Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「帰ってきたクララの明治日記 超訳版」第12回をお送りします。
なお前シリーズの過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分明治10年8月分明治10年9月分明治10年11月分明治10年12月分明治11年1月分明治11年2月分明治11年3月分明治11年4月分明治11年5月分明治11年6月分明治11年7月分明治11年8月分明治11年9月分明治11年10月分明治11年11月分明治11年12月分明治12年1月分明治12年2月分明治12年3月分明治12年4月分明治12年5月分明治12年6月分明治12年7月分明治12年8月分明治12年9月分明治12年10月分明治12年11月分明治12年12月分明治13年1月分明治15年11月分明治16年1月分明治16年2月分明治16年4月分明治16年5月分明治16年6月分明治16年8月分明治16年11月分明治16年12月分明治17年1月分明治17年2月分

1884年4月1日
アディと私は、先日、日本人の結婚式に行った。
友人の内村鑑三氏が3月28日の夜の結婚式に招いてくださったのだ。
ウィリィはひどい風邪をひいていたので、アディと私とが、津田氏とお嬢様に連れられて出席した。
葉書の招待状が来たが、上野の池の端にあるお茶屋とのことだった。
午後人力車で出かけた時には雨が降っており、市内を一時間以上も乗って到着した。
お茶屋の入口まで行くには、いくつかの反り橋が続いているところを渡って相当歩かなければならなかった。
美しい着物を着た婦人に、ベランダのところで迎えられ、そして裏の部屋に案内され、そこで上に着ていたものを脱いだり、持参したお祝いの贈り物を渡したりした。
式場に入ってから席につくまでに一騒ぎ。
というのは美しく着飾ったご婦人が私たちに上席に坐るようにとおっしゃったからだ。
津田仙氏の長女で、上野栄三郎夫人であるお琴さんはさんざん説得されて、ついに、紳土方に向かい合っている婦人方の長い席の一番上席についた。
客は二列に向き合って、床の上に坐ったが、男性の側より女性のほうが少なかった。
外国人は、キリスト教の式を司るハリス氏と、内村氏の前の先生で札幌から来られたカター博士のほかは私たちだけであった。
紳土方のなかには、津田、長田、加藤、門屋、小崎の諸氏の他にも、よく知った方のお顔が見えた。
一方女性方は、ほとんど知らない人ばかり。
一時間余りも待ったが、その間に紙で花や鳥を作って時間つぶしをする婦人もいた。
話は結婚や花嫁のことばかりで、私か出席したことのあるコプト人の結婚式の話をしたところ皆とても面白がった。


横のドアが開くと、少しざわめきが起こり、一同が立ち上がった。
そこへ内村氏は、仲人のご主人に腕をとられて現われた。
後にはご家族――父上、母上、妹さんと弟さんが続いた。
次に花嫁が出て来た。
立派に着飾ったご婦人が付き添っていたが、花嫁のおかげで貧弱に見えた。
花嫁は、感じのいい顔立ちの、見たところ二十三くらいの小太りの人であった。
しかしあとで聞いたのだが、たった二十歳だそうである。
紅白の縮緬の美しい衣装をつけ、その上に、お姫様のものかと思われるような、美しく刺繍した打ちかけを着ていた。
髪はマルマゲに結ってあり、アゲボーシという四角のかぶりものを額の上につげていた。
花嫁の家族が続いて入場して、全員が部屋の向こうの端に、客席に向かって席を占めた。
一同ひざまずき、ハリス氏がお祈りをした。
それから一同はふたたび起立し、ハリス氏は、メソジスト・監督派の式を日本語で行なった。
内村氏はこの衆目の中で、落ち着いて問いに答えた。
しかし花嫁は丁寧に頭を下げただけであった。
この美しいキリスト教の式を初めて見た日本人は、きっととても珍しいと思ったに違いない。
確かに、キリスト教の式は当事者にとっては、拘束力があるように見える。


