Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第27回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分はクララの日記の中でも特に貴重な資料といえる、徳川家第16代を継いだ徳川家達邸訪問のお話になります。そして、クララに新たな恋の予感?


1877年2月13日 火曜日
今朝眠くて眠くて、なかなか目が開かなかった。
起きたくないのだけれど、起きなくてはならなかった。
昼食後ビンガム夫人がみえて、母と連れだって出かけた。二人は富田家と大鳥家を訪問し、それからあちこち回るのだ。
母がいない間、大勢訪問客が来た。
ごきげんよう、クララ」
ミス・ワシントンがちょっとの間おみえになり、機嫌良く帰って行かれた。
とても優しくて美人の若い婦人なので、もっとお知り合いになりたい。二週間ほど横浜に行かれる予定だそうだ。
それからスージーとモードが散歩の途中だといって立ち寄って、三十分いた。
滝村氏が夕食においでになるというので、お逸は一日中いた。
母が五時半に帰り、滝村親子がおみえになった。
勝家の梅太郎も来て、十時まで室内ゲームをして過ごした。土曜日には徳川家に招待されている。


1877年2月14日 水曜日
昼食の直後に、中原氏が訪ねてきた。奥様と横浜に引っ越したことのご報告にみえたのだ。
中原氏の快活ぶりは以前と殆ど変わらないけれど、ただ一段と落ち着きを増したようだ。
もう私と一緒に桃の木を歩いたり、私のために肩掛けや傘を持ってきて下さることもないだろう。
ああ残念! 残念!! 
もう一緒に星空の夏の夜にうちの踏み段に腰を掛けたり、絵のような茶屋の庭を散歩し、丸木橋を渡り、人工のアーチの下をくぐったりもして下さらないだろう。そう、腕に寄りすがる人が別にできたのだもの。……でも気にしない、気にしない。
この後、母と私はあちこち訪問に出かけたのだけれど、とんでもない光景に遭遇してしまった。
途中で酔っぱらった兵隊二人に出会ったのだけれど、その一人が剣を振り回していたのだ。その時の怖さといったらなかった。
その兵隊は巫山戯たように、剣で空を切っていた。両刃の剣は無情に光り、兵隊の卑しく残忍な顔は酒で異常な赤みがさし、泣き出しそうな表情が混じっていた。


1877年2月15日 木曜日
午後いつものように出かけることにしたのだけけど、今日は人力車ではなく徒歩で行くことにした。
ヤマト屋に行ってノートを買い、次に宝石屋で鎖を買い、額縁屋で絵を額縁に入れて貰った。それから歩き回って、私たちには大きな魅力である絹や陶器の店を覗き、桃色の絹地と小さな可愛い花瓶を三つ買った。
そして三浦夫人のところへ、生まれたばかりの赤ちゃんを見に行った。とても可愛らしくて、目鼻立ちもそれは小さなものだった。帰る途中、芝に寄って豆本と紙人形を買った。
「ごめん下さいませ。ホイットニーさん、いらっしゃいますか?」
夕方になったら、矢田部氏がまたやって来た。本当にこの方は、一週間も我が家に来ないではいられないのかしら?
母は眠ってしまっているし、ウィリイはハミルトン氏と食事に出かけているので、私が着替えて下に下りなくてはならなかった。
私が沢山買った日本の伝説集をアメリカに持って帰ろうと思っていて、矢田部氏はその一冊を訳すのを手伝って下さった。
手伝って下さったのだけれど、どうしてもうち解けられなかった。私の側に坐ろうとするのが、嫌でたまらない。


