Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第74回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分明治10年8月分明治10年9月分明治10年11月分明治10年12月分明治11年1月分明治11年2月分明治11年3月分明治11年4月分明治11年5月分明治11年6月分明治11年7月分明治11年8月分明治11年9月分明治11年10月分明治11年11月分明治11年12月分明治12年1月分明治12年2月分明治12年3月分明治12年4月分
今回分は「身一つでキリスト教に改宗した津田仙氏の友人の僧侶の話」「ヘップバン夫人を招いての向島の花見」、そして「明治初期の貴重な音楽会の模様」の話がメインとなります。


1879年4月5日 土曜日 
今日はこの二、三日の悪天候を埋め合わせるように、陽が輝き空気が爽やかで、土いじりをしたいような気分だった。
というか、実際お逸は今朝庭いじりをしていたのだけど、やって来たお客様とのやりとりが彼女らしかった。
「何をしているのですか?」
「悪戯をしているのですよ」
月曜の向島行きのことを聞きに行ったのだが、お客様の相手をしているお逸を待つ間、縁側のひだまりで袖を繕っているおえいの側に坐った。
「あなたのお国ではこんな面倒なことはなさいませんでしょう」
針を忙しく動かしながらおえいが云うので、私は笑ってつぎをしたところを見せた。
「日本式の縫い方よりずっと手間が掛かるんですよ」
おきくもそばに来て坐り、口笛で犬を呼ぼうとしたが、上唇が短いので上手くいかなかった。
それからお逸と庭に出ると、若い衆が梅と桜を植えていた。
日本では庭いじりがとても好まれる。
勝夫人が来られ、満開の白とピンクの桃を一本下さった。
小鹿さんが昨日向島に行ったら、花は満開だったそうだ。
「なんで男が花見に行くのですか?」
夫人が云われた小鹿さんは「花見じゃなくて、人見に行ったのだ」と答えたそうだ。
私たちは多分来週行くと思う。
ヘップバン夫人には、ずっと前にお約束したように「ご一緒しましょう」と手紙を出してある。
母は今日は気分が悪くて寝ていたが、三時頃に起きて一緒に出かけ、アディはリリー・ベイリーの家へ行った。
午後、ウィリイから良い手紙がきた。
「“ムッカジュマ”にはもう行かれましたか?」
薬屋のイギリス人の店員がそう聞くので、母は吃驚して「そんな場所は知りませんが?」と云ったが、やがて向島のことだと気がついた。
これはミス・ギューリックの「アーリンガト・ゴザリーマス」と同じくらいひどい。


1879年4月6日 日曜日 
今日は安息日なのに忙しかった。
日曜学校に行く途中、ヤマト屋敷に寄ったが、ド・ボワンヴィル夫人は、歯痛で駄目だった。
日曜学校ではマクラレン氏がハガル、つまりアブラハムの妾、イシマエルの母の話をした。
フレッド・ブリンドリーがとても熱心に聞いている様子なので、先生は主にそちらに向けて喋っていた。
そのうちフレッドに対して質問をしたが、期待した答えは返ってこない。
質問を繰り返すと、不自然に大きな声で「先生、すいません、風邪で耳が」と云い、また先生は声を大きくして繰り返したが、やがてぽかんとした顔をしているので、先生の顔が赤くなってきた。
男の子たちはくすくす笑い出し、とうとうジョージが云った。
「先生! フレッドは風邪で耳が聞こえてないんです!」
とてもおかしかったが、アニーは訳が分からなかったので笑わなかった。
私もマクラレン氏が気の毒で、笑うのを我慢した。
夕方家に戻ると、母は津田氏の家に行くことに決めたというので、軽い夕食の後、田中と梅太郎をつれ、今度は人力車で行った。
少し早かったので、まだ来ている人は少なかった。
母は中島氏と話をし、私は津田夫人とおふきと話をし、小さいおふきと仲良しになった。
そのうち津田氏が入ってきて「友人の結婚式に行っていたものだから」と詫びた。
新郎は津田氏と同年の初婚で、新婦はなんと三十六だそうだ。
新郎は面白い経歴の人だ。
かつては大きい裕福な寺の住職で信仰心も篤かったのだが、中村正直氏の書いたものを読んで、キリスト教に改宗したのだ。
そして「仏教を捨てた以上、それによって得たものは、身一つ以外は何物もとるべきでない」と云って、その昔自分のものだった粗末な服だけを着て寺を出たのだった。
「自分は学問と身体だけで再出発するのだから世間的に見れば貧乏だが、キリストのためなら全てを投げうつ価値がある」
そう云っているそうだ。
これこそ一時の楽しみよりは神の苦しみをわかちあうことを選んだ人だ。
何と素晴らしい模範だろう!
津田氏は『東京新報』の記事も訳してくださった。
日本は今文明開化を行っているが、必要なのは文明だけではない。
人はパンのみにて生くるにあらず、水も茶も必要だが、飲み物だけでも生きられない。
同様に、文明のみでは日本は完全になれない。
破滅を避けるにはそれと同時に信仰が必要なのだ。
それから祈りの力を教えてくれるドイツの話を引用してあった。