式が終わると、ハリス氏は後ろにさがって、満足気に手をすり合せて一同に向かい「内村様御夫妻」を紹介した。
間違いかもしれないけれど、出席者の中には、この言葉を聞いて花嫁がクスクス笑ったように思った者が何人かいた。
次に客は一人一人出て行って、幸せなお二人にお祝いを言った。
各自が違ったお祝いの仕方をしているのを見るのは、なかなか面白いものだ。
ある者は進み出て、遠くの方から畏まってお辞儀をする。
ある者は、外国式に握手をする。
カター博士は、くつろいだ様子で無造作に歩いて行き、「やあ、おめでとう」と言った。
またある者は畳四、五枚離れたところに坐ってお辞儀をした。
私が握手をすると、花嫁は私の手をぎゅうと握った。
続いて行なわれた結婚披露宴では、花嫁はまわりに集まった友人たちがいくらすすめても、何も食べなかった。
かわいいおすましやさん! 
花嫁はうつむいて、後ろにいた友達の手に何やら字を書いていた。
談笑したり食べたりしながら九時頃までいて、新婚のお二人にさよならを言って、帰って来た。
まだ雨が降っていたので、長田氏はご親切にも長い着物の裾を帯にはさんで、人力車のところまで日本の大きな傘をさしかけてくださった。
津田氏は家まで送ってくださった。
相当遅かったし、疲れてびしょぬれだった。
内村氏はウィリイの親友で、私の知人の中で最も理知的で注目すべき日本の青年の一人である。
非常に熱心なクリスチャンであり、同時に聖職名たちの華である。
普通のいわゆる宣教師ではないが、常にその身辺に宗教を携行しているとでも言おうか。
内村氏は率先して日本人のために尽くした。
新婦は、旧姓は浅田といい、横浜の、ミス・ブリテソの生徒で、やはりクリスチャンである。
きっと、幸福なクリスチャンの家庭を築くことだろう。
追記.……この八ヶ月後、内村氏はこの浅田タケさんと離婚なさった。


1884年4月4日 金曜
昨年11月に妹のアディが始めた“セイショノトモ”という聖書読書連合の大会が昨夜開かれた。
場所は築地に近い、京橋二丁目にある明治会堂で、千名以上収容する建物だが満員どころか、いろいろな人でごったがえしていた。
しかしその大部分は会員で、出席するために何マイルも遠方から集まった人たちだ。
会は七時半から始まったが、早々と五時半に来た人もあったそうだ。
津田氏が司会者で、ヴァン・ペッテン夫人が演奏。
五、六校の生徒が出席して、演壇の両側に綺麗に整列し、歌の時にはたいそう役に立っていた。
小崎弘道氏の熱心な祈りによって会が始められた。
次に奥野昌綱氏が聖書について講話し、尊い使徒のような容貌と澄んだ力強い声で、深い印象を与えた。
奥野氏の話を理解するのがむずかしいと思った者は一人もいなかった。
二つか三つ讃美歌を歌ってから、長田氏が聖霊の降臨を願って熱烈な祈りを捧げた。
京都と大阪に、盛んなキリスト教の信仰復興運動が起きているようである。
東京の牧師たちは、毎日会合を開き、東京にも同じ祝福が与えられるようにと祈っている。
長田氏が祈ったように、このような祈りによって多くの祝福が与えられるに違いない。
ルーミス氏は素晴らしい本、聖書について英語で講話をし、ヴァーペック博士は日本語で話をされた。
博士を迎える拍手と、まわりの人たちの博士をほめるひそひそ話を聞げば、どんなにヴァーベック博士が人気があるかがわかる。
次に津田氏は、二十二年間もドイツに滞在していたという宣教師のスコット氏を紹介した。
小崎氏の通訳によってスコット氏は、インドにおける仕事について興味深い話をした。
次に幻灯の余興で、ヨセフの生涯の物語があった。
幻灯板がさし込まれると和田秀豊氏が説明をした。
間に二つの讃美歌が歌われ、聖書の日課の今日の分の映写が入った。
一同は起立して、それを読んだ。
最初は低い男声の詠唱のような調子ではじまり、演壇上にグループ別にならんだ女学生たちの高い声に受けつがれた、なめらかな言葉の流れは、聞いていると、とても美しい。
一同が立って奥野氏の祝福を受げた時には相当遅くなっており、家に帰ったのは十二時近かった。


1884年4月6日
横浜から来た数人の友達と一緒に、許可を得て訪れた印刷局、つまり造幣局で大変楽しい一日を過ごした。
雨天ではあったが、この楽しみは逃すには惜しかったので、私たちは午前九時ごろ大きな建物に着き、丁寧なお役人に案内していただいて一まわりした。
その役人は英語が話せなかったが兄の通訳でよくわかった。
まず広間に案内され、お茶をご馳走になり、上の方に通じる長い階段を上り下りする人々を眺めていた。
従業員の特異な服装が印象的だった。
男の人たちは白いシャツとズボンを着用していたが、女の人たちは西洋と日本のスタイルを合わせたようなスーツを着ていた。
後ろに襞があり、脇の開いた一種の長いスカートと、ゆるみのない袖、腰の形を出している長着で、この上下の組み合わせは大変便利そう。
造幣局の中だけこの服を着ていて、局への往復には自分の服に着替える。
女の人たちは髪を結うことを許されていない。
ひっつめにしているのは髪の中にお金を隠すことがないようにするためだと思われる。


