Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「帰ってきたクララの明治日記 超訳版」第13回をお送りします。
なお前シリーズの過去ログは、以下のように収納しております。
今週はクララと明治天皇の対面シーンが!!
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分明治10年8月分明治10年9月分明治10年11月分明治10年12月分明治11年1月分明治11年2月分明治11年3月分明治11年4月分明治11年5月分明治11年6月分明治11年7月分明治11年8月分明治11年9月分明治11年10月分明治11年11月分明治11年12月分明治12年1月分明治12年2月分明治12年3月分明治12年4月分明治12年5月分明治12年6月分明治12年7月分明治12年8月分明治12年9月分明治12年10月分明治12年11月分明治12年12月分明治13年1月分明治15年11月分明治16年1月分明治16年2月分明治16年4月分明治16年5月分明治16年6月分明治16年8月分明治16年11月分明治16年12月分明治17年1月分明治17年2月分明治17年4月分


1884年4月25日
今日初めて日本の天皇様にお目にかかった。
天皇陛下が外交団と日本の華族の方々をお浜御殿へ観桜と昼食に招待された。
一時半に御殿に向けて出発し、ほどよい時間に到着した。
化粧室に案内され、そこで待ちかまえていた宮廷に仕える三人の美しい女性が、私の毛皮のケープ、パラソル、手袋を預かり、衣服にブラシをかけてくれた。
間もなくビンガム夫人、ワッソン夫人、ビンガム嬢とラッシュ夫人が到着し、一緒に御殿の部屋に行き、私たちの一行全員が着いたと思われる時まで、しばらく立って美しい家具や掛け軸などを拝見していた。
わが国の公使は外交団長なので、ほかの代表全員を先導することになっており、その通りなさった。
ビンガム夫人はご主人の腕にすがり、ワッソン夫人と海軍のマッド氏、ビンガム嬢と海軍軍医、ウィリィと私、それにカワード氏が続いた。
私たちの後ろにはフランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ロシア、清国の外交団が続き、制服や婦人たちのお国風の装束や美しい服装で華やいでいた。
私たちは池のほとりの木の下で打ち興じていた日本の地位の高い方々に加わり、そこで多くの高位の人々に紹介された。
ビンガム夫妻は本当に親切だった。
機を逸せずに私を最も愉快な方々に紹介してくださった。
「このお嬢さんは私たちの仲間です。私たちの公使館の人です」
公使は私を紹介してくださるのであった。
このようにして私は清国公使、オーストリア公使、ハワイ公使、鍋島直大元老院議官そのほかの方々にお会いした。
徳川様と随員の方にもお会いしたし、イギリスから帰国されたばかりの森夫人とも楽しいおしゃべりをした。
森夫人は昔とちっとも変わらず美しい。
輝く目に涙を浮かべ、深い感情を込めた声で母のことを話された。
そして私はあの華やかな場面の中でも母のことが忘れられなかった。
天国の交わりを楽しみ、王の王なる神をその栄光の中に見つつ天国の庭を歩いている母を思った。
私の着ているこの服も母を思い出させた。
一緒にロンドンのトテナム・コート・ロードのダンカン・スミス店で買ったものだ。
大変豪華で、当時の私にはやや不釣合であったげれど。
でも母は言った。
「クララ、買っておくことをすすめますよ。今は使うことはできないかもしれないけれど、日本で園遊会に行くようなことがあったら丁度いいでしょう」
母の先を見通す深慮は、この可能性を見ていたのであった。
おお、大切なお母様!
