Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

今週も「帰ってきたクララの明治日記 超訳版」第11回をお送りします。
なお前シリーズの過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分明治10年8月分明治10年9月分明治10年11月分明治10年12月分明治11年1月分明治11年2月分明治11年3月分明治11年4月分明治11年5月分明治11年6月分明治11年7月分明治11年8月分明治11年9月分明治11年10月分明治11年11月分明治11年12月分明治12年1月分明治12年2月分明治12年3月分明治12年4月分明治12年5月分明治12年6月分明治12年7月分明治12年8月分明治12年9月分明治12年10月分明治12年11月分明治12年12月分明治13年1月分明治15年11月分明治16年1月分明治16年2月分明治16年4月分明治16年5月分明治16年6月分明治16年8月分明治16年11月分明治16年12月分明治17年1月分


1883年2月2日 土曜
時は飛ぶように過ぎ、日は来たり、去る。
そして神の大きなお恵みによって私どもは生きながらえている。
今日はとても悲しい。
窓から仲よくしていたご老人のお葬式の行列を見ていたのだが、たった今、窓から目をそらしたところである。
内田夫人のおば様が金曜日に亡くなられた。
とても急で、病気になって二目か三日だった。
おば様は八十五歳で、よくこう言っておられた。
「私は年をとってしまって、耳も聞こえないし、歩きまわることもできません、身内も友達も皆死んでしまいました。私はただ待つばかりです」
かわいそうに! 
とても信心深かったけれどキリスト教の信者になる気はない。
起きると太陽を拝み、夕べには大きい声で祈っているのをよく見かけた。
このようなあわれな魂を神様はきっとお守りくださるに違いない。
おば様はとても親切にしてくださった。
母が亡くなった時、ひどく泣いて言われた。
「なぜ代わりに私のところにお迎えがこなかったのでしょう。
こんなおばあさんで役に立たないのに。お母様は若くて、あなたには大切な方なのに。
これからは私かお母さんになってあげましょう」
最近、おば様はとても耳が遠くなったので、話が通じにくくなっていた。
ある時、うちの立体鏡を見たいと言った。
とても弱っていて、こちらに来られないので、おば様の方へそれを持って行ってあげた。
最後にみえたのは1月10目だった。
ベランダのところへ来てしばらく話をしたが、うちにおあがりになれなかった。
とても弱っておられるようなので、ほんの数歩のところだが、家までついて行ってさしあげた。
おば様は、オクに――勝家の本宅のことだ――お風呂に入りに行くのが、とても苦労だと言っておられた。
遠すぎるので、やっと1ヵ月に一回行くだけだそうだ。
それで「私のところは時々わかすから、うちのお風呂を使いにいらっしゃい」と言うと、とてもうれしそうにお礼を言われた。
お葬式は仏式で、行列は私たちの門の前を通過した。
先頭は、長い紙提灯とお位牌を待った数人のお坊さんで、内田夫人は、真っ白な縮緬の着物を着て、お棺をのせたお駕籠のそばを歩いた。
ヤシキの人たちは徒歩でそれに従った。
兄も行列に加わった。
今いる使用人や、昔の使用人や、出入りの商人たちも行列に従った。
ご婦人方も見え、しばらく柩について行ったが帰って来た。
行列に加わらなかった使用人たちは、それが通り過ぎる時には貴族にするように土下座した。
このように、死の荘厳さと神秘とは、死者を高め尊くする。
お墓までの道を、できるだけ遠くまで老婦人について行きたくても家をあけられない人たちを私はかわいそうに思った。
ああ、この世には悲しみがいっぱいだ。
真理と正義の時代はいつ始まるのであろうか。
クリスマスの日、午後にうちに来て下さった婦人方は、母に「クリスマスおめでとう」を云いに、先に墓地に行かれたのだそうだ。
勝婦人は二本の大きな柊をクリスマスプレゼントだと言って植えてくださった。
本当にやさしい心をもった方々だ。
私はどんなにこの方たちに惹きつけられているかわからない。
神よ、どのように彼らを愛すべきかを知る知恵を与え給え。


