Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第71回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は「クララの大鳥圭介邸訪問」「兄ウィリイを褒める新聞記事」、そして「おやおさんたちとの楽しい一日」の話がメインとなります。


1879年2月17日 月曜日
しばらく日記を付ける暇がなかった。
金曜日にオーシャン号が出航する前に、手紙やエッセーを書き上げなければならなかったのだ。
ティクナーさんが出して下さることを期待し、日本音楽に関するエッセーをボストンに送った。
もう一つのエッセーは『デイリー』紙に送り、一つはウィッテンマイヤー夫人に送った。
これは彼女の書いたものの中の間違いに答えたものである。
金曜日には大鳥閣下のお宅にも伺った。
しかし閣下はお留守で、お子さんたちと話をしてきた。
まず閣下の新しい油絵の肖像画や、奥様の大理石の胸像や、裃を召してちょんまげを結った閣下の若い頃の絵などを見せて頂いた。
着物は胸のところで反対に重ねてある。
おひなさんは上杉氏とうまくいってなくて、別れたがっているとのこと。
日本人の妻は決して離婚を求めることはないので、これは全く新しいことである。
おひなさんの言動は「築地で外国人について勉強したからだ」と云われているらしい。
彼女は私たちの生徒ではないので、私たちの責任にされなくてよかったと思う。
でも、私たちのところへ来ていたら、もっとよい影響を受けたに違いない。
築地にある学校の教師はオールド・ミスが多いという。
そんなオールド・ミスが結婚した女性、それも日本人の女性を教育するのは不適当なのだろう。
ちなみに、次女のおゆきさんはお友達の渡辺おやすさんのお兄様と婚約している。
お姉様よりも幸せになられますよう。
その大鳥家のお嬢様が静寛院宮、つまり和宮(二年前、彼女のお葬式に私たちは行った)、最後の将軍の前任者で、和宮の配偶者であった紀州公方、十四代将軍徳川家茂とのお写真を下さった。
噂によると、十四代将軍は大阪で毒殺されたということだ。
東京を離れる前に「ここに戻ることはない」という予感がなさったと云われている。
「余が江戸に戻る前にガンクイ豆に花が咲くであろう」
そう家来に仰ったそうだ。
ガンクイ豆とは<煎った豆>のことで、これはつまり「ご自分が帰れない」という意味だった。
その通り、彼は江戸に戻られることなく、三十歳未満の若さで、現在の天皇の叔母に当たる美しい姫君と結婚されたばかりであったのに、急死されたのである。


先週の水曜日のこと。
勝夫人のところで、お湯から上がったばかりの疋田夫人にお会いした。
しかし翌日の晩、また勝夫人のところへ行ったら、吃驚の報を聞かされた。
前日私が帰ったすぐ後、疋田家に三人目の男の赤ちゃんが生まれたというのだ。
正式には生まれて七日後に勝氏がお名前をおつけになるのだけど“静守(せいじゅ)”という名前になるらしい。
赤ちゃんにはまだ会っていないが、聞いたところによると頭と鼻が特別に大きいそうだ。
ところで、勝家の奥様は私がいつも夜にお訪ねするので、私のことを「こうもり」と仰る。
富田氏は木曜日にヨーロッパに向けて出発した。
その前に家にみえて、前夜来られたディクソン氏のための掛け物を預けてゆかれた。
ご主人が行ってしまわれて、来客もなくなったので富田夫人は淋しがっている。
赤ちゃんは健康そうだ。
昨日の午後村田久子夫人がみえて五時過ぎまでいた。
お逸も来て長いこと話をした。
芝居や踊りについて話した。
「どちらも大好き」
そう仰るおひささんに対し、お逸はにべなく「どちらも嫌い」と云った。
近頃はウィリイのことが心配だ。
彼の手紙によると、金沢の人は外国人をひどく嫌っているので、髭を生やしているのは危険だということだ。
毎日良いお天気が続いている。
太陽の光線がやわらかく、空は青く澄み、枯れたような木に蕾がついている。
やがてお寺や梅屋敷には香りの良い鼻が咲くであろう。