もし母の誕生日を私がどのように過ごしたかを知られたら……。
さて、私たちは間もなく散歩道をもう一まわり歩き、美しい濯本や桜の花を観賞し、一緒になったどなたとも楽しい会話を交わした。
皆さん私にはとても親切だったが全てはビンガム夫人の親切な庇護によることは私にはよくわかっていた。


公使が冗談めかしておっしやったように、一時間以上も「うろついた」後、ついに私たちは再びお池の近くに呼ばれた。
陛下と皇后様がお越しになるので一列に並ぶように言われた。
外交団は直ちに随員と共に砂利道の片側に、招待客は反対側に並んだ。
私たちのグループが最初に来て、それからドイツ、フランス等の人々が皆並んだ。
輝やかしい皇室の行列が近づいた。
先頭にフランスの軍服を召した天皇様が歩まれた。
最初天皇様とはわからなかったが、写真から想像していたより、ずっとご立派に見えた。
背丈は約五フィート八インチか、多分もう少し低いかもしれない。
お顔の色は明るいオリーブ色でやや重厚なお顔立ち。
お顔には小さい山羊ひげと口ひげがあり、快活で温和な表情をしておられた。
陛下は公使とその夫人たちと握手をされ、通訳を通して彼らの礼儀正しい言葉を聞かれると優雅に頭を下げ、微笑された。
ドイツの伯爵夫人にお手を差し出されると、夫人は急に身をかがめて礼をし、片方の膝、が地面についてしまった。
陛下がお目の前にふわふわした絹のレースをご覧になった時、その温顔に半ば面白がっておられるような、半ば当惑されていらっしゃるような表情が見えた。
次に皇后様が、美しい錦の長着を召して来られた。
外側はたくさんの豪華な模様のついた濃い美しい水色の緞子で、赤い緋袴と真っ白な内着を召され、お靴をはいて、豪華な刺繍と深い縁飾りがある美しいフランス式パラソルをお持ちになっておられた。
皇后様はお小さかった。
とても小さく、華奢で、高貴な貴族的顔立ちと、豊かな下唇をお持ちであった。
儀式の時の慣例に従って厚化粧をされ、御髪は独得の平たい宮廷様式で、油を十分つけ、束ねて長くうしろに下げておられた。
皇后陛下も握手され、公使たちの慇懃な挨拶に応えて、愛想の良いお言葉を返された。
女官たちも、鮮やかな藤紫、緋、緑、水色等の衣服を身につけていた。
ビンガム夫人があまり疲れて、ほかの方々のように華やかな行列に加わることができなかったので、ビンガム氏は夫人と私を、茶菓が用意されてある近くの天幕に連れて行ってくださった。
ここで私たちはお行列の先頭が築山をまわって現われるまで待っていた。
素晴らしい光景であった。
堂々とした陛下のお姿、宮廷の婦人たちの華やかな衣装、外国公使夫人方の目立つ軽やかなパリ仕立の洋服、館員夫人たちのねずみ色や山鳩色の比較的地味な衣装、清国公使館の人々の鮮やかな絵のような服装――そのすべては私の心に決して忘れ得ぬ印象を残した。
天皇陛下が天幕に入られると、孤立していた私たち三人は立ち上がって深いお辞儀をした。
また皇后様にもした。
それから皆に続いて入り、すばらしい昼食をご馳走になった。
婦人たちは坐り、紳土方は珍味の並んだ食卓から気前よく婦人方に食物をとってあげた。
私の知人の日本の紳土方がまわりに来て、私たちは愉快な時を過ごした。
しかし、ビンガム嬢が提督にもっとケーキを持って来ることを命じたり、お皿をどけるようにと貴族某に命じたり、公使にレモネードを要求したりしているのを見て、婦人に仕えるのとは逆に、仕えられることにのみ慣れている日本の紳土方はどんなに奇妙に思ったことであろう。
しかし日本の男性方にとってかえってよかった。
ラッシュ夫人ははっきりと、日本の紳土方は申し分なく魅力的だと言っておられた。
皇室のご一行が天幕からご退出ののち、私たちは後からゆっくり、自分たちの乗り物まで行き、とても楽しい気分で家路を急いだ。
帰宅すると、お逸と吉原夫人が待っていらっしやった。
