Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「帰ってきたクララの明治日記 超訳版」第10回をお送りします。
なお前シリーズの過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分明治10年8月分明治10年9月分明治10年11月分明治10年12月分明治11年1月分明治11年2月分明治11年3月分明治11年4月分明治11年5月分明治11年6月分明治11年7月分明治11年8月分明治11年9月分明治11年10月分明治11年11月分明治11年12月分明治12年1月分明治12年2月分明治12年3月分明治12年4月分明治12年5月分明治12年6月分明治12年7月分明治12年8月分明治12年9月分明治12年10月分明治12年11月分明治12年12月分明治13年1月分明治15年11月分明治16年1月分明治16年2月分明治16年4月分明治16年5月分明治16年6月分明治16年8月分明治16年11月分明治16年12月分明治17年1月分


1883年11月29日 木曜 感謝祭
私たちは、来週清国へ向け出帆することになっている旗艦リッチモンド号のスカーレット艦長に別れを告げに、今朝横浜へ行った。
艦長は私たちの親切な友人であった。
この二、三ヵ月よく家を訪ねてくださったこの紳士と別れねばならないのはとても悲しい。
艦長はその夜はずっと私だちと過ごした。
一緒に出かけ、まずユニオン教会へ行ったが、そこでは感謝祭の礼拝が行なわれていた。
昨年の十一月以来いろいろ悲しいことがあったけれども、なお感謝すべきものがたくさんあることを知っている。
言いかえればウィッテンマイヤー夫人の言うようにだ。
『我々は涙を通してお手本を見ることができるのである』
教会の後、スカーレット提督のはしけに乗って軍艦へ行き、艦長や知り合いの軍人たちと愉快な午後を過ごした。
はげしい雨の中を帰宅した。


1883年12月7日 金曜
大山将軍の先夫人である、昨年の8月24日に亡くなられた沢子さんは、母がかわいがっていた生徒であるが、私はその将軍と先月結婚したばかりの婦人と親しくなった。
この方は山川捨松さんと言って、十年か十一年間アメリカにいた人である。
今朝この方に会いに、永田町一丁目の美しい家へ出かけた。
夫人は私を自分の部屋へ連れて行ってから、そこで二、三時間おしゃべりをした。
よもやまの話をしたが、中でも日本における飲酒の害について語り合った。
私は母の主義を話し、人の思惑などかまわず、母が自分の父から教え込まれた禁酒主義を、どのようにして推し進めたかを話した。
『日本のような国際的なところで、こういう清教徒的な考えを持ち続げることは不可能だろう』
ビンガム公使夫人からは、そう云われていたが、母は「何故生活様式を変え、時流に従い、悪い風習に従わねばならないのか、自分にはに分からない」と答えたものだ。
このことを私が大山夫人に話したのは、大部分の日本婦人が恐れている輿論に影響されず、夫人が正しい方の味方になるよう望んだからである。
大山夫人はヴァッサー・カレッジの卒業生で、若く聡明な女性である。
更に病院で看護学研究のため、三ヵ月の講座をとったが、医師にならなかったのは友人たちの反対にあったからである。
夫人は日本には女医が是非必要であると思っている。
それは女性が慎み深くて、男性には話しにくい問題を相談できる同性の医師がいたら命が助かる場合が多いからである。
私は「ご自分がお手本になってくださればよかったのに」と思う。
大山夫人は今度、交わるようになった人たちにはきっとよい影響を与えるであろう。
私たちはまた、日本文学について楽しい語らいをした。
日本の婦人たちの間に、よい文学を紹介するために何かしたいが、もしそれが不可能なら、誰かにそれをするようにすすめることが私の願いなのである。
津田梅子さんや大山夫人のような、現在高い地位にある若い人たちに、祖国の婦人たちのためになることを何かするようにしむけることができるなら、私は自分がそれをしたのと同じように嬉しく思うだろう。