私たちは第一に用紙部へ案内された。
そこでは様々な種類の紙を作っていた――少なくともいろいろな方法で使うための紙を用意していた。
一つの種類は厚い浮き彫りにしたなめし革のようなもので、きれいな模様を押してから金銀箔で覆った非常に豪華な壁紙や強い本の表紙や手提げかばんをつくるものもあった。
「縮らせる」過程がわかって嬉しかった。
それは滑らかな紙を二つの水平の重しの間に置き、機械で締めつけてできあがる。
またこれでクレープ紙に波形を出させる。
機械はたいてい外国製で完全無欠である。
たくさんの請求書の用紙等のほかに切手や紙幣の彫刻は大変興味深かった。
熟練工を必要とする緻密な機械はすばらしかった。
機械のほとんどはドイツ製であったが、一つには「ローデン・ニューアーク N・J」と記されていて私たちはまるで旧友に会った思いがした。
この機械は貨幣のための最も細かい網目細工の仕事をしていた。
貨幣に費される手間と時間はびっくりするほどである。
十セント、つまり一円紙幣の一つ一つの小さい模様のために別々の機械が必要なのだ。
それでも、何もかも非常に規則正しく美しく動いていた。
そしてすべての日本の工員たちも。
何人かの製図工が図案を描いているのを見た。
また何人かの画家が極めて細かい模様を古代絹などから写しているのも見た。
電気メッキも大変興味深かった。
銅板が電槽の中に投げこまれ、すっかり銀色になって出て来るのは素晴らしかった。
造幣局の驚異を全部見学してから、私たちは見事なご馳走の待っている食堂に案内された。
そこでとても愛想のよい別の二人の紳士に紹介された。
案内してくださった方の隣に坐り、この場のために、とっておきの精一杯の日本語で、私の愉快なお相手と色々の面白い会話を交わすことに成功した。


1884年4月14日 月曜
金曜奉仕クラブはとても楽しい行事である。
二時頃集まって夕方まで仕事をしたり、読書やおしゃべりをする。
時には習慣や家庭管理についてかなりよい議論もする。
先週の金曜日はキリスト教について大変活発な討論をした。
信者でない吉原夫人は反対論を、信者である小鹿島夫人こと、おふでさんは賛成の意見を述べた。
「子供の時から聖書を教えることは若い人たちを狭量にするものですわ」
吉原夫人ははそう述べられた。
夫人は人生を始めるのに偏らない心を持つことがよいと信じている。
その上でこうも仰った。
キリスト教信者になった人々は、服従すべき両親に従わず、聖書の「まず神に従え」という言葉に従い、親に服従することをきっぱり拒むという話を何例も聞いていますわ」
吉原夫人を納得させるような議論のできる人がいたらと、どれほど願ったことであろうか。
でも私はただ吉原夫人のために祈り、これだけは反論した。
「聖書は親への服従をきびしく教えている」
実際それは契約についての第一の戒律なのである。
吉原夫人はそれから、こうも仰った。
キリスト教、仏教、神道の三つの宗教には違いは見られませんわ。子供はどの宗教で育てられても変わりはないものです」。
そこで私はキリスト教が婦人たちのためにしたことを指摘し、非キリスト教国の婦人たちの状態と比較した。
お気の毒に、どうしたらあの方に、知らずしては幸福になりえない真理を悟れるようにしてあげられるであろうか。


1884年4月17日
ちょうど一年。信じられない。その間、私は母なしで生きて来た。
でも私は今ここにいる。
自然は、母がここにいて私と一緒ににそれを見て楽しんだ時と同じたたずまいを見せている。
私たち――アディと私は今朝五時半にお墓に花をまきに行った。
梅太郎はそこに数本の芍薬を植えてくれた。
私は数本の楓の木を植えておいた。
勝夫人は花の枝をもって朝行かれた。
内田夫人とほかの人たちは午後私たちと一緒に行き、そこで祈祷会を開いた。
とてもおごそかな一目であった。
私はもう一度すべてを思い返している。
ここ三日三晩、私はただ母のことのみを考え夢を見た。
私の大切な太切な美しいお母様。
母に会いたいと思う心は別離の時間が長くなればなるほど強くなって行く。
おお神様、あなたの大きなお恵みで、私か母に会うにふさわしい人になるまで私を死なせないでください。
神よ、私のあわれな魂をお救いください。
アーメン。