Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第7回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分
本日分は、クララの周りにいる男性、小野氏と中原氏の話題、そしてクララが日本で初めて迎えるクリスマスの光景を。後に大親友となる勝逸子(勝海舟三女)との初めての邂逅でもありますが。。。


1875年12月11日 土曜日
今朝、朝食の支度をしに下に降りたら、小野氏がいつもの威厳あるサムライの着物とは違う格好で、何かお手伝いをしようと現れた。今日は十一日だから「イチロク」の公休日にあたるのだそうだ。つまり日本では「一と六のつく日、但し三十一日は除く」が、我々でいう日曜日になるらしい。
「今日は暇ですので、是非ケーキを焼く手伝いをしたいのです」
朝食を満足げに並べた後、小野氏がそう提案されてきた。確かに食後はつまらなさそうに台所を彷徨いておられたので、私は少し思案した後「それではバターとお砂糖を掻き混ぜて頂けませんか?」と頼んでみた。
重々しく頷かれてから早速作業にかかった小野氏を、横目でチラチラ確認してみる。
宮内庁の役人であり、報知新聞の論説委員である人が、紋章のついた役人の服を脱ぎ捨てて、刺繍した帯の上に古手拭をピンで留め、新聞に出すとても重要な論説を書いているときのように、真面目くさってケーキの材料を、更に引き続いて南瓜パイの材料を掻き混ぜる姿は、とても奇妙だった。そして更に驚くべき事は、非常に厳かで几帳面に行う小野氏の仕事がパーフェクトだったことだ。程よく掻き混ぜられたケーキの、そして南瓜パイの材料は、竈で焼く前から成功が約束されているようだった。
ついでながら、小野氏は報知新聞に商法講習所に好意的な素晴らしい記事を書いているが、筆者が誰なのか知らぬまま、それに注目している人が何人もいる。
さて午前中小野氏は一言の文句もなく立ったまま手伝って下さったわけだけれど、ケーキとパイとビスケットを竈から取り出したら、予想通りまったく端麗に出来あがっていた。
小野氏は本当の紳士であり、信頼できる友人である。子供の時から女の人や女の子とよく遊んだので、女の社会が楽しいと云われる。歌人のお祖母様から教育を受け、物静かな性質なので、十四歳まで女子の学校に通われたそうだ。アメリカにだって、そんなに楽しげに台所のことを品も落とさずやってくれる男性は多くないだろう。そんな小野氏は、夕食後、病気のお友達のお見舞いに、自分で作ったパイとプディングを持っていかれた。


彼が帰宅したのは二時間ほど経って後だった。
「友達からのお返しの贈り物です」
貰ってきた御菓子とお茶を用意された後、小野氏はよいしょとばかり、大きな箱を持ってこられた。
「中に入っているのは一体何なのですか?」
「これは祖母の歌です」
私はその作品の多さに吃驚した。よく見えるようにと小野氏がわざわざ持ってきてくれた行灯をかざすと、山や森などの景色の輪郭の描かれた色紙が多くあった。更に細長い紙で壁に掛けるようになっているものもあれば、古代の巻物のように巻いたものもあり、また畳んだだけのものもあった。それを全部読めたらいいのにと、どんなに思ったことだろう!
ざっと目を通して、わからないながらもできるだけの批評をしてから、小野氏が特に感心しているらしい作品を手にとって、英語で説明して下さいとお願いした。
小野氏はしばらく躊躇い、戸惑っているようだった。
「辞書はないかな」
そう溜息をつきながら仰って、最後には諦めたように頭をぴしゃっと叩いてから、解説して下さった。
『秋の美しい月が空から、海と、波が静かに寄せては返す緑の小島を照らしていて、海は銀のように輝きながらうねっている』
なんて美しい光景を想像させる歌なのだろう!
しばらくしんとして、小野氏は考え込み、私の手元の作品をじっと見ていた。行灯の火は薄暗く、私たち二人は箱を差し挟んで坐っているという絵のような場面となった。
「日本の歌はとてもやさしいように見えますが、大変深い意味を持っていて、それを読むと考えなくてはなりません。私の祖母は物を沢山書いたし、勉強もしました。漢文も理解しました。私は時々祖母のことを考えて眠れないことがあります。そういう時この箱を取り出して悲しみに暮れるのです」
小野氏はこの美しい沈黙が乱されぬ事のないよう、静かに仰った。
「……お祖母様はいつお亡くなりになったのですか?
「十年前のことです。私は祖母が亡くなるとすぐ、生地の仙台から東京に出てきたのです。その時、たいていのものは置いてきたのに、何よりも好きなこの箱だけは手放すことが出来ませんでした」
私は重々しく頷いてから、次のように告げた。
「そういうものは金や銀より尊いから大事にする値打ちのあるものです」
ただ心の底では、神様のお言葉の方がもっともっと価値があるという気がして、あの永遠の世界のことを小野氏にも教えてあげたいと思った。その世界には人間の中の善良で高貴な賢い人々が住み、そこでは現世的な物がいくら輝いているように見えても、皆つまらなく思われるのだ。今ここにその生涯の作品が置かれているお祖母様のことを考えて、お祖母様は「道、真、生命」についてお聞きになったことがおありだったかしらと思った。
いつもの私ならはっきりとそう口に出していたかもしれない。だけど、何故かこの場では遂に最後まで言い出すことはできなかった。
その後、二人で月光のもとで富士山を見た。本当に美しい眺めだった。
月の光に輝く空に燦めく星が、夜の王冠の宝石のように富士山の頂上を取り囲み、雪に覆われた富士山は「大日本」の大山脈の王者に相応しく、白く堂々と聳えていた。
私は我が友小野氏と玄関先を歩いたが、小野氏は月を見上げながら怪しげな英語で云った。
「I lofe it.I lofe it!」と。