今日午後、うちは大接見会場のようだった。
午後ずっと婦人方が次々に来訪され、二人はお茶の時間までおられ、二人のお兄様が迎えに来られた。
吉原夫人はお逸さんと一緒に、それに小鹿島夫人――以前我が家に来ていた渡辺ふでさんのことだ――、津田梅子さん、梅子さんのお姉さんであるお琴さん、前田嬢、おしなさんなど。
フェノロサ夫人はテリー夫人と一緒に立ち寄られたが、私たちはお茶とケーキとオレンジーゼリーをいただいていたところだった。
日本の婦人方は笑ったり、おしゃべりしたり、手芸の針仕事をしていた。
それをたたんで帰り仕度をすると、皆は一様に云われた。
「楽しゅうございました、来週もきっと参ります」
帰る前に、お逸さんが私を客間に呼び、吉原夫人と小鹿さんの奥様と、お逸さんからの美しい縮緬をくださった。
クリスマスの贈り物にするつもりであったが、私が元旦に皇后陛下に拝謁することになっているので、お正月前に仕立てさせるのに間に合うように、今日くださったのである。
大山夫人は皇后陛下と談笑し、陛下は、夫人自身のことや、アメリカのことなどいろいろお聞きになり、大山夫人は、普通の丁寧なことばでお答えしたそうである。


1883年12月11日 火曜
午後エマ・ヴァーベックが訪ねてくれて、くつろいでおしゃべりをした。
とてもいい人で、私はエマを尊敬している。
あしたは兄と横浜に行き、いただいた縮緬をチングリー洋服店で仕立てさせる。
横浜に行くといつも私は憂鬱になる。
そこで見た光景で胸がむかつく思いで帰って来る。
酔っぱらった水夫、堕落した日本人、多かれ少なかれどこの港でも見られる雰囲気などが私をうんざりさせる。
日曜日は、氷川町に引っ越してちょうど一年目。
大切な母を奪い去った恐ろしい病気が始まった、あの苦しく悲しい夜のことは決して忘れられない。
たった一年前――そして今墓石を建てている。
しかし母はあの大理石の下にはいない。
母は白い衣の天使に囲まれて天で、私を待っていてくださる。
いつも私が旅に出た時には帰りを待っていてくださったように。
毎日天の門を入る人々の中に、私を探して、失望なさいませんように!
日曜日に私が話したことを生徒たちがよく聞いてくれたので本当に嬉しい。
玄亀がこんなことを質問してきた。
「キリストを知っていながら、キリストヘの信仰を告白しない者は救われるのか。
それとも、キリストを知らなくとも、自分から正しいことを行なう者が救われるのか」
またこんなことも聞いてきた。
「キリストが天に昇り給うた時、その肉体はどうなったのか」
玄亀の年齢で、こんな質問をするとは驚くべきことだ。
母が私のために祈ってくださった言葉がたえず心に甦える。
「おお、神よ、神の道を歩まんとするこの若きあなたの仕女をみそなわし給え、彼女に祝福をたれ給え」


1884年1月11日 金曜
この前書いてから、なんと忙しいことが多かったことか。
十五日ごろからクリスマスの準備を本気で始めたが、ときわ木を飾りつけたり、プレゼントを選んだり作ったり、友達にお祝い会の招待状を出したりで、猫の手も借りたいほどの忙しさであった。
クリスマスの夜には、勝家と杉田家のご家族、西寛二郎夫人に来ていただき、ささやかなおもてなしをした。
母は現実にはいなくとも、母の感化が未だ残っていることを皆に感じていただきたいと思い、なんでも母がするようにしたいと思った。
大変楽しかったけれども、去年一緒だった人のことがふと心に浮かんで来たので、座をはずして、思いきり一人で泣いてしまった。
元旦と、その後二、三日は、アディと私にお客様がみえた。
日本人も外国人も来られたが、そのため相当に忙しかった。
その後仕事を始め、できるだげ忙しく、陽気にしている。