1879年2月20日 木曜日
今日の新聞にウィリイに関する記事が出ていた。
私は兄の名前を見つけて、何か重大なことではないかと心配になり、お逸に読んで貰った。
「大丈夫、大変良いふうに書かれているから」
お逸はそう云って喜んでくれた。
その記事には次のようなことが書いてあった。
『長町四番丁云々の師範学校のホイットニー教授は廉直さにかけて、日本青年にとっても手本になる人物である。
在日の他の外国人たちと違って、酒煙草は勿論のこと、そのほか外国人の間に普通に見られるような好ましからぬ行状はまったくない。
日本人に他国の良い風習を教えてくれるこのような青年は歓迎である。
日本人は彼のような徳の高い人物を友とすることを喜んでいる』
このような調子でその記事は書かれていた。『金沢新報』の編集者の書いたものである。
私たちはみんな喜んだ。
特に母は大喜びだった。
殊に私たちの協会の長老であったマーシャル氏が汚名を受けた後であったから、この記事は嬉しかった。
きっと私たちがいつも一生懸命にウィリイのためにお祈りしたからであろう。


1879年2月26日 水曜日
昨日母は気分が悪くて一日中寝ていた。
晩に勝夫人が見舞いに来てくださった。
長い間あれこれとお話をなさったり、新聞に出ている面白い話をきかせて下さった。
本所のある大名の奥様が車夫と駆落ちをした話。
大名の妾が殿様と二人の家来ともう一人の人物との殺害事件に荷担していた話。
そんな話とかである。
「女は不必要に心配がちですから」
そう云われて、母にウィリイのことは心配しないようにと仰った。
「私も若い頃は心配性でしたけれどね、年をとって世間の見聞も積んだので、何事も最後はうまくいくと思うようになり、あまり心配しなくなりました」
それはキリスト者のような考え方だ。
今日午前中に銀座へ行った。
とても良いお天気だったので、母も外出した方が気分がよくなるかと思ったので、一緒に出かけた。
久保町のお茶屋に行って、魚と栗を注文した。
待っている間に一人の年輩の女性が赤ちゃんを抱いて出て来て、私たちに赤ちゃんを見せるために近づいて来た。
年齢を尋ねたら八月生まれという返事だった。
名前は杉一郎といって、宮内大輔の杉孫七郎氏の坊ちゃんだということだった。
可愛い赤ちゃんだったけれど、随分みすぼらしい格好だった。
どうして杉氏は息子さんにもっと良い着物を着せないのだろう?
私は不思議に思った。
あまりにも気持ちの良い陽気だったので、家に入るのが勿体ないようだった。
お逸は午後から夕食までいたが、食事の最中に使用人が来て、おやおさんがみえたと云ったので、お逸はお客様の接待をしに帰って行った。
そこへ村田夫人がシャツの作り方を習いに来た。
やがておやおさん、おすみ、お逸が小泉氏を従えて勝氏のところから帰って来て、みんなで家の食堂に入り、テーブルの周りに坐った。
「まあ、素敵な色」
おやおさんは派手な毛糸に心を惹かれて私の編み物を取り上げ、私はかぎ針編みを始め、おひささんはシャツを縫い始めた。
お逸とおすみは怠け者の役で、いろいろ滑稽なことを云っていた。
「どう? 私、“紙持ち”でしょ?」
懐に紙をいっぱい入れそう云うおひささんに私は問い返す。
「私にはいま“金持ち”って聞こえたたけれど、どちらだったの?」
「どっちでも同じよ。最近のお金はみな紙ですもの」
お逸の絶妙なツッコミ。
そんな調子で、おかしなことばかり言って騒いでいた。
しまいには謹言そのものの小泉氏まで思わず笑い出してしまう始末。
そのうちにお逸やおすみも怠けているのに飽きて『天路歴程』や文芸書や、哲学書を取り出して読むことになった。
「やっぱり裁縫よりも読書の方が高級な仕事よねー」
さっきまでの自分の行動を棚に上げ、お逸はしれっとそんなことを云う。
そのあと、私たちの大好きなゲーム「私の友達をどう思う?」をして遊んだ。
対象になった人物が村田氏、梅太郎、恒五郎、キティ、ウィリイ、小泉、新左衛門などであったからまた大笑い。
私たちは裁縫の会を組織し、毎週水曜日の二時に集まることにした。