1879年4月7日 月曜日
向島の花見に招待します」
ヘップバン夫人には、ずっと前からそうお約束していた。
ということで「今がちょうど見頃だから早く見に行った方が良い」という小鹿さんの助言に従い、土曜の午後、間に合わないのではないかと思いながらも、急いで横浜に手紙を出した。
何の返事もないので「着かなかったのでは?」と心配しながら支度をしていると、十時にシモンズ夫人と一緒に来られたので、私は本当にほっとした。
ヘップバン夫人の話では、手紙は昨日夕方五時に届いたので、すぐ電報を打ったそうだ。
けれど、それが着いたのは二人が到着してから丸一時間も経ってからで、本当に馬鹿馬鹿しかった。
十一時に出発し、途中、蓮華坂で約束通りド・ボワンヴィル夫人と落ちあった。
ヘップバン夫人と私が先頭で、シモンズ夫人、梅太郎と内田夫人、ド・ボワンヴィル夫人、母とアディという順序で、最後はお弁当を持ったシュウだった。
山の手の屋敷町から下町を通って永代橋に出、向島に出かける人力車や人の群れに混じった。
とても気持ち良かった。
晴れ着を着た行きの人々は静かだが、帰りの人たちは赤い顔をして声高に喋り、奇妙なお面を付けたり桜の枝を手にしたり、頭に花を飾ったり、お祭りの時に売るいろいろな玩具を持ったりして、ドンチャン騒ぎをしてきたことが分かる。
ヘップバン夫人は東京に慣れていらっしゃらないので、立派な建物やお店を珍しがって、あれこれと名前を聞かれた。
向島に着いた途端、雨がひどく降りだし、たちまち傘が一面に広がった。
陽に誘われて何の備えもせずに集まった考えなしの蝶たちは、美しい着物の裾をからげ、赤い蹴出しと素足を見せて、木の下に建てられた無数の茶店へ逃げこんだ。
だが私たちが勝家の夏の別荘に着いた頃には、まるで顔を洗った悪戯っ子が美しい花を見てまた微笑むように、青い空は美しく晴れ、日が照っていた。
別荘は相変わらず素敵で、もみじ、忘れな草、すみれがこれほど美しいところは他にない。
ヘップバン夫人もシモンズ夫人も、とても喜ばれ、遠乗りでお腹が空いていたので、シュウの持ってきたサンドイッチやケーキを頬張った。
それから桜餅、寿司、羊羹、あやしげな緑色の液体も「今日は特別だから」と口に入れられたが、そのあと慌てて素性の知れたものを飲んでいらっしゃったのは、きっと口直しだったのだろう。
楽しく二時間くらい過ごしてから、上野を通って帰ることにした。
まだ早かったのだが、ヘップバン夫人は、先生に六時半に横浜に迎えに来て貰うことになっていたので、上野は見ている時間がなく、通り過ぎただけだった。
巨大な帽子を被り、口に黒い猿ぐつわのようなものをした、とても変な日本人のおばあさんを見かけた。
ディクソン氏、ライス夫人、アレグザクンダー夫妻、フェノロサ夫人などにもお会いした。
和服を着た松平氏にも会ったが、何だか赤い顔をしていた。
横浜のお二人を駅まで送ってから帰宅した。
内田夫人は駅に入ったことがなかったので、珍しがっておられた。


1879年4月8日 火曜日 
今朝起きると寒くて曇っているので、花見を今日に延ばさなくてよかったと思う。
よく寝たので疲れがとれた。
二時にド・ボワンヴィル家へ行き、奥様やマリーと一緒に加賀屋敷にローンテニスをしに行った。
四時までやり、それから全員でアジア協会へ行った。
チェンバレン氏がワソービョーエの不老長寿の国や、巨人の国での冒険の話の訳を読んで下さったが、スウィフトの『ガリバー旅行記』によく似ていた。
とても面白い話で『不思議の国のアリス』を思い起こさせた。
母と一緒に家に帰ると、不在の間に来客があった。
「おやお様はこの前の五日土曜日、松平家の新しいお世継ぎである康民氏に輿入れされました。
つきましては、来月クララさんたちにおいでになって欲しいとのことです」
小泉氏が来て、そう云って寄越したそうだ。
おやおさんも若いご主人も加減が悪く、小泉氏は「お気の毒に」と二人のことを云っていたそうだ。
それから勝夫人のところに母と一緒にお礼に行き、気持ちよくもてなされた。
正月のことを話し出し、日本人は元旦には死を意味する「シ」という音を忌み嫌うので、例えば“シバ(芝)”などとは云ってはならない。
勝夫人はすぐに出そうになるこの言葉を口にしないですますのにどんなに苦労するかを、面白おかしく聞かせて下さった。
だが「ジュ」という言葉は、福寿草のようにとてもめでたいものだそうだ。


