Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「帰ってきたクララの明治日記 超訳版」第14回をお送りします。
なお前シリーズの過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分明治10年8月分明治10年9月分明治10年11月分明治10年12月分明治11年1月分明治11年2月分明治11年3月分明治11年4月分明治11年5月分明治11年6月分明治11年7月分明治11年8月分明治11年9月分明治11年10月分明治11年11月分明治11年12月分明治12年1月分明治12年2月分明治12年3月分明治12年4月分明治12年5月分明治12年6月分明治12年7月分明治12年8月分明治12年9月分明治12年10月分明治12年11月分明治12年12月分明治13年1月分明治15年11月分明治16年1月分明治16年2月分明治16年4月分明治16年5月分明治16年6月分明治16年8月分明治16年11月分明治16年12月分明治17年1月分明治17年2月分明治17年4月分明治17年5月分


1884年7月(日付不詳)
先月の6月12日から14日にかけて開催した日本初の慈善バザーは成功をおさめた。
精力的な日本の婦人方は品物を売って、総額一万円の純益をあげた。
私はヘップバン夫人と一緒に鹿鳴館へ行った。
そしてこの珍しい催しの大成功を大変うれしく思った。
ほとんど全てのテーブルで私は係の日本の婦人方の中に親しい顔を見かけた。
価格は勿論おかしいくらい高かった。そして騙されたとこぼしている人も多かった。
でも全体としては楽しい行事だった。
アディと私は先週火曜日、坂部夫人のお宅でのとても面白い集まりに出席した。
坂部夫人は長田夫人の祈祷会の一員で、三年間ご主人と神戸に行かれる。
私はあの方は箪笥町あたりの貧しい婦人の一人と思っていたので、丘の上の美しい小さな家に住んで、なかなかの古物蒐集家であることを知ってちょっと驚いた。
そこに着くと長田牧師を始め数人の牧師さんがいた。
坂部夫人は、私たちに綺麗な家を全部案内してくださり、最後に二階にまでつれて行ってくださったが、間もなくそこへ東京の宗教界で有名な人たちを含む日本婦人たちの一団が入ってきた。
裕福な未亡人で、石の教会を建てた粟津夫人は、この上もなく愛らしい赤ちゃんを抱いた、まだ少女のような顔つきのやさしい婦人をつれて来られた。
周りにぐるっと坐っていた婦人たちは、茶菓が行き渡る間、赤ちゃんたちを比べたり、楽しげにおしゃべりをしたりしていた。
私たちはお祈りをしたり、そのあとで賛美歌を歌ったりした。
この人たちの交わりの中に、ごく自然に宗教的要素と社交的要素が混じりあっている有様を見て、大変うれしく思った。
あの人たちは祈祷会に来ても、かたくもならず束縛もされていなかった。
懇親会のために父の屋根の下に集まった兄弟、姉妹の家族のようであった。非常に敬虔で、しかも陽気になり過ぎない快活さであった。
おふでさんは、長崎にあるご主人の家に行くことになって、私か淋しがるだろうと気の毒がっている。
お逸さんは約五マイル離れた小石川の白山に越して行った。