1877年2月17日 土曜日
ああ、今日はなんとすばらしい日だったことだろう!
日記さん、前に私たちが将軍のお屋敷へ招待されたのを覚えている? 
え、忘れたって? それならペンでつっついて思い出させてあげよう♪
大騒ぎで肩掛けやスカーフをまとめ、人力車の用意をし、差し上げる贈り物を揃えて、午後二時に出発した。
やがて赤坂に着き、人力車は大きな屋敷の前で止まった。ちなみに勝提督のお宅のすぐそばだ。
黒い木と石の長い塀がぐるりと屋敷を取り囲み、とてもどっしりした門から我らが高貴な友の邸宅の入口まで、五十段ばかりの低い石段がうねって続いていた。
門番が私たちの名刺を受け取り、威厳のある人物が家へ案内してくれた。
急に曲がると前方に大きな日本家屋があり、広く堂々たる玄関に大勢の威厳のある人々が集まっていた。
物々しい態度の従者や護衛たちが、一番品位のあるサンミサマ、つまり徳川家達公の周りに侍り、両側と道には使用人たちが並んでいた。
私たちを見ると、いかめしく恐ろしいサムライ全員が一斉に深々とお辞儀をした。更に使用人たちの頭は、本当に地に着きそうなくらいだった。
その数と厳めしさに恐れをなして、私が母の後ろに隠れているうちに、お辞儀と挨拶が終わった。
そんな沢山の厳粛の顔の中から、滝村氏の親しみ深い顔が現れた。
「どうぞお入り下さい、ホイットニーさん」
聞き慣れた声でそう云われ、私たちはようやく一心地着くことができた。
それで一同脇によけ、若き徳川様を先頭に立つと、前方にいた一同が一斉に脇によけた。まるでモーゼの海渡りさながらだ。
徳川公には従者数名が付き添い、私たち一行は家の中に入った。
案内された客間はとても立派な部屋だった。
栗色の覆いを掛けたテーブルが中央に、ブリュッセル絨毯が床に敷いてあった。体裁の良い椅子が周りに置かれ、隅々には屏風が立っていた。そして部屋の周囲には絵も掛かっていた。
私たちが坐ると、真正面に若い主人役の若殿様が坐って、じっとこちらを見つめ出した。
お付きの人たちが音もなく歩き回り、二、三分ごとに出たり入ったりしていた。母屋と台所の間の細い通路の向こう側に、白足袋を履いた沢山の足が忙しそうに行き来しているのが柵の下から見えた。
私たちのそばにいた一人の立派なサムライが私たちに向かって話し始めた。英語がよく喋れるようだ。
「何処で学ばれたのですか? この国ですか、それとも外国ですか?」
母がそう質問すると丁度滝村氏が入ってこられて、そのサムライの紹介をして下さった。。
「彼は竹村謹吾君といって、五年以上アメリカに留学して、二年前にはホイットニーさんのニューアークの学校にもいたことがあるのですよ。覚えておいでではありませんか?」
思わずハンカチで笑いを隠した私に、戸のそばにいた、悪戯っぽい綺麗な黒い目の、際だって端正な顔立ちをした若者が気付いたらしい。
とても人好きのする優しい笑顔で微笑み返してくれた。
竹村氏というサムライはすぐにウィリイと会話を始め、時々私たちにも話しかけた。
なかなか剽軽な気質の人のようだ。
「日本人の肌が黄色いのは日本のお茶の色のせいなのですよ、ご存じでしたか?」
そう快活に云った時には「なんて面白い人なんだろう!」と思わずにはいられなかった。
お茶とお菓子が出て、それからお水の方がいい人のためにと、上品で小さいコップに入れた水も運ばれてきたのだけれど、この時までにはお茶やら何やらのお陰で話が弾んでいて、私たちはあっという間にすっかりうち解けてしまった。


