Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

今週も「クララの明治日記 超訳版」その第19回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分
本日分は、クララの江の島・鎌倉ぶらり旅w編となります。


1876年8月26日 土曜日
きっかけは昨日届いた母からの手紙だった。「アディを連れて江の島に来るように」と。
というわけで、昨晩のうちに素早く旅支度を調え、今朝の午前7時に家を出発した。
こういう時に頼りになるのがウィリイだ。「まずは神奈川まで御者を二人付けた馬車で行き、それから先はうちの人力車で行く」という計画を立ててくれた。途中までは人力車に私たちの荷物を載せておくわけだ。おまけに、私たちが馬車に乗る時には面倒を見てくれて、御者と打ち合わせまでしてくれた。
だけど天候は生憎の空模様。もっとも道路は最初のうちは、市内の低く汚い地域を走っていたけれど、進むにつれてよい道になっていったのは幸いだった。
昼頃になって端道茶屋に立ち寄り、二階に上がって持参のサンドイッチを食べた。
茶屋の女の人たちはとても好奇心が旺盛だ。私たちの年齢、兄弟姉妹のこと、両親のこと、何処から来て何処に行くのか、それは何故か? と根掘り葉掘り聞いてきた。
「ああ、それでは水曜に通って行かれた外人さんがご家族でしたか」
どうやら母たちもこの店に寄ったらしい。そうだと分かると、更にお節介になってますますしつこく質問してきた。
曰く「富田夫人はヤクニンの奥さんか」「セイキチはうちのボーイさん<横浜では家の料理人や使用人をこう呼ぶ>なのか?」等々。
彼女は非常にお喋りさんだったが、それは単に女の好奇心からだろうし、同時に私には自分の日本語の知識を見せびらかしたい気も少しあったので、結構面白かった。


食事を終えて道程を再開したのだけれど、雨は依然として叩きつけるような勢い。
思案して私は巡礼の着る、あの風変わりな、房のついた菰を買ってみた。
しばらく行くと田圃の真ん中に伸びる田舎道に出た。この辺の道はぬかるんだ砂が多く、雨もやんだので、私たちは降りて一マイルばかり歩くことにした。菰を買っておいて正解だった。
それからまた車に乗っていくと、一人の外国人が子供達の群れの先頭に立って、こちらへやってくるのが見えた。すわ、ハーメルンの笛吹女か!? でもなんだか見覚えがあるような? そう思っていたら、なんとまあ、それは母で、富田夫人と迎えに来てくれたのだった。
私たちは道を急いだのでまだ十二時だった。それでいま来た道を戻って少し行くと、間もなく波音高い本物の海辺に出た。
江の島とは「絵のような島」という意味であり、それは文字通りの意味だった。
本当は岩なのだけれど、よく繁った緑の葉に覆われているのだ。海中にぽかっと浮かんでいるので、遠くから見ると島のように見えるけれど、実は島ではない。狭い地峡で本土と結ばれていて、そこを東から西へ二分で渡ることが出来る。長い細い通りが高い断崖まで続いているけれど、その断崖の上には非常に丈の高い大きな木々があり、古代の絵のようなお宮が緑に包まれている。
この細い通りの両側には茶屋をはじめ、あらゆる種類の店が立ち並んでいた。場末の食堂だと思っていたものは実は茶屋の台所で、裸の料理人がみんなから見えるところで、いい匂いの食事を準備していた。
人々が食べ物を買い、料理し、二階へ運び、食べるという過程が全て一時間かからないで行われているのが、私たちの泊まることになった部屋の窓から見えた。


茶屋の中には日本では珍しい、三階建てで地下室まである建物があったのは、この岩に囲まれている島では地震など感じられないからである。
丘の麓にある最初の茶屋はとても低く、次のが少し高く、次々に高くなってゆき、最後のは三階半の高さで、半分洋風の造りになっている。
この島でただ一つの通りの坂には、石段がついている。この石段は一部ひどく欠けてはいるものの、疲れた旅人にはありがたい。
私たちが泊まることとなった橘屋という宿は、この通りを半分行った左側にあって、素敵な女の人が経営している。そして従業員も皆実によくできた模範的な人たちだ。
うちの家族は「恵比寿屋茂八」に部屋を予約しておいたのだけれど、来てみたら、なんと満員。それで途方に暮れて頼った先が橘屋だったわけだけれど、最初店員たちは無言で互いに視線を交わし合っていた。
富田夫人に詳しい事情を聞いて貰うと、どうやら私たちの少し前に止まった外国人達の行状がとても酷いものだったらしい。私自身、そんな行状の悪い外国人達を何人も見かけているので、本当に恥ずかしさで一杯だ。
そんな事情で、店員達は外国人に恐れをなして泊めたくなかったようだけれど、私たちが一晩泊まって、なんと静かな客だと分かったら、それ以来とてもよく世話してくれる。
更に母が女主人と従業員に心付けを上げたら、一人ずつやって来て、低くお辞儀をして母にお礼を云った。私たちは二階を使っているが、二階には部屋が一つと台所と使用人の部屋があって、皆とても風通しが良く、港や山や村の眺めが素晴らしい。
それからサービスで可愛らしい漆塗りの小さな菓子台に乗ってお菓子を持ってきてくれた。
それがあんまり魅力的だったので「売ってくれませんか」と尋ねたら「いいえ、差し上げましょう」と云った。
そんなことは嫌だったけれど、あまり綺麗なので頂くことにして、女主人のお嬢さんに、その金額分の贈り物をあげた。ここの貝細工はとても綺麗である。


