Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「帰ってきたクララの明治日記 超訳版」第7回をお送りします。
なお前シリーズの過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分明治10年8月分明治10年9月分明治10年11月分明治10年12月分明治11年1月分明治11年2月分明治11年3月分明治11年4月分明治11年5月分明治11年6月分明治11年7月分明治11年8月分明治11年9月分明治11年10月分明治11年11月分明治11年12月分明治12年1月分明治12年2月分明治12年3月分明治12年4月分明治12年5月分明治12年6月分明治12年7月分明治12年8月分明治12年9月分明治12年10月分明治12年11月分明治12年12月分明治13年1月分明治15年11月分明治16年1月分明治16年2月分明治16年4月分明治16年5月分


1883年5月16日 水曜日
私は最近一人ほっちでいることが多い。
だから、考えたり計画を立てたりする時間が十分にある。
私は昨夜兄と楽しい語らいをした。
兄は神の国にふさわしい善良な人のように思える。
最近大統領からアメリカ領事館の通訳に任命された。
私たちにいつもとても親切にしてくださるビンガム公使は、任命のための申請書を三枚作ってくださり、ご自身で夫人といっしょにそのニュースを知らせに来てくださった。
もっとも私たちはビンガム公使の来訪の前に既にフィラデルフィアニューアークの新聞で、ウィリイの任命についての二つの記事をみていた。
「望みどおりの通訳を得られて、自分自身におめでとうを言いたいくらいだ」
ビンガム公使は、そう言って喜ばれた。
母が存命だったら、どんなに喜んだことであろう。
でも、すでにそれを知っているかもしれない。
任命を申請する前から母は知っていて、ウィリイがその地位を得ることをたいそう望んでいた。
だが母が長い間待ち望んでいたこの幸せな境遇を私たちといっしょにこの世で頒ち合えなかったことは、何としても悲しいことである。
しかし神は、母をもっとよい境遇へと連れて行かれた――ただそれは私たちからずいぶん遠方ではあるが。
アディはクレッカー夫人のお子さんたちとの勉強に出かける。
私たちはアディのこの幸運を喜んでいる。
が、一方アディとしては、自分が旅行したり、家の手伝いをしている間中、ずっと勉強をしていたこの子供たちに比べて自分の方が無学に思えてがっかりしている。
そんなわけで、私は午前中たった一人残されて小さい子猫を友としていた。
六蔵が来て一時間話をし、午後には玄亀が来た。
ウィリィと私はギリシャ語の勉強をいっしょにはじめ、英語・ギリシャ語・日本語・清国語の聖書を比較するのがとても面白い。


私は、私が初めて書いた本『アグネス・セント・クレア』を一部受け取った。
しかしこれを喜んで読んでくださり、またこれを見たがっていた人がもうこの世にはなく、そしてこれを褒めてもらうことも叶わない今、私はあまり喜ぶことはできない。
ああ、母はどんなに待ち、それを見たがっていたことか。
そして郵便配達のたびにそれが届くのをやきもきして待っていたのに。
ちょっと遅すぎた。
私は事実、思っていたほど、悲しみに打ちひしがれてぱいない。
それでもこの苦しみはその恐ろしい力で私の上にのしかかった。
しかし私はなぜか非常に心安らかである。
私が恐れていた喪失感も感じない。
あたり中に母の品物があるし、ベッドはそのままであり、母の望みは叶えられ、信じる神がある程度は拝まれているし、私は母が遥か遠くへ行ってしまったようには思えない。
母の魂はたしかに我々に受け継がれている。
実際私が母であり、昔の私自身がなくなってしまったように感じることがよくある。
それから私は、昔の私自身の醜く邪悪な性が出てきていて、自分の魂が母の美しく、やさしい魂ではないという事実に目覚め、魔法がとけてしまうのである。
私の大切な母は私ぐらいの年齢の時大きな試練にあっている。
母は昔よく外に出て、淋しい我が家の人目に腰を下ろし、死を願ったりもした。
まだその頃は、後に母の特徴となった神の力を信ずることは経験していなかったのである。
そして私か生涯持ちえた輝やかしいお手本も、母は持ってはいなかったのである。
私は母の人生を受け継ぎ、母が歩んだように進んでゆく。
私の命は母のもの、母の命は神のもの。
あらゆる状況のもとでいかに処すべきか決めるのはとても難しいことであるが、母はいつも立派にやりとげていた。
その点で私は母を慕わしく思うことがしばしばである。
母は真の威厳をもち、あらゆる点で尊敬をかち得ていたが、私の威厳といったらまるでお話にならない。