それから、邸内を散歩するように誘われた。
裏口から出ると管理の行き届いた広いクローケー遊技場があり、そこでは毎日若い人たちがみんなでクローケーをするのだそうだ。
美しい庭園を歩くと、日本に素晴らしい造園法が隅々までゆき渡っていた。
石灯籠の他に、桜、桃、李、薔薇、水仙、高さが六フィートか七フィートで周囲が四フィートもある大きな椿の木などがあった。
泉も沢山あったのだけれど、一番不思議だったのは、花の咲いている木のすぐ近くに、小さな石の容器に入れた氷塊があったことだ。
丘に登ると、天辺から見える東京の眺めが素晴らしかった。
「とても静かで、明るく気持ちのよい日ですね。空気は私の故郷の六月の空気のように爽やかですし」
私は思わず、いつもそばを歩いていた連れ、つまり例の目元の涼しい若者にそう云った。
「ええ、アメリカの春から初夏の陽気は本当に素晴らしいものですからね」
私がなんとはなしに云った言葉に、その人は力を込めて肯定されたので、私は「この人は外国にいたことがあるのかな?」と思い始めた。
散歩はとても楽しく、私の連れは最高にいい人で、またとないほど婦人に慇懃だった。
坂を登る時には手を貸して下さったり、とても可愛い花を摘んで下さったり、屋敷の庭から広がる景色を説明して下さったり、最後には花の名前のラテン語名まで教えて下さった。
本当になんて素晴らしい紳士なんだろう!
それから婦人たちの住む家のあるところに出た。
そこには老婦人が三人、二十八人の侍女を従えて住んでいるそうだ。
「申し訳ありません、天璋院様はお加減が優れませんので」
最高位の婦人は気分が優れず、運悪くお目にかかれなかった。なんでも何代か前の将軍の奥様で、今は若き徳川公の養育に励んでいらっしゃるそうだ。
大勢の女の人が廊下に出てお辞儀をしたのだけれど、私たちは靴を履いていたので中に入らず、外で十五歳になる老猫と戯れた。
もしケイキサマ、つまり最後の将軍である徳川慶喜様が猫をお好きなら、この猫は多分その貴い御手で可愛がられているのだろう。
けれど、にこやかなお世継ぎ様は猫がお好きではないそうだ。
竹村氏は、次に綺麗な茶室に案内してくださった。
それは家人が最上の日本茶を飲む時に行くところで、火鉢こそ床に埋められていたけれど、すべて清潔そのものだった。
そこに通じる小道の両側には、いろいろな種類の花と石灯籠が並んでいて、ここの美しさはとても気に入った。
それから家の方へと戻ることにしたのだけれど、私の親切な友――この時までに私たちはすっかり友達になっていた――はそれで紙を作るという珍しい木を見せて下さった。
非常に嫌な匂いはしたのだけれど、珍しいので少し紙に包んで持って帰ることにした。私の友によると、パヒルス科に属する木なのだそうだ。
さて、邸内を回って色々見終えてから、クローケー遊戯場に戻った。
「クララさん、クローケーをなさいますか?」
「是非やりましょう!」
滝村氏と問いかけに、我が護衛者がいち早く叫んだ。
「滝村さん、私をエスコートして下さっている紳士はなんというお名前なのですか?」
そっと尋ねると、少し声を潜めて教えて下さった。
元老院議官大久保一翁閣下の令息、三郎氏です。アメリカには五年間いて、ニュージャージーのニュー・ブランズウィックと、ミシガンのアン・アーバーで留学され、その後ヨーロッパを一年旅行して帰ってこられたばかりのところですよ」
私はこの案内者をますます尊敬の目で眺め、前から抱いていた好感が倍増した。
もっとも更に声を潜めて続けられた滝村氏の言葉には、別の意味で驚かされたけれど。
「……父上は勝提督と同じように幕府の高官でいらしたのですが、そのせいで閣下はいま薩摩の暴徒にその首を狙われていらっしゃられ、大変のようですが」
なるほど、大変著名でいらっしゃっても、あまり羨ましくない著名さもあるものだ。
クローケーをプレイ中にも、私たちの他に大勢の人がいて、絶えず新しい顔が増えた。
襖や半分開いた戸や窓から覗く者、露台や縁側に出てくる者、塀の上に坐る者といろいろいたけれど、みんな二十歳かそれ以下の若い人ばかりだった。
一人だけ年配の方がいらして、父親だか監督だかの役を務め、若者達をきちんとさせておくように統率していたけれど、こんなに礼儀正しくい青年たちは今まで見たことがないと私は賞賛しておく必要があるだろう。
ちなみにこのクローケーのボールで大久保氏は「緑」、私は「青」ということで、パートナーとなった。
私たちはお互いに後を追い、どういうわけかいつも同じ柱門を目指した。
大久保氏は私のボールを父親のような目で見守っていてくれたのだけれど、ボールは皆似ているので、私は他のと区別するために自分のボールにCと書くことにした。
「おや、そのCはどういう意味ですか?」
「私の名前の頭文字ですわ」
そう聞いた大久保氏は歩いて行きかけ……また戻ってきて聞いてきