Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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「クララの明治日記 超訳版」は今回の第110回をもって「第一部」完結となります。
なお過去ログは、以下のように収納しております。
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1880年1月22日 木曜
勝夫人に今日木下川の将軍の梅屋敷にいっしょにと言われたが、お逸がひどい風邪をひいたので中止になった。
昨晩は雨が降ったがアンザス氏の家へタ食に行った。グレイ夫妻も来た。
ペイトン氏とアレグザンダー氏がバイオリンを持ってあとから来てダンスをしようとした。
だが私たちは一日中荷造りをしていたのでひどく疲れていたし、この人たちとはそれほど親しくはないので結局お流れにたった。
私はダンスを知らなくてよかったと思う。
本当に馬鹿げたものだと思う。
アンガス氏は素敵な色つき写真を二十枚ほど下さった。
マーシャル夫人と夕食に出かけたが、そのあとディクソン氏の送別会があるのでYMCAにもご一緒した。
ディクソン氏が挨拶をし、ジュエット氏が答礼した。
彼はディクソン氏の後任として会長になることになっている。
私たちはみな家まで歩いて帰ったが、とても楽しかった。
ディクソン氏は生徒から受けとった珍妙な千紙についで話した。
日本語を直訳したのだ。
『名誉先生、あなたが目の前にぶらさかっている愛する家族のもとに帰られると聞き大変残念です』
出発の時が段々近づいでいる。


1880年1月23日 金曜  
お別れの挨拶をするために朝早く家を出発、全部回った。
森氏の家では老婦人に別れを告げ、永田町にある楠本家に行く。
楠本氏は在宅で、母堂に丁重に挨拶された。美しい老婦人である。
楠本議官は府知事を辞められ、暇ができたので、ヨーロッパやアメリカにそのうち行きたいとおっしゃったりして、とても楽しい時を過ごした。
三浦夫人は不在でご主人にお目にかかっただけで、麻布本村町の津田家へ急ぎ奥様とお話をした。
だが一番胸を打たれたのは麻布永坂町にある杉田家で、お祖母様やおよしさん、杉田夫人と火鉢を囲んでしたお話だった。
「もう二度と会えないかもしれませんけれど、魂はあなたちとともにあります。
この世で会えなくとも、天国できっと会えるでしょう。
もう別れることもなく同じ言葉をしゃべり、いつも一緒にいられる天国であなたがたをお探しましょう」
夫人はそう云われた。
本当にもうここでは二度と会えないことだろう。


1880年1月24日 土曜  
昨晩は家で寝たが、布団が足りないので勝夫人がたくさん貸してくださった。
母はウォデル氏の家での祈祷会に行ったが、私は勝家に残った。
明日発つというので私は気が滅入ってしかたがなかったが、奥様はとてもやさしくしてくださり、自分の炬燵に私を入れ、少女時代の面白い話をしてくださった。
私はお逸としばらく坐り、いっしょに聖書を読みお祈りをしてから家に帰った。
今朝は三時に起きて荷造りをし、朝食は勝家でとったが、食べ終わらないうちに客が来だした。
殆どが日本人で、九時前にすでに家は客で一杯になってしまった。
来てくれるのはいいのだが、出発準備でいそがしいのに長居をするのでありがた迷惑だった。
老婦人だちとのお別れは、もう二度と会えないだろうと思うので、一番胸が痛んだ。
岡田夫人とは上手くいったが、内田夫人のおば様の時は、私はすっかり胸がいっぱいになってしまった。
私はおば様がとても好きになっていたのだ。
お逸ともお別れをした。
涙にむせてほとんど物も云えないので彼女を抱くようにして、私はこれだけ告げた。
「さようなら、最愛の友よ、神の祝福がありますように」
お逸も目にいっぱい涙を浮かべて私にキスをした。
「ああ、クララ、これが最後なのかしら」
そう云うと、お逸は炬燵に顔をうずめてしまう。
私は悲しさのあまりお逸をそのままにして飛び出してしまった。
私たちはふたたび会うことがあるだろうか?