1883年5月18日 金曜
今日は日本福音伝道会の閉会式が行なわれたが、そこで面白い光景を見た。
私は二時に出かけ、劇場で開かれると聞いていたので島原へ行ったが、ステージの上の役者を一目見て場所を間違えたことに気がついた。
しかしじきに場所がわかって、宣教師たちがたくさんいる壇上に案内された。
久松座という劇場はおよそ二千の人々で、上から下まで通路まで一杯。
私たちが入って行った時はウォデル氏が話をしていて聴衆は夢中になっていた。
演説者が何人も続き、その中にイービー氏、ヴァーペック氏、伊勢時雄氏、大阪の宮川経輝氏、そのほか私の知らない人がいた。
イービー氏はあまり興奮して夢中になり、聞きづらいほどの大声で話した。
しかし、彼の話は聴衆の心に深く訴えるようであった。
ヴァーペック氏は日本人の間で敬われていて、一同尊敬をもって傾聴した。
伊勢氏の演説は非常に個人的で、大部分の聴衆から反感を買った。
そして救済の計画について話し出した時、「イヤー! イヤー!」という叫びと、手を激しく打ち鳴らす音でその声はかき消されてしまった。
伊勢氏は辛抱づよく待ったが、はじめようとするといつも声がかき消されてしまった。
幾度か試みたが駄目で、とうとうただ頭を下げ祈りを始めた。
すると突然しんと静まりかえり、伊勢氏は人々の心に深く訴えるように熱心に祈った。
誠に上品に、熱心に、雄弁に祈ったので、誰も彼も驚き、誰一人としてその邪魔をする者はいなかった。
伊勢氏は京都の人で、日本人の説教者の中では一番の精神主義者だと考えられている。
宮川氏もたいそう雄弁なので人気があり、立ち上がると盛んな拍手で迎えられた。
宮川氏は背が低く痩せていて黒々としたあごひげがあり、ほっそりしたきゃしゃな手を使い、いとも上品な手ぶりで話をする。
とても雄弁で言葉がすらすらと口をついて出て来て、その熱烈さは会衆一同を引きつけた。
すべてが終わって、次は祝祷という時に、バラ氏が立ち上がり、少し話をした後で「イエス・キリストに興味があり、もっと聞きたい人は手を挙げるように」と言うと、五十以上の手が上がった。
バラ氏は梅太郎が長崎で改宗したことを話したが、もちろん名前は言わなかった。
頌栄のあと、奥野師は演壇に上がり、腕を広げ祝祷をしたが、その様子は司教のよう。
それからバラ氏は「本当に信じたいと思う人は、ここに残ってもっと話を聞くように」と言った。
帰る人で数分ざわざわした後、平土間にひざまずく五十名ほどの人たちを残し、後は すっかり出て行ってしまった。
牧師たちはこの人たちのまわりを歩きまわり、ここかしこで一言しゃべったり、祈ったりした。
一方壇上には一群の外国人が立ち、この新しい信者仲間のために喜び、また祈った。
私たちが退席して外に出たところ、そこの賑やかな通りには日本語の聖書やパンフレットや讃美歌の小さな売店が両側に並んでいた。
かなりの数の仏教の僧とギリシャ人の僧も一人出席していた。