お気の毒に、小鹿さんの奥様であるおたてさんは死の床にある。
医師の技術でも手に負えぬ併発症に取りつかれ、美しい体を完全に損って、死を待つばかりである。
私はあの方のことが大変心にかかっていた。
と言うのはおたてさんは主イエス・キリストについて聞き、聖書を毎朝読んでいらっしゃるけれど、知識は皮相的で、この世のかなたにある、もっと輝かしい、もっとよい生活についてはほとんどご存じないのではないかと思う。
内田夫人と疋田夫人にそのことを話したら、二人とも心配はしていたけれど、誰もすすんでおたてさんに話す人はいなかった。
もし私が口を切ったら二人も続いて何か言おうということになった。
そこである夜出かけたが、部屋は人が一杯で、その中には、私かまだお会いしたことのない、おたてさんの妹さんのおなつさんもみえていた。
私は何かいうことを考えようとしたが、舌がこわばって動かなかった。
しかし、やがて一人ずつ部屋から出て行き、とうとう内田夫人と私だけが残った。今こそ好機到来と思い、おだてさんの手を取った。
「おたてさん、お具合が悪くてほんとにいけませんね。とてもあなたをお助けしたく思います。あなたのために毎日お祈りしています」
「ありがとう。ほんとに親切にしてくださいました。でも私はとても病が重いのです」
「でもお一人だげあなたをお助けできる方があります。それぱ大変やさしく愛に満ちた私たちの主イエス・キリストです。そして私は、あなたがキリストをお信じになるようのぞみます。
とても易しいことなのです。どうぞ信じてください。キリストはあなたに、この世と、それから次の世のために、ほんとうのなぐさめをくださいます」
「ありがとう。私は聖書がとてもよいことを知っています。でもそれを理解することができません。とても頭が悪いものですから」
明らかに私の熱意に心動かされておたてさんは答えた。
「私たちの中で最も賢い人だって、聖霊の助けなしには聖書を理解することはできません。
しかし聖書の中には、あなたもおわかりになるような多くの慰めになる章句があります。内田さんにそれを読んでいただいてはいかが」
「喜んで。お姉様、いつか読んでくださいますか」
内田夫人は喜んで約束なさった。そしてその後もそうしていらっしゃることと思う。
皆さんが戻って来られたので「お休みなさい」を言った。
 そのとき、勝夫人は戸の外で聞いておられたが、こう仰った。
「ありがとう。また来て、気の毒なおたてに福音について話してあげて頂戴」
次の日おたてさんは大変元気が出たので、話をすることが助けになったのだと考えて、もう一度私を迎えによこした。
しかし私は丁度悩み事のあった津田梅子さんと一緒に祈っていたので、後になるまでそのことを知らなかった。
その時以来おたてさんと話すことはできない。
あまりに病が重く、弱っておられるので疲れるといけないから話はできない。
もっとも私たちはおたてさんの前で宗教的な会話はしていたけれど。
神は時折私たちを道具としてお使いになることはあるけれど、私たちの助けがなくとも神ご自身はあの方をお救いになれる。
しかし私は誠実さに欠けていたと感じる。
そしてもっともっと多くのことをおたてさんのためにしてあげられたらよかったのにと思う。


私は先月、九鬼隆一夫人に紹介された。
特命全権公使のご主人と一緒にアメリカに行かれるので、衣装をすっかり見てあげるように頼まれた。
来月出発されるので、このため大変忙しくなった。
まだしなければならないことがたくさんある。
すでに一回横浜に行って来た。公使と二人の紳士と九鬼夫人とご一緒に滑稽な時をすごした。
価格のことなど考えないで、左右手当たり次第にあらゆる種類の美しい物、腕輪や宝石類に至るまであつらえるのはまったく贅沢であった。
でも私は本当に楽しかった。
長時間にわたる興奮と心配でやや疲れはしたけれど。
九鬼夫人の衣装の準備は進行したが、今日はアメリカに同行される予定の、ある大名の若い令嬢を連れて来られ、その人にも服装の用意を手伝ってあげるよう頼まれた。