その上に泊まりがけのヴァン・ペッテン夫人もおいでになった。
あしたはまた郵便日で、書かなげればならない手紙がたくさんある。
この前の手紙によれば、モリスタウソのウィルおじさまが急死なさったそうだ。
長生きの家系の出なのに。
お気の毒なリビーおばさまのことが案じられる。


1884年5月6日 火曜
今日は、キリスト教信者の尾崎夫人<従五位の方の夫人>のお宅での婦人祈祷会に内田夫人とご一緒した。
「幸町」と言うのが渡された住所で、かなり探して、幸通りを見つけた。
とうとう家探しに成功して、つつましいお住まいの玄関に立った。
たくさんの女性たちの声のざわめきが聞こえていた。
玄関は下駄で一杯。
虎ノ門教会の和田牧師とこの家の主婦にお目にかかったが、この方は内村氏の結婚式にお仲人をなさった方だ。
中に入ると、立派なオルガンがいつでも使えるように置かれている広間があった。
隣接する二つの部屋にはあらゆる年齢層の婦人たちが、お茶を飲んだり、長いキセルで煙草をすったり、誠に社交的な態度でおしゃべりをしていた。
私たちは一つの部屋の仲間の間に座を占め、部屋のまわりのお花や骨董を観賞した。
その部屋はあちこちに優美な小物を置いて、やや西洋風に装飾されていた。
私は婦人たちが部屋のまわりに着席した時に、皆が注意深く、入口の反対側を避けるのに気がついた。
やがてそこが“トコノマ”すなわち上座であることがわかった。
誰も入口の近くの末座に坐ろうとしていた。
「さあ、オバーサン、あそこに坐ってくださいませんか」
尾崎夫人はいくらそこに人を坐らせようとしても、なかなかうまくいかないので、一番年上の婦人におっしゃった。
「とんでもない。ここが大変坐り心地がよろしゅうございます」
そのオバーサンは敷居の上に坐って答えた。
尾崎夫人は笑って、仰った。
「どうしてどなたもあそこに坐ってくがさらないのでしょう」
「ほんとにね。オバーサンがあそこに坐ってくださらなくっては。この中で一番お年上ですもの」
一人の婦人が言った。
「オバーサンの聖書をここに置きましょう。そうすれば、ここに来なげれば取れませんもの」
尾崎夫人は聖書を置きながらこうおっしゃった。
「そうよ。そうよ。オバーサンはあそこに坐らなければいけないわ」
数人が口をそろえて言った。
「その席にはお若い美しい方々がお坐りになったほうが良いでしょう。私のような年寄りは人目につかないところにいなければなりません」
オバーサンは笑って下座にしがみついていた。
尾崎夫人は絶望してあきらめ、次の人が着くのを待った。
その人は前の愉快ないきさつをまったく知らずに誰も坐らない席に着き、一同の顔に微笑が浮かんだ。
しかしオバーサンは遂に最上席の次の座に坐らされた。
今井夫人と二人のお嬢さんを除いて全員が到着したが、今井夫人は祈祷と提案には頼りになる人物であったので、集まった一同は丸一時間待ってその間写真に興じていた。
ようやく遅刻の方が到着。
十五人から二十人の一人一人とお辞儀をして、始める準備ができた。
「今日の司会は笠原さんの番ですわ」
今井夫人は一同が落ち着くとおっしやった。
「まあ、それは駄目ですわ」
桜色の丸顔の若い婦人が急いで叫んだ。
「とてもとても今井様やそのほかのこんな頭の良い方々の前でとても司会など務まりませんわ。どうぞお許しください。心構えをしておりませんもの。今日は和田夫人が司会をなさるべきだと思います」
「それは駄目です」
大きな赤ちゃんをあやしていた和田夫人が叫んだ。
「私は無知な田舎者でございますから」
「それでは尾崎夫人が司会なさるべきです。私たちはお宅に集まっているのですから」
「皆様、お許し願いとうございます。ご存じのとおり、私にこんな集会に出たことがございません。どのように会をすすめていったらよいのかまったくわかりません」
尾崎夫人は青ざめておっしゃった。
「では私たちがお教えいたします」と一人が言った。