1883年5月25日 金曜
私は火曜日から横浜のヘップバン夫人の家に行っていた。
「お兄さんが結婚したら、うちの娘になりなさい」
ヘップバン夫人がおっしゃってくれた。
こんな素敵な家庭に、こんな良い人たちといっしょに住めたらほかに何を望めよう。
横浜に私たちが来た最初の日に、父がこの方々のところに連れて行ってくれたのだった。
皆さんがとても親切でやさしく、私のところに来ては母についていろいろと親切なことを言ってくださる。
私たちはこの前の安息日の夕方から例会を再開し、私たちのためにウォデル氏が説教をしてくださった。
使用人のクメは、洗礼を受けたいと云っている。
金八が出て行った今、我が家は信仰を持つ者ばかりとなった。
キリストが我々の長であり導きとなってくださるよう祈る。
今日郵便が来たが、なんと悲しいものだったこと。
私はもうこんなものになんの興味もない。
事実、郵便が来るのが恐ろしいほどである。


1883年5月31日 木曜
昨夜私は大層うれしいニュースを耳にした。母は天国でそれをご存じだろうか。
津田氏が来られてこんな話をされた。
親睦会で雄弁に説教をされた大阪の宮川氏が勝氏をたずねたところ、こう言われたというのだ。
『宗教については、ホイットニー夫人の宗教以外のものはいやだ』と。
勝氏は日本人の間で暮らした母の生活ぶりを見、その死をも見てこられた。
母はその生と死において、真の宗教とは如何なるものかを実証した。
子供たちも今また同じ道を歩いている。
宮川氏は求められるまま、終日勝氏と話し合われたという。
なんと喜ばしいことであろう! 
「勝氏は今は未だ受け入れてはおられないが、やがてはクリスチャンになられるだろう」
津田氏はこう言われた。
おお、神様、母の努力に対して、栄冠を与えたまえ。
母はどんなに熱心に勝氏のために祈ったことであろう。
私たちが以前ここにいた時、毎日曜の朝、教会へ行く前に一時間、勝氏のため祈りを捧げていた。
その時私はこのような熱烈な祈りが無駄になり得ようはずはないと思った。
もしこの大きな影響力をもつ方がクリスチャンになられたら、私たちにどのような喜びがもたらされることか。
また、私たちの苦悩にどのような慰めがもたらされることか。
もし彼が信者になられたらこのヤシキの人たちは皆改宗するであろうし、ここに教会をもちたいという我々の心からの願いもかなえられるであろう。
ここのクリスチャンたちは、この地に自分たちの教会ができるようにと祈りつづけているのだ。
ヤシキでは、私たちが日本を留守にしている間も小さな集会が続いていた。
それに門には「ヤソキョウ」という表札をかけていたので、勝氏は自分のヤシキに教会をもっている、という評判が長いことたっている。
この界隈で我々は「イエスの説教者」と言われている。
おお、どうか我々がそれに値する者でありますように。
現在日本人の間に深い信仰心が芽ばえている。
「主の御前より慰安の時」(使徒行伝三・二〇)を迎えるのは、日本では初めてのことである。
おお、母が存命でこれを見ることができたら! 
「私はにわか雨の最初のしずくの音をきいた」
母が言っていたとおりである。
しかし本降りの雨を見ることは許されなかった。
先日私はちょっと用事があって、疋田夫人のところへ出かけ、たまたまそこにクリスチャンの人が一人いたので、三人だけの祈祷会をした。
今日は私の婦人祈祷会をはじめる日である。
梅太郎は横須賀か神奈川へ造船の勉強に送られる筈だったが、あやうく逃れて、遂に牧師になる勉強をすることを許された。
父上は梅太郎を上野の近くに住む木村熊二氏の下へつかわされ、彼は大いに満足している。
母が逝ってから梅太郎はずいぶん変わった。
少年から大人へと成長し、ますます真面目になり、私は梅太郎がこのまま導かれ、日本人の幸福のために力になるよう祈っている。