1879年4月9日 水曜日
世界一周旅行をしていらっしゃるペインブリッジ夫人が、ミス・キダー、ウォデル氏と一緒に夕食にみえた。
ご主人はこの前の日曜日に説教をなさったが、金曜から日光に行っていて、今朝雨の中を帰って来られたそうだ。
流石に疲れたので、我が家にはいらっしゃらなかった。
ペインブリッジ氏の説教はよかったけれど、奥様があまりにアメリカ風なので閉口した。
愛国心に欠けるつもりはないが、無作法で詮索好きで、声が大きいのは嫌いだし、女の人が俗語を使うのもいやだ。
地震にあったことがないから、私のために特別に起こってくれてもよさそうなものなのに!」
そう云ったのには驚いた。
神意で決まることを、みだりに口にすべきではない!
ペインブリッジ夫人は日本にとても興味をもって、日本人の風俗や習慣のことなど熱心に話しておられたが、私には珍しくもないことなので退屈だった。
もっとも何か新しいことでも話題に出れば話は別だけれど。
でも楽しかった。


1879年4月10日 木曜日
今日は音楽会が夕方にあるので、その準備をしている真っ最中に、母が階段のてっぺんで足を踏み外して、一番下まで落ちてしまった。
私はあんまり吃驚して、声も出なかった。
急いで抱き起こし、シュウがソファーに寝かせた。
幸い骨も折らず、ただひどく吃驚して、いつになく動転していただけだった。
この階段はとても急で狭く、梯子に毛の生えたような者だったので、前から危ないと思っていた。
父も一度、真ん中のところから落ちたことがある。
この程度ですんだのは、まっくた神のご加護のお陰だ。
困ったのは、あと二、三時間で沢山のお客がみえるのに、母が起きられないし、父も学校だということだった。
それで母をベットに寝かせて、背中に塗り薬をすりこみ、鎮痛剤を少し飲ませてから、ド・ボワンヴィル夫人に手紙を書いた。
だが奥様も今晩はお客があって来られないという。
お逸がとても心配して、駆けつけてきてくれた。
「ディクソン氏を呼んだら?」
そうと云ったが、今日はディクソン氏も無理なのだ。
「もしクララがサイル博士のお相手を引き受けられるなら、小鹿兄様がユーイング氏、義母様が杉田家のご婦人方、滝村氏が音楽方の人たちを面倒みるんだけど?」
しばらくして、母の気分がずっとよくなり、ソファに坐ったが、あまり動き回れない。
部屋やテーブルの支度がすむと、忠実なシュウが母を両手で抱えあげて、階段を注意深くおりた。
母がシュウの肩に寄りかかって客間に入ってきたので、待っておられた佐々木氏は吃驚なさった。
洋服に白木綿の手袋をはめた厳めしい林広守氏が次にみえ、それから滝村氏と、次いで六人の楽士方が全員でみえた。
私は玄関で挨拶をし、お礼を云った。
笙を持って、とても若くみえる人がいた。
「フルートを吹けるんですか?」
滝村氏に聞くと「できるけれども、息子の方が上手ですよ」と云う。
せいぜい二十五ぐらいと思っていたのに、息子さんは十八から二十と分かり、本当に驚いた。
サイル博士を待つ間、音楽方の人たちは楽器の調子を合わせた。
琵琶、琴、和琴、笛、笙、ひちりき、それに別種の音楽、楽器に属するモキンが加わった。
間もなくサイル博士がみえた。
大きくてあたたかく、まるでお日様のような方だ。
「この子は誰?」
アディを見てそう聞かれたので「妹です」と云うと「あ、そうそう」と云って、外套を脱ぎに行かれた。
じきに演奏が始まり、むせぶような調べが流れた。
隠居所でその音を耳にした安房守は、昔日の将軍の御威光を思い起こされたことだろう。
だがアングロ・サクソン人にはそのような思い出があろう筈もなく、妙なる調べは無意味な不協和音となって、太って丸い顔には笑いさえ浮かんでいた。
ああ、日出ずる国のミューズの神よ、無知な外国人を許し給え!
対照的に、それから間もなくしてみえたユーイング氏はこう云っていた。
「あのむせび泣くような音色は素晴らしいですね」
次は伊勢の海の歌だったが、笛を吹く人の親指があまりよくしなうので、疋田夫人は「指が曲がっているから悪人でしょ」と囁いた。
笏拍子は背筋をぴんと伸ばし、目を閉じて、拍子を打つ時だけ手を動かした。
口を少しあけて坐っている姿をユーイング氏は「口から水を出している河の神様みたいだ」と云った。
琴は天井を見つめ、音楽に埋没しているようだったが、ひちりきは頬を膨らまし、顔を真っ赤にして吹くので、恵比寿様か大黒様のようだった。
声の良い上氏、それから知らないハンサムな青年もいた。
ちなみに小鹿さんは音楽が嫌いでだ。
ことに日本音楽は大の苦手なのだが、とても愛想よくユーイング氏の相手をして下さった。
それから茶菓がまわされ、皆とても喜んだ。
ユーイング氏はケーキとゼリーがとても気に入って、サイル博士は「こんなおいしいサンドイッチは初めてだ」と仰った。
音楽方の人たちも盛んな食欲で、サンドイッチ、ゼリー、ブラマンジェ、鳥のサラダ、アーモンド、干しぶどう、マコロン、ジャム、等々を次々と平らげた。
芸術に身も心も捧げている人の胃袋がこうも大きいとは!