1884年7月17日 木曜
昨日の午後、エマ・ヴァーペックを訪れて帰ると、突然勝夫人から迎えがあった。
使者の言伝でおたてさんが亡くなったと思い、急いで行き、目を真っ赤にした勝手働きの女中に迎えられて、小鹿さんの前に案内された。
小鹿さんは火鉢のそばに坐り、やはり泣いておられた。
もう一方の部屋に行くように言われ、そこへ勝夫人が私を迎えに出て来られた。
やさしい老いた顔に悲しみをみなぎらせておられたので、私はお手を取り、やっと泣き出した。しばらくの間私といっしょに泣かれてから、「まだ息があるのですよ」とささやかれた。そして私を病室に導かれた。
そこには家の者が皆集まり、激しく泣いたり、すすり泣きしながらこの臨終の婦人を見守っていた。
病人はフトンの上に横たわり、空気枕から頭を半分落として、せわしく不規則な呼吸をし、時々ゆるんだ痰が咽頭でカラカラ音をたてていた。
彼女の忠実な看護婦はそばに坐り、時折唇をぬらしてあげていた。
大名の桜井忠興氏とその奥方、令嬢と令息は心配そうに円形を作り、青ざめた顔の表情の変化を一つも洩らさじとじっと見守っていた。
父君桜井氏は輪郭のはっきりした顔立ちで、大きな黒い目をして若々しく見えたが、坐ってキセルをくゆらし、心配を見せまいとしておられた。
しかしおなつさんのやさしい目は涙でいっぱいであった。
桜井家の主席家老はお床の頭の方に坐り、おたてさんの脈をとっていた。医者の経験があったのだ。
おきく、およね、おゆき、おとよ、おきん、おかね、おいとたちは戸の近くに座り、ご用があれば何でもとかまえていた。
一方、内田夫人はお床の上に坐って妹の頭を支えておられた。
その他の人は、オシショウさん、岡田夫人、疋田夫人と七郎で、半開きの戸口からは時々通りかかる人の顔が見えていた。
七太郎であったり、神山であったり、長次、梅太郎、時には勝氏ご自身であったりした。
勝氏は落ち着きを失った亡霊のように、心配を抑え切れず、うろうろしておられた。
私は二時間の間、内田夫人とお床に伏している方を団扇で扇いであげたりした後、呼ばれて外に出た。
病人はその夜九時に、兄がおそばにいる間に静かにこの世を去られ、この世で見られたどんな朝よりももっと輝かしい朝に目覚められたことであろう。


私たちは、たしかにおたてさんは救いを受けられたと信じている。
なぜならば、意識のある間に、最後になさったことはイエス様への信仰の確認であった。
兄は疋田夫人に、二、三日前に、多分もう間もなくそうする機会がなくなるだろうと思われるので、おたてさんに話をしたほうがよいと申し上げた。
疋田夫人はお話しになったが、おたてさんが何とおっしゃったかは知らない。
ただ次に兄が行った時、おたてさんはイエス様のお話をもっと聞かせてほしいと言われた。
そこで兄がやさしい単純なお話をし、終わって一緒にお祈りをした時、おたてさんはこう仰った。
「私はこのようなことを信じます。私はキリスト教信者です」
すぐあと意識がなくなり、そのまままったく意識を失ってしまわれた。
満二十歳だった。
葬儀は明日行なわれる。
そして勝夫人はアディと私に、一緒の馬車でいらっしゃいとおっしゃった。
お邸は今日は人で溢れている。
小鹿さんは例のひどい発作におそわれ、今日もすでに三回発作が起きている。
皆さんの苦労と心配には終わりがないようだ。
このままでは、二重の葬式になりかねない。
お気の毒に勝夫人は心配と忙しさでご自身ほとんど病気になりそうだ。
弔問に訪れるすべての人にお会いにならなければならないし、度を越した日本流のお悔みやなぐさめをお聞きにならなければならない。
キリスト教式告別式をしようという案もあったが、桜井家が仏教であるので強く反対され、儀式は仏教によって行なわれる。
このヤシキではこの一年半の間に五回目の不幸である。


1884年7月18日 金曜
今朝は五時半に起きて、おたてさんの葬儀のための準備をしていた。
兄は一晩中、勝邸に留まった。
昨日小鹿さんがひどい持病を起こして、しばらくはもうだめかと思われたからであった。
私たちはこの親切な友人たちのために本当に同情の念を禁じ得ない。まるで邸内に一人の死者があるだけでは足りないように、もう一人が瀕死の状態にあるとは……。
人々が家に群がっていた。友人や親戚や従者たちが。
僧たちが一室で死者のために経文を唱えている一方、隣室では医者たちが、一つの尊い生命を救うために医術の及ぶ限りの努力を傾けていた。
その混雑と騒音は恐ろしいばかりで、誰でも気分が悪くなるほどであった。
クレッカー夫人と、あと二人のクリスチャンの友人が夕方訪れて、アディと私に加わり、小鹿さんの命をお助けくださるよう熱心に祈った。
小鹿さんは今日は少し良くなったが、今朝おたてさんが、かつて美しい花嫁として入った入口を箱に入って出られた時、最後の別れをするために、数人の女中たちに支えられ、お床からよろめき出た時の顔色はまさに死に神そのもののようだった。
そんなに青く、弱々しく、やつれ果てて。