12月12日 日曜日
吉原で大火災が発生し、一日中燃え続けた。四〇六戸の家が焼失したということだ。


12月16日 木曜日
昨日、夕方五時に中原国三郎氏がみえて、十時過ぎまでおられた。一ヶ月大阪に行っていて少し前に帰って来られたのだ。
中原氏はアメリカの青年のような感じの方だ。しかしアメリカでは教会に行っていたのに、今はもうあまり積極的でないことがよく分かる。安息日に人を訪ねたり、来客と会ったり、歓楽地に出かけたりしている。海外で主キリストに誓いを立てた人たちのほとんど全部がそうなのだ。
この国に帰って来ても初めのうちは教会に行ったり、安息日を守ったりするのだけれど、間もなく周りの外国人も日本人も無関心なのを見て自分も右に倣い、すぐに神への誓いを忘れ、世俗的なものだけに溺れてしまう。精霊のお力によって、この人たちを目覚めさせてあげなくてはならない。
善なる主よ、この放蕩息子たちを、どうやって教会に連れ戻したらいいか教えて下さい。
そんな中原氏も来られた今日の昼食後、みんな食堂に坐って、母と私がクリスマスツリーの装飾品を作っていた時、中原氏が突然仰った。
「気持ちの良い日だから午後お浜御殿に行きませんか」。
母は賛成し、私も午前中望郷の念にとりつかれていて、何か気分転換が必要だったので行くことにした。支度をして、母と小野氏とアディ、盛と富田夫人、中原氏と私がそれぞれ一組になって出かけ、勿体ぶって歩いて行った。しかし、とてもむうららかな日だったので、庭園に近づくにつれ元気が出てきて、間もなくすっかり楽しくなった。
「……えっ?」
でも、お浜御殿の入口で私たちは途方に暮れる事になった。一般公開日を間違えていることを今に至るまで誰も気が付かなかったのだ。
「こんなに遠くまで無駄足を踏ませて、なんとお詫びしたらよいか」
男の人たちはひどく恐縮して繰り返し謝られた。誰かが「それでは愛宕山に行きませんか?」と言い出さなかったら、日が暮れるまでそうされていたかもしれない。
かなりの道のりだったが、途中母は幾度か退屈しのぎにみすぼらしい日本の店や家を覗き、小野氏も同じように時々礼儀作法の道からそれて、富田夫人に愛想を尽かされていた。


愛宕山は江戸の街中で一番高い山だけれど、標高は僅か25.7メートルに過ぎない。
頂上へ向かう石段は二つあった。一つは小さな段が曲がりくねっている一方、もう一方は一フィートずつの段がついており、ほとんど垂直だった。
「婦人の着物はぴったりとしていて大股では上がれないので低い螺旋状の石段は婦人用で、もう一方の殆ど垂直の石段はどんな歩幅でも上れるから男子用なのです」
富田夫人と母とアディは当然婦人用の「女坂」を選択したのだけれど、私は「男坂」に挑戦する事にした。
それでも改めて坂を見上げてみると、殆ど垂直で恐ろしいほど高く見えるので、私は不安になった。
「大丈夫ですよ、私は三年前にある武士が、この殆ど垂直の石段を馬に乗って駆け上ったのを見た事があるくらいですから」
中原氏の言葉に、私はパットナム将軍の向こう見ずな跳躍を思い出した。その武士の行動は、のろのろとゆっくりした日本人的というよりは、むしろ行動的、衝動的で、アメリカ的というか、ヤンキー的な行動のように思われた。命知らずのようでありながら、気概が現れているからだ。
差し伸べられた中原氏の手を握り、私は勇気を出してみんなと一緒に競争で上ることにした。
「俺たちは、まだ登りはじめたばかりだからな! この果てしなく遠い男坂をよ!」
そう勢い込んで登り始めた我が護衛者(エスコート)たる中原氏は、でも背が低く、痩せているからすぐにへばってしまい、止まっては息をつくことになった。それでも色々な超人的な努力をした挙げ句、私は両手を取ってもらって、他の人たちがまだなかなか着かないうちに無事てっぺんに着いた。
中原氏はすっかり息切れがして、今にも倒れてしまいそうだった。私も最初気が遠くなりそうだったが、それも収まると相当烈しい運動をしたためにかえって気分が良くなった。
頂上からは東京と湾の眺めが素晴らしく、至るところに美しい白い帆船が点在する湾は空と同じくらい青かった。この山から見える有名な場所をいくつか指して下さったが、なんと一マイル先の我が家の一部が見えたのである。そして頂上の反対側では、富士山が青と淡い紅色の靄の上に堂々と聳えているのが見えた。
帰宅後、本当に素晴らしかったこの一日に、ベツドの腋に跪いて、神様に感謝の祈りを捧げた。