1876年8月28日 月曜日
今日は弁天岩屋に行くことにした。お堂のある洞穴に着くためには、崖を上って反対側に下り、山の北側の岸に回らなければならない。
途中に幾つかお寺があった。そこに陳列してある骨董品を見てから、祈祷書やお守りや沢山の絵を買ったら、顔立ちの良いお坊さんが目を丸くしていた。徳川家の弓、上杉謙信の鎧と扇子と鐙、偉い殿様の描いた古い絵、昔の琴など色々の骨董品があったけれど、お寺の人たちにとっては、ノアの箱船のように古く神聖なものなのである。
私たちは茶店に坐って、港の美しい景色を眺めた。
果てしなく続く緑の丘の間に埋もれた、茶色の屋根の、絵のような小さな村々! 緑の丘の長く不揃いなうねりが海にぐっと張り出し、海には江の島のような明るい小さな島が無造作に点在しているのも非常に面白い。そして島にある繁った峡谷や、純粋に美しさの損なわれていない、ひっそりした散歩道はまったく蠱惑的である。
こんなによく繁った植物は今まで見たことがない! 道の両側に深緑の生き生きとした植物が並び、竹、棕櫚、松、花の咲いている天人花、蔦、野薔薇、野苺、それに無数の小さな植物が、全く野生のままの密林を作り上げていながらも、実に優美で、まるで手入れの行き届いた公園のようだ。


さて、弁財洞窟のことを書こう。道のりが長いし、遅くなると波が高くなって入口を塞いでしまい、早朝にしか入れないので、私たちは早く出発しなくてはならなかった。
岩場を這って、やっと洞窟の入口に着いた。入口の高さは百フィートぐらいで、幅はその半分ほどだった。
そこでしばらく涼んでから中に入った。巨大な大聖堂のような感じで、奥の端に弁財天の金色の社があったが、そこの祭壇にはカトリックの教会と同数くらいの物が備え付けてあり、奥に弁財天の像があった。弁財天は蓮の花の中で生まれたというのが伝説になっている。
お坊さんが松明に火をつけて、洞窟内を案内してくれたのだけれど、洞窟は調査しただけで百八十フィート、あとどれだけあるかは分からない。非常に天井の高い所があるかと思うと、屈んで通らなくてはならないところもあった。
あちこちに清水が流れ、曲がり角ごとに弁天様の像があって、ランプが前方を照らしていた。狭い通路が岩の中を網の目のように続き、ランプの明かりがちらちらして、洞窟内の薄暗がりは気味が悪かった。
洞窟の外れまで彷徨って行くと、もう一つお宮があったけれど、そこには錆びた鋼鉄の鏡しかなかった。この鏡は神道の象徴であるが、弁天様は仏教の神であると同時に神道の神でもあるのだ。
陽気で気だての良さそうな若いお坊さん三人と一緒に、午前中ずっとこの洞窟で過ごした。
お坊さんたちに昼食の缶詰のハムやジンジャーナッツを分けると、お返しにお茶とお水をご馳走してくれた。一人は英語を習ったことがあるという。
江の島で、この岩場での楽しい時を過ごしたことはない。
裸の悪戯小僧達が、岩の間で砕けて泡立つ波の中に飛び込み、明るい珊瑚色のものなど色々な種類の海草を取って来た。私たちが、一セントの十分の一ぐらいにあたる銅貨に和紙の切れ端を結びつけて、一つずつ海に投げ入れると、その子供たちは飛び込んで拾い上げ、不平のないようにお金を等分に分けた。