六時半頃、勝夫人は私たちを迎えに人を寄こされた。
行ってみると大勢の人が忙しく右往左往していた。
勝氏でさえ、引きこもっていらしたところから出て来られた。
そして時々、普段着のままで現われ、哲人のように、これらすべての変化に堪えておられた。
勝氏は特にアディの背が高くなったことに驚かれ、姉より背が高くなったと云われた。
やがて私たちは家の正面に案内されたが、そこには馬車が待っていた。
アディと私は七郎と一緒に乗った。
行列の人数は約千人だと七郎が言った。私たちは桜井家の後に続いた。
勝夫人はご子息とともに後に残られた。
小鹿さんの代理で、喪主をつとめるお逸の旦那様、目賀田種太郎氏を除いては、内田夫人、梅太郎、七郎の三人だけが勝家を代表した。
墓地に着くと、仮小屋が作られていて、九人の憎が誰も理解できない言葉で、無意味な法要を行なっていた。
次に皆新しいホトケ、死者の霊に焼香をするよううながされた。
内田夫人や、梅太郎まで焼香に行かれるのを見て残念に思ったが、確かにこの二人はお祈りをしながら行かれたことを私は知っている。
神のみが彼らを裁く方である。
私も数回乞われたが、ただ理由を説明して断った。
それは死者への愛と尊敬がなかったからではない。
お気の毒に今あの方は、このような無益な儀式をどんなに悲しく見ておられることであろう。
火葬にしないで、普通の棺桶とは違う、長い箱に納められて、私たちの愛する母のお墓のちょうど反対側の地下に埋葬された。
勝夫人は母の近くでよかったと言われた。
私たちは僧の読経のうちにお棺が地中におろされるのを見た。
それから、こまつとアディと私はうちの墓地へ行き、亡くなった二人のことを話しながら、長い間泣いた。
そしてこの二人の天国での最高の喜びについて話し合った。
アディと私は、赤坂の緑の小路を通って歩いて家に帰った。七郎は私たちといっしょでなくても大丈夫だと思ったので。
ずっと近道をして誰よりも先に家に着いた。
大きな門を入り、勝氏のお家に行き奥様に挨拶し、小鹿さんのご様子をうかがった。
しかし私たちが姿を現わし、うちに入るために靴を脱いでいると、おゆきとおきくが走り出てきて私たちを止めた。
そして入口の段のところで私たちの方へ塩をまいた。
あとで、それは他の不幸を防ぎ、葬式に行って来た人を清めるためのものであることを知った。
また葬式が家を出る時、家を掃き清め入口の段にすっかり塩をまくのが習慣とも聞いた。
悲しい日であった。
どうぞ神様、勝家にこのような日が再び来るのはずっと先のことでありますように。
このお祈りをおききくださいませ。
奥に若奥様のおたてさんがいらっしゃらないのは、本当とは思えない。
ああ、あそこへ行ってあの方のおだやかなお顔や、やさしい微笑を見たり、大きなやわらかい真剣な目をのぞきこんだりできないなんて、どうして考えられよう。
またおたてさんは私の言うことをとてもよくわかってくださった。
私が不完全な日本語を話しても、あのお家の誰よりもよく、その意味を理解してくださった。
ああ、私の姉妹であり、友であった方。
どんなにこれから淋しいことでしょう。
よみがえりの時が来て、愛する母と並んで、立ち上がる時まで、神があなたの肉体にあの静かなお墓で休息を与え給え。
そしてあなたの魂を、天国における完全なる祝福の中に迎え入れ給わらんことを。
さようなら、やさしい友よ。
安らかに憩いませ。