私を深く悲しませた今一つのことは、西夫人のお母様が亡くなったことである。
この方はクリスチャンで施療院に住んでいた。
月曜日に西夫人はお母様の病気のことを知らせてくださった。
それで火曜日にお見舞いに行った。
西夫人は涙を流しておられた。
往診に来てもらった医者は、胸の痛みを止める薬を老婦人に投与した。
それ以来病人は眠ったきりである。
モルヒネかもしれないし、分量が多すぎたのでぱないかと心配しておられる。
夫人を慰めようと思い、兄に行ってあげるように頼んだ。
兄はその晩に行き、とても悪いようだが、前に西夫人が病気の時に私が作って差し上げたゼラチンをお母様にも作って行ってあげるようにと言ったので、翌朝、私はゼラチンと鶏のスープなどを持って鍛冶町に行った。
老婦人は私に来て欲しいと言っておられたところで、前の日に、会わずに私か帰ってしまったことを残念かっていた。
衝立の陰で、床の上に寝ておられたが、私が枕元の床に坐った時、彼女はうつらうつらしていた。
間もなく目をあけてこう云われた。
「まあ、おいでくださってうれしゅうございます。椅子におかけください。床は固いでしょう」
私は床の方がいいし、床にすわるのは慣れていると答えた。
それから私のスープを少し飲み ゼラチンも欲しいと言われた。
私は頭と手をさすってあげた。
老婦人は自分の手を見て静かに笑いながら云った。
「とてもきたない手で、おさわりいただけないほどです」
それから、私は西夫人にお願いして、ヨハネ伝第十四章を読んでいただいた。
夫人は読んだが、「なぐさむるもの」とか、「第宅多し」とか「神の平安」とかいうところはゆっくりと読んだ。そして祈った。
あとで老婦人は、こう云われた。
「私は天に行きたい。生き長らえるより逝ってしまいたいのです。
ただここのかわいそうな子供たちと娘を考えると……。
私がいなくなったらこの人たちはどうするでしょう」
「ご心配なく」
私は答えた。
「神様はあの子供たちの父親です、守ってくださいます。
私たちがここにいる限り、子供たちは必ず、地上の友を与えられます」
老婦人は天のこと、そこへ行きたいことなどをつぶやいておられたが、眠ってしまわれた。
私は間もなく帰って来てしまったので、老婦人がその晩亡くなったことは次の朝まで知らなかった。
静かに息をひきとられたとのことで、私たちによろしくと言われたそうだ。
日本人らしい礼儀正しさを最後まで持っておられた方だ。
葬儀は昨日の午前中、キリスト教式で行われた。
ヨハネ伝第十四章の朗読があり、祈祷とヴォデル氏の短い話が続いた。
西夫人は頭を私の肩につけて、すすり泣いていた。
私はずっと手を握ってあげていた。
それから手を取り合って、亡骸に最後のお別れをした。
遺体は深い箱の中に坐っていた。
白髪の頭は、胸に深く垂れ、眠っているようだった。
たくさんの色どり美しい花が膝の上と、柩の四辺をおおっていた。
埋葬の場所は上野で、そこまで駕寵で運ばれた。
勝夫人と小鹿さんが病気なので、食欲増進用の食物を作るのに忙しい。