1876年8月29日 火曜日
今日は鎌倉の大仏の見学だ。海辺に沿って出かけたのだけれど、道のりの大部分を歩かなくてはならなかったので、かなり辛かった。
鎌倉はタイクーンの一人のいた古都で、江の島から約四マイル、東京から十五マイルのところにある。今はとても綺麗で清潔な村なのだけれど、その大きさや、遺跡としてあちこちに散在するお寺から、昔の壮大さが偲ばれる。
まず三橋という、掃除のゆき届いた大きな茶屋でお昼を食べた。小さな庭には緑色の池があって、中に何もいないかと思ったら、お菓子を投げ込むと金魚が水面に群がって出て来た。とても大きい金魚もいた。
巡礼を大勢見かけた。こんなに多いのは富田夫人によると理由があるらしい。
「あの人たちは昔は裕福なサムライだったのですが、政治の変革のために貧乏になったので、自分の国まで歩いて行かなくてはならないのですよ」
私たちのそばに坐った巡礼は「ああ、今日は十六里歩いたな」と呟いていた。
茶屋を出てから、少し先の小高いところにある観音堂に向かって歩いた。
石段を沢山上って頂上に出ると、古いお寺があって、中に三百体のの仏像があった。この古いお寺の裏には納屋のようなお堂がある。
「仏像は光が嫌い」だということなので、素早く入って戸を閉めると、蝋燭の光で、金箔を施した楠の高さ三十フィートの仏像が見えた。これはなんでも千七百十五年も前の物なのだそうだ。しかも十六年間も海中にあったのだそうで、それでも手に蓮の花を持っていたという。
慈悲の女神と云われ、顔が七つ、手が千本あり、知恵と力を象徴しているという。天井に取り付けた滑車で、提灯が吊り上げられて、仏像の顔が見えるようになっていた。
「どうして堂内を暗くしておくのですか?}
そう尋ねたら、お坊さんたちは呆れたような顔をした。ここで、観音と大黒天<富と幸福の神>の絵を買った。


次に立ち寄ったのは、戦争の神を祀った鶴岡八幡神社だった。
その神様は日本の十五代天皇で、その治世に中国の古典が日本に導入されたのだそうだ。そして今、戦いの神<ハチマン>として崇められている。
私がこれまで見た中で一番立派な神社で、境内は清潔でよく手入れされていた。美しい太鼓橋が蓮池にかかり、蓮の中で生まれた弁天のために鳥居が建てられている。
入口にいた老人から、漢字が刻んである鋼の小さな刀を買った。これは自殺や殺人をしないためのお守りなのだそうだ! 
私たちは聖なるサケ<御神酒>を一口すすり、お米を一粒食べたが、これは食べ過ぎで死ぬのを防ぐためだという! 
それから二人のサムライが、美しい骨董品を沢山見せてくれた。その中に、実に優雅に工夫を凝らした金と銀で仕上げた家光の弓矢と箙や、五ポンドほどの重さの家康の兜があった。これが本当に家康のつけたものだとしたら、彼はきっと「銅頭」の人間だったに違いない。同じく家康の物で、大きな貝に真鍮の口金をつけたラッパがあって、私も吹いてみた。もし家康がこれを知っていたら「野蛮人の口に汚されるくらいなら、いっそ」と、そのラッパを粉々に砕いてしまっただろう。
非常に優美な細工の、三百五十九年前の刀が二本あったけれど、これはウィーン博覧会に出品したものである。
それから葦でできた仕上げも音色も美しい、七百年前の「パンの笛」つまり葦笛もあった。これ以外にも六百八十年前の墨壺や、千七百七十年前の神功皇后の鐙もあったけれど、この皇后は初めての女帝で、ハチマンの母であり、朝鮮に出兵した人だ。
そうしてようやく本来の目的地の大仏に着いた。
大仏は高さ六十フィートで、幅はその半分ほど。青銅製の像で六百年前のもので、胎内は大きな空間になっている。
私たちは梯子を登って、大仏の背中にある窓から外を見た。胎内から出た後、よじ登って大仏の親指の上に坐ってみた。だけどそれを見た一人のサムライがひどく不快がった。そのサムライはそのような女らしくない行為を見せないように、自分の奥さんを追い払った。実際に富田夫人もあまりいい顔をしていなかった。
それから江の島に戻るため、車夫たちは軽快な早足で私たちを運んでいった。


1876年8月30日
今朝、いろいろな支度をして東京へ発った。東京には夕方頃に着いた。
なんだか誕生日らしくなかったけれど、家に帰ってみると素敵な郵便が届いていた。すぐ後でリビー叔母さんから、いい物が一杯入った箱が届いた。