。
「親愛なるクララさんへ。
貴女の素敵なパンはとてもおいしくいただきました。
父は留守だったので母と兄が皆頂戴してしまいました。
そこへ父が帰ってきたのです。
もし出来たらどうかもう少し届けてください。
逸より」
勿論私はみんなにゆき渡るだけ届けさせ、褒めて頂いてとても誇らしく思うと書いた。
「クララが作ったパンだから格別に美味しかったのよね」
お逸は後でそう云ってくれ、小鹿さんが「日本で食べたパンの中で一番美味しかった」と云ったことも伝えてくれた。


1879年2月3日 月曜日
昨日は聖餐式があって、ジョージ・パチェルダーが洗礼を受けたのは喜ばしいことだった。
今日の午後、田中不二麿氏を訪問したがお留守だった。
午前中には三河台のベイリー夫人を訪問した。
花房屋敷の綺麗な日本式の家に住んでいる。
木の部分は漆塗りで唐紙は金色の紙を貼り、絹地に描かれた絵が貼りつけてあった。
庭には小さい築山や庭石があり、松や竹や棕櫚の木が植えてある。
一本の松は入口の形に仕立ててある。
ベイリー夫人が歓迎して下さって、たびたび来るようにと仰った。
一番上のお子さんのリリーはアディの新しい友達である。
コニー、メイベル、アーネストもみんな可愛い子供たちだ。
ところで、ネリー、フロラ、バーティのお父様のサットン氏は中風になり、治る見込みがないそうだ。
頭もおかしくなって、奥様かイギリス人の女中以外の人には起きるのを手伝わせないということだ。