1884年2月7日 木曜
今日は雨降り。
いかにも二月らしい、雪どけの陰影な日。
アディと私は居間に囚われの身となり、勉強や書きものや、スクラップ・ブック作りや手芸などをした。
婦人方はこんな日には祈祷会に出ては来ないだろう。
ちょっとの間、日記をつけよう。
今朝、約束どおりに、内田夫人についておば様の遺骨が眠る宝泉寺へ行った。
火葬――恐ろしい習慣――は葬式の翌日に行なわれた。
今やあの親切な老婦人は壷の中の数片の黒焦げの骨だけになってしまった。
法要が九時に始まるので、八時十五分ごろ家を出て、ひどいぬかるみと雨と雪の中を、約一マイルほど人力車で行き、お寺に着いた。
お寺は丘の上に建ち、石段を上り、杉の木陰の路を通って行ったところにある。
私たちは住職の家の方へまわって行き、入口で寺僧に迎えられた。
この青白い顔の若者は、歓迎のことばを述べて、私たちを長い迷路のような廊下を案内して応接間に通した。
お茶を出し火鉢をすすめ、天気が悪いことなどを話して、立ち去った。
間もなく近くの鐘の音に答えるように、寺の中の鐘が鳴り、この荘厳な響きはしばらくの間続いていた。
その間中、内田夫人、幼い保爾――ヤーちゃん――と私、それに内田家の家扶である神山と内田家の老僕は、かしこまって坐って待っていた。
ヤーちゃんは火鉢の中から炭を指でつまみあげては、みんなのほうを見てニヤニヤ笑っていた。
間もなく本堂に迎えられた。
ここには手の込んだ仏壇があり、周囲には寺の檀家の物故者の位牌がおいてある棚が並んでいた。
中央に大きな鐘が置いてあり、仏壇の前に三つの経机が並べてあった。
本尊がまん中に、脇侍の小さい像が両側に立っていた。
少しおくれて、宝泉寺の住職が入って来て、仏壇にお辞儀をしてから、経机の前に坐った。
腰のところから箱ひだになっている縮緬の緋の衣を着け、その上に、白と金色の錦地の袈裟を左肩に結んで、暗赤色の衣の上に優美にかけていた。
手には馬の尾のようなものを持っていた。
かぶり物は、同じ錦地で肩にかかるケープがついていた。
これをかぶると本当にお坊さんらしく見えた。
読経が始まったが、間に時々青銅の鐘の柔らかい音が入った。
内田夫人は、体を私の方に乗り出して云った。
「本当に無益な儀式です。お坊さんがお祈りしているのですよ」
内田夫人は目に涙を一杯ためて、無表情に度胸を続ける僧の顔を見ていた。
私も、こんな無益な方法で神を求めている気の毒な人たちに対し、悲しみと哀れみを感じた。
法要は長くはなく、すぐに僧たちは仏壇の蓮の形の器に香を焚き、私たちにお辞儀をして立ち去った。
これは私たちにお焼香するようにという合図である。
内田夫人は、私に悲しげな目をむけてヤーちゃんとともに前に進み出た。
きのう私たちはこの焼香の風習について話し合ったが、内田夫人はクリスチャンとして、この風習に従うべきでないことは知っている。
しかし、もし焼香をしなかったら、動機を疑われるだろうと思う。
焼香とは礼拝するだけではなく、尊敬のしるしだからである。
神山と老僕とは焼香をしたが、私は失礼させていただいた。
その代わりに、お墓にあげる花環を持って来ていた。
私たちが出る前に住職が入って来て、ちょっと話をしたが、かぶり物と袈裟はぬいでしまっていた。
そして一番に保爾に、次に内田夫人にお辞儀をし、内田夫人に向かって天気のことを話し「白いものが落ちて〈雪のこと〉」と言った。
次に私、神山、老僕にお辞儀をした。
骨董を集めている神山は、坊さんに、そっときいた。
「あちらの脇侍の像にほれこみました。近頃は、あのような像が買えるかどうかご存じですか」
「買えないと思いますよ」
「どこに行ったら買えますか」
しつこくたずねる神山に、内田夫人は笑いながら云った。
「神山さんはよくお寺に行くのですよ」
「あの像は、有名な彫刻家〈名前をあげて〉が当寺のために彫ってくださったのです。
国中どこへおいでになっても、このようなものは二つとないと存じます」
僧は答えた。
神山はさらに何か言いたそうだったが、寺僧がお菓子とお茶をもって出て来たので、話は打ち切られた。
内田夫人は「今日は母と妹たちが一緒にに来るはずでしたが、風邪をひきまして、雨で出かけられませんでした」と言った。
住職は遺憾の意を表してから、夫人のほうを向いてきいた。
「あなたもお風邪をおひきのようですね」
「はい、いま流行っておりますので、私も……」
住職は「お大事に」といって引っ込んで行った。
私たちは玄関でもう一度住職に会ったが、その時は一人一人彼の前でちょっと膝をついてお辞儀をした。
それからお墓に行った。
それは内田家に属するたくさんのお墓の中の一つであった。
内田氏のお墓には紋がついており、墓――五輪塔――の五つの部分は五つの元素を表わしている。
四つの白い提灯が、おば様のお墓の上に下がっていた。
花がその前に置いてあり、あるものには、贈り主の名刺がついていた。
私のお花は灰色の石の上にやさしく枝をたれている木の枝にかけた。
私たちはうるんだ目をして、ここを立ち去った。
内田夫人は階段を下りながら云った。
「老人が亡くなるのは悲しいことです。
でも若い人やあなたのお母様の時ほどに嘆けません。
老人は役に立たず、不幸せものです。
それでも私は……涙のために目がよく見えないほどです」


1884年2月25日 月曜日
前田嬢と話をしていて、面白いことを知った。
父上の献吉氏は財産を子供たちに分けて、管理させた。
二人の姉妹は自分の名義で、立派な家と地所を所有する。
お兄様も一軒持つが、姉妹ほどには立派でも高価でもない。
父上曰く。
“財産は男の子には重要ではない”
というのは、男の子は結局は親の財産のすべてを相続するからである。
父上は娘たちが財産を管理し、〈家は店子に貸してあるので〉受け取ったお金を慎重に、倹約して使うように希望しておられる。
このようにすれば娘たちは結婚に左右されることはなくなると言う。
婦人が土を耕せる大きな土地を持ち独立することは大層よいことだ。
その方が結婚よりも幸福だと考える。
日本人にもこんな進歩的な考えを持つ人がいることを知ってうれしい。
前田夫人は、ご自分とご主人のために、金銭関係はすべて自ら管理をしておいでになる。