来客とは簡単に別れの挨拶をし、やっと私たちの家のあるころび坂を出発した。
だが坂の下で人力車に会った。
乗っているのは、長いこと音沙汰無しになっていた渡辺おふでさんだとすぐわかった。
私は人力車をおりて「いつ東京に来たのですか?」と聞くと、きのう来たばかりで私に会いに来たという。
「それでクララさんはどちらにお出かけですか?」
アメリカに帰るところです」
これを聞いた時の彼女の顔と「ああ残念ですわ」と言った彼女の口調を忘れられない。
ウィリイがせかすし、後ろでは人力車が何台も待っているのでおふでさんは駅までいっょに来ることになった。
十四台もの人力車が連なって駅につくと、またも大勢の友達、生徒、女の人たちが待っていた。
その十五分間に誰に話をしたか全然覚えがない。
ただやたらにお辞儀をし、お辞儀をされたこと、誰かが私にキスをして泣いたこと、大鳥氏の上着のラベルに涙が一杯ついていたことだけを覚えている。
また見送りの人たちが、待合室から汽車のところまで長い列になって、手をさしのべながら「さようなら」を云ったことも、ぼんやりと覚えている。
こうして私たちはたくさんの楽しい思い出といやな思い出の舞台となった東京を発った。
空は明るく澄み、本々は揺れ、子供たちは陽気に遊び、人々は楽しげに話をし、行きずりの人もいつに変わりない。
この東の都をふたたび訪れ、街を歩き、快活な人々にふれあうことができるだろうか? 
だが、すべては終わった。よいことも悪いことも。
私たちはこを去るのだ。
何人かの友達は横浜までいっしょに来て、シモンズ博士の新居で昼食をとった。
勝夫人は横浜に来たことも外洋船に乗ったこともなかったので「浜」とジャネイ号は初めての経験だった。
内田夫人と疋田夫人は汽車にこれまで乗ったことがなかった。
だが別れはどんどん近づき、ついにイギリス波止場で涙ながらにお別れをした。
勝家の人たちは人力車に乗って駅の方に戻って行き、私たちは波止場に立って、見えなくなるまで手を振った。
それからシモンズ家へ戻った。


1880年1月25日 日曜  
昨晩はシモンズ家で泊まったが、この一週間のせわしなさや気疲れの後なので、ぐっすりと寝た。
奥様はなにくれとなく気を配って下さり、羽布団はまったく甘美というほかなかった。
今朝はアンガス氏が東京からみえ、ウィリイ、アディ、私とを教会に連れていって下さったが、ディクソン兄弟も来ていた。
新任のパプティスト教会牧師のヘネット氏が説教をした。
言葉づかいは洗練されていないが、平明で要領を得ており、日常生活から例を引くなど、彼の人柄が表れていた。
昼食ののち、大勢の人々が東京からお別れにこられた。
ウィリイはディクソン兄弟やその他の人たちといっしょに、荷物を確かめに船に行った。
安息日」だというのに、とても忙しかったが「一週間の満足をもたらす」のにふさわしい一日だった。
東京からここへ来る前に、勝氏についてすてきな話を聞いた。
彼は、厳寒の大晦日に、粗末な着物に身をやつし、人力車も伴も連れずに、貧困に打ちのめされた徳川旧藩土の家を歩き回って「餅代」を置いてきたという。
彼は私とアディに、ヨーロッパでおもちゃを買いなさい、百ドルもくださった〈!〉。


1880年1月26日 月曜日 フランス船ジャネイ号にて
ついに出発した。
八時に乗船。午後九時きっかりに船は出港した。
ジェイミーはお兄さんの見送りに、引き船に一緒に乗って船まで来た。
二等で帰るので、来た時ほど部屋はよくないが、シモンズ先生はアメリカ船がよすぎたのだとおっしゃった。