簡単な夕食が終わると、サイル博士は軍歌とか祝祭曲とか葬送曲など西洋音楽のいろいろな例を演奏した。
その間、ユーイング氏と私は次のような会話をした。
「火曜のチェンバレン氏の講演はよかったですね。ジェームズ船長のよりずっといい」
「はい、面白かったですわ」
「ところで向島にはもういらっしゃいましたか?」
「はい、月曜日に。あなたは?」
「昨日行きましたがね、雨と風で花は駄目でした。日曜日には上野に行きましたよ。あそこも人が沢山出てました」
「ほんとに、お天気がああよくては誘惑されますものね」
「誘惑ですって! まるで日曜に出かけるのが悪いみたいですね」
「あら、悪いと思いますわ。スコットランド長老教会でいらっしゃいましょう?」
「そうですよ」
「叱られますよ」
「叱られたって私に効き目はありませんよ」
丁度その時サイル博士のもの悲しいメロディに気付き、ユーイング氏は云った。
「僕は、悲しい音楽はとても苦手でね。あなたは?」
「私は情無しらしいのです。葬送行進曲のような悲しい音楽を聞いていも平気でいられるんです」
「あ、それはそうとは限りませんね。きっと情がありすぎるんでしょう」
「おまけに良心もないらしいんです」
「さっきのお説教の様子では、そちらの方は沢山お持ちだと思いますがね」
それから滝村氏が東儀氏の「冬の猿橋」を弾いてほしいと云った。
ユーイング氏は、皇后陛下からパークス卿夫人への御歌は「長足の雁は何故家路を急ぐ云々」で「野雁」ではなかったと云った。
冬の猿橋」はとてもよかったが、ややテンポが遅すぎた。
それがすむと、ユーイング氏は残りたがっていたが、外国人はみな帰ることになった。
「こんな素晴らしいものは聞いたことがない」
杉田家の婦人たちもそう云って帰られた。
残りの人たちは私のオルガンに悩まされ、仕方なしに次々にこう云った。
「日本にはこんな素敵なものはありません」
「こんな幅の広さや、表現の豊かさは日本音楽にないものです」
それから深々とお辞儀をし「たいそうなご馳走!」にお礼を云って帰った。
私たちの方も滝村氏を通じて、お礼を述べた。
「この雨の中を、このようなむさ苦しいところにご足労を頂きありがたい」等々。
我ながら、すっかり日本の習慣に染まってしまったようだ。
最後のお客が帰られ、提灯の火が門を通って見えなくなると、誰かが「月琴を弾こう」と云った。
しかし、思いやり深い勝夫人はこう云って下さった。
「アンナさんはすぐ寝なくてはいけないから、やめなさい」
それでお逸と私は、滝村氏や田中と一緒に後片付けをして寝た。


1879年4月11日 金曜日 
母は体中が痛くて一日中寝ていた。
背中には大きな痣ができている。
シモンズ先生に手紙を出したところ明日来て下さるとのことなので、そうすれば少し安心すると思う。
今日は風が強くて、ひどく寒いのに、火が起こせなかったので困った。
昼食後、ド・ボワンヴィル夫人とマリーが見舞いに来た。
母は夫人と長いこと話して気が晴れたようだ。
ダイアー夫人と津田氏もみえた。
津田氏はおやおさんの話をして「まだ結婚には若すぎる」と云った。
孔子の教えでは男は三十、女は二十が適齢です。もっとも孔子自身は十九で結婚しましたがね」
それでは孔子は自分の信念を実行しない間違った人ではないかと思ったら、津田氏がケラケラ笑って云った。
「自分が早婚だったからこれはいけないと分かって、早婚はやめるように説いたんでしょう」