尾崎夫人は不愉快な顔をなさり始めたので、一同は、ふたたび笠原夫人に向かった。
笠原夫人は、本当は最初から司会することを期待していたにちがいないのだが、しぶしぶ司会を引き受け、何度も途中で、「このようでよろしいのでしょうか」「間違っておりませんでしょうか」とたずねた。
私はオルガンを弾いた。
それから司会者が祈り、そのあと、ルカ伝第四章を読んだ。
次に一まわり祈祷が続き、ふたたび歌ってから、和田牧師の日課についての講話があり、そのあとで茶菓が運び込まれ、ふたたび四方山の話になった。
お客様はそれぞれ山盛りの五目寿司をいただいたが、五、六さじで十分おなかがいっぱいになる。
何人かは紙に包んで袂に入れた。
内田夫人は、私にもそうするようすすめられた。
でも私には入れる袂がない。
家に着いだのはまさに六時であった。


1884年5月8日 木曜
お気の毒に小鹿さんは、時に生命をおびやかすようなひどい発作を数回起こされている。
お気の毒な方。
発作と、その間のひどい苦しみを絶えず恐れて、人生に楽しみをほとんど持つこともできない。
兄がほとんど毎夜ついて差しあげている。
お気の毒なあの方をお慰めできるのは、兄が一緒にいて差しあげることだけである。
勝氏のご親切にこのようにして報いられるのはとても嬉しい。
そして勝ご夫妻も、私たちのして差しあげられる小さな助力を深く感謝してくださっているように思われる。
発作が治まるとアメリカの食物を欲しがられるので、小鹿さんの奥様が、作り方を習いに来られる。
日本のお医者様は小鹿さんを見放しているが、ヘルツ医師と兄は治ると考えている。
内田夫人は忠実な看護婦だ。
小鹿さんは常々「ウチダノネーサンは一番親切だ」と言っている。
内田夫人は先日、私にそうおっしやってから付け加えて、次のように言われた。
「でもこんなに褒められても、私は得意には思いません。
ただ、キリスト教の功徳を弟に示したいのです。
私は神様の私への大きなあわれみと親切を思い、その同じあわれみと親切を弟に対して持ちたいと思います。
弟がこのことに気づいてくれたのを嬉しく思い、それが弟をよりよい方に導いてくれることを願っています」
内田夫人は強い、頼りになる方で、日本の貴族の家族より、むしろアメリカ人の農家に見かけられるある種の不屈の良識を備えておられる。


今日は午前中数人の旧友と楽しい時を過ごした。
小鹿島夫人となったおふでさんが、友達の一行といっしょに芍薬が盛りの芝公園ヘピクニックに行こうとさそってくださったのだ。
庭園まで歩き、花を観賞してから庭園内の東屋に入り、おふでさん手製のお弁当をいただいたが、どれも日本料理で大変おいしかった。
一重ねの漆の重箱に入れたのを一人の使用人が背負って来たのだ。
食事の後、私たち五人は坐って話した。
日本婦人の状態とか、早婚とか、人前での態度とかを、外国婦人と比較して論じた。
慈善病院のためのバザーについて話し合い、大体において不賛成たった。
「日本の貧しい女性たちを永続的に助けられるものなら、私は着物を売り、裸でいるのですが」
おふでさんが言った。
「あの人たちは怠け者で無知です。教育が必要です。しかし、今私が一生懸命働いていることは、ただ少数の人に、一時的に役に立つだけです」
工芸学校の問題が徹底的に論じられた。
私はそれが何か素晴らしい結果になることを希望している。
吉原夫人のよい面が発揮されたのだ。
十分に有能な方なのだからおっしゃるとおり、貧しい日本女性のために工芸学校を創立なさることを希望する。
このような仕事は、自分だけの安楽な生活をし、この企画のために時間とお金を与える余裕のある有閑婦人方にどんなに貴重な影響を与えることであろう。
もちろん現在のところではキリスト教があの方々の仕事に入り込むことはないであろうが、その無言の力と影響が根底にあることを私は知っている。
どうぞ神様がその導き手であられますように。