Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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脱稿。現在朝の4時52分。もう少しラノベ読者向けのエピローグになるはずが、時間がなくなるにつれて「地金」が出て「本格歴史SF」の方に走ってしまい orz。中学時代の愛読書が小松左京先生や眉村宅先生の本格SFなので「三つ子の魂百まで」というヤツですね。これでは一次通過も厳しいかも。来年こそエンタメを書こう、エンタメを。
でもやっぱり舞台は現代学園物でも異世界ファンタジーでもなく、明治初頭orz。日本SF新人賞でも、角川スニーカー大賞でも、去年の電撃でも、みんな一次通過したのはこのニッチなジャンルだけ。正直マトモな作品はこれしか書けないです、はい。いくらきのこ先生や虚淵先生が好きでも「好き」と「書ける」はどうやら全く次元が異なることのようでして。何処かから山田風太郎先生の明治物に匹敵する書き手が出てきて、時ならぬ明治初頭ブームになってくれないかなあ。。。
ちなみに応募の作品番号が8000番台なのですが、これってweb応募始めてからの<総計>ですよね? じゃなかったら、とてもじゃありませんが、生き残れる予感がしません。。。
さて、もう寝る時間を逸したので出勤まで「艦これ」のデイリー任務やってまーす。本更新はいつも通り夜になります。
<追記>
一日仕事を終えても頭が凄い勢いでまだブン回っているので、次回作に登場させようか微妙な立ち位置にいる実在した人物について紹介をしましょう。
彼の名前は目賀田種太郎。この名前だけでピンとくる方は、勝海舟マニアか、専修大学の卒業生(創始者の一人だから)か、余程ディープな「特定アジア」マニアだけでしょう。
まず何故勝海舟マニアならば知っているのかと云えば、彼は海舟の三女逸子の婿だからです。つまり義理の息子ですね。勝逸子の結婚前に関しては詳細な記録が残っていて、何故かと云えば一橋大学の前身、東京商法講習所の講師を務めていたお雇い外国人の娘、クララ・ホイットニーの日記に毎日のように登場するからです。
このクララ・ホイットニーの日記が何故日本語に翻訳され現代の我々が普通に読むことができるかと云えば、クララが海舟の三男、梶梅太郎(海舟の長崎時代の妾さんとの子)と結婚し、後にアメリカに移り住んだ二人の子孫がクララの残した日記を大切に保管し続け、第二次大戦後に来日した際、海舟の次女孝子の子孫たちに日記を託し、翻訳されたからです(自分の手元には日本語版は勿論、英語版とフランス語版まであります)。
つまり、逸子とクララは親友でもあり、義理の姉妹でもあったわけです。
さて、そのクララの日記を紐解くと、逸子の縁談に関する話が何度となく登場します。
この逸子もまた梅太郎同様、正妻たみの子供ではなく、妾さんの子供でありましたが、勝邸で幼少期から過ごしており、クララも出会って数年の間は、逸子を普通に海舟とたみとの間の子だと思い込んでいたことが日記から分かります。
海舟には逸子の上に、正妻たみとの間の子供三人いましたが、長男はアメリカの陸軍学校に私費留学中、二人の姉は幕末に既に旗本の家に嫁入りしており、明治になって以降、海舟の娘で最初に結婚適齢期に入ったのがこの逸子でした。
という訳で、逸子に対しては当時かなりの数の大名家が縁談を申し込んでいたことがクララの日記を通して分かります。
ありていに云えば、明治政府でも参議の地位にあった海舟との結びつきを深めようとしていた大名家がいかに多かったかということですが、海舟はどの大名家からの申し出も受け入れ入れませんでした。
クララの日記を読む限り、逸子自身が結婚より、クララたちとの楽しい日常を優先していた(実際に逸子が結婚したのもクララが数年の間、日本を離れている間)こともあるようですが、幕府の幕を引く役目を引き受けた海舟としては、おいそれと自分の娘をあからさまに地位目当ての大名家に嫁がせるわけにはいかなかったのでしょう。
実際逸子は海舟から「あまり目立たないように」と云われていたようで、そのことに関する愚痴もクララの日記には出てきます。そんな海舟が逸子の婿に選んだのが、旧幕臣の家系の出身である目賀田種太郎でした。
海舟が選んだのだから、さぞ質実剛健な人物を選んだのであろうと思われるでしょうが、これが全然そうでもないところが面白いところで、剣の腕でも一流だった義父とは違い、種太郎本人は旗本出身にもかかわらず、剣術の類は一切やらなかったそうで、しかもその理由が奮っています。
「(剣で殴られると)頭が馬鹿になるから」
こんなことを平然と口にするだけあって、頭脳の方は明晰この上なく、ハーバード大学留学を経て、主に財務官僚として有能さを如何なく発揮し、義父の七光りではなく、実力で上り詰めた結果、最終的に男爵の地位まで得ることになります。
で、種太郎が男爵の地位を得た最大の理由こそが、ディープな「特定アジア」マニアならば彼のことを知っていることに繋がります。
種太郎が辣腕を振るったのは、乱れに乱れきった朝鮮王室の財務体質の改善でした。如何に当時の朝鮮王室の経済運営が無茶苦茶・・・というか、20世紀に入ってもまだまともな貨幣経済がなかったという驚くべき事実は「日本奥地紀行」で知られるイザペラ・バードの「朝鮮紀行」を読めば明白で、どうやら普通の財務官僚ではお手上げだったところに種太郎が乗り込んでいって、かなり強引に改革を施したようです。
で、その結果、朝鮮に貨幣制度を確立し、殖産興業を奨め、道路港湾の改良、金融機関の整備など次々と確立させてしまいます。男爵位はそのご褒美、という感じでしょうか? 
という訳で、海舟が婿に選んだだけあって変人ではあるものの大した人物であったことには間違いないようなのですが、大戦後はその<実績>故に、正当に評価される機会を失ってしまった悲劇の人物とも云えるでしょう。
現在の朝鮮人はほぼ間違いなく彼の存在を忘れているでしょうが、前後の事情を含めて丁寧に教えてやったら、さぞ盛大な火病を発症してくれることでしょう。
ちなみに余談ですが、TBSテレビで放送された幕末タイムスリップ医療ドラマ「仁」が放送されていた当時、同局の宣伝番組「ぴったんこカンカン」に逸子と種太郎のお孫さんが登場。逸子は孫たちにこんなことを伝えていたようです。
「子供のころに坂本竜馬に肩車して遊んでもらったことがある」と。
逸子の生まれと龍馬が勝邸に出入りしていた期間を照らし合わせると、合致する時期が確かにあるので、この話は恐らく事実だと思われます。
ほとほとかように、調べれば調べるほど「創作より事実の方が面白い」という歴史物を書こうとする人間にとってのジレンマでもあったりします、はい。