1879年2月28日 金曜日
アディはひどい風邪で今日は一日中寝ていた。
風邪は厄介だ。
殊にアディのように活発な子供にはつらい。
昨日お逸が沢山の諺を教えてくれて、一々説明してくれた。
その中で一番面白いと思ったのは「鬼も十七」というのである。
クラレン夫妻がブルーシーを連れて訪ねて来られ、アディのことを大層褒めて下さった。
夫人はアディが今まで見たことのないような可愛い子で、自分の娘もあんなに良い子に育って欲しいと思うと云われた。
食後に、母と一緒にヤマト屋敷まで歩いて行った。
桐野屋敷を通り抜けて行く近道を母に教えるためである。
その帰りに測量をしている人たちの間に入ってしまったが、私は気付かなかった。
一人が手で向こう側に渡るようにと合図をしたので、私は慌てて通りを横切りた。
そして、通りすがりに丁寧にお辞儀をして「お邪魔しました」と云うと、彼も恭しく頭を下げた。
御門のところでキンに出会ったが、水を汲んでいたので「ゴクロウサン」と云って会釈した。
次に大工に出会って、お糸や保爾と一緒に「こんにちは」と云った。
帰宅後、津田氏がみえた。
「明日宮様のところへ行くので、いつクララさんが訪問したらよいか聞いて来ます」
それから、漢和英辞典を編纂するのを私に手伝って欲しいと云った。


1879年3月1日 土曜日
『3月は子羊のように訪れ、獅子のように立ち去る』
諺にはこうあるが、どうかそうなりませんように。
今日のところはとにかく穏やかであるが、いつまでもこういう陽気であって欲しい。
私は元気いっぱいで母の部屋を掃除した。
それから私が所属しているクラブの図書を借り出すために、母と英国公使館に行った。
係の女性がいなくて、守衛のウッドが名前を控えてくれた。
昨日メイ・ブラウンとアニー・ブラウンが来た。
「明日昼食を一緒に食べてから永楽町の展覧会に行こう」
そう誘ってくれたので、公使館の帰りにマッカーティ先生のお家に寄った。
アニーはいつものように黙り込んでいた。
背は益々高くなったが、一体いつ成長が止まるのだろう?
綺麗な黒のアルパカの洋服を着て、白い毛織のコートに、前面に赤い荊の蕾の飾りのついた茶色の帽子を被っていた。
帽子の上に小さい白いベールを掛けていたが、これは顔を白く見せる。
ところが私がかけると、かえって黒くみえて、まるで日本人のようになるので、私には被れない。
昼食はとても愉快だった。
先生は折りあるごとに、洒落を飛ばして絶えず皆を笑わせ、とってもユーモラスだ。
こんな人と一緒に暮らすのは楽しいことだろう。
二時に展覧会に行って、素晴らしい展示物を見た。
お天気が曇りですっきりしなかったため、人出が少なくて助かった。
古い銅の花瓶や貨幣はとても面白かった。
特にマッカーティー先生は漢字が読めるので、いろいろ説明して下さったから余計に面白かった。
綺麗な展示物を全部見てからバザーに行くつもりだったが、時間が遅くて駄目だった。
アニーはミス・キダーのところで日曜日を過ごすために駿河台に行き、私はマッカーティー夫妻と一緒に帰った。
マッカーティー夫妻の家からは人力車で帰ってきたが、途中で火曜日の村田氏の招待のことを伝えるため富田家に寄り、しばらく赤ちゃんをあやした。
赤ちゃんは私にすっかり懐いている。
実際誰よりもよく懐いていると富田夫人は仰っている。
家に帰ってみたら母が二人の日本人の客の相手をしていた。
一人は上野栄三郎氏で、もう一人は金沢からみえたご老人であった。
この方は近く金沢に帰られるので、ウィリイに紹介して欲しいと云うことだった。
上野氏は歌うのがお上手で、商法学校の有名な先生である。、


1879年3月2日 日曜日
また雨降りの日曜日。
この陽気は本当にいやだ。
今日、日曜学校でマクラレン氏、ジョージと私の三人で「働き人はその報いを受けるに値する」という文章について討論をした。
活発な討論で、マクラレン先生の方が分が悪かったと思う。
私たちは福音の伝道者がもっと克己の精神を発揮し、キリストの教えを厳しく守ったほうがよいのではないかという点を論じた。
クラレン先生は現在の宣教師たちが立派な邸宅に住み、贅沢な生活をしていることに対する弁解として、故郷から遠く離れていることを挙げた。
それは事実であり、身を挺して宣教に当たっている立派な人たちのことを私たちがとやかく言うべきではないだろう。
しかしジョージは熱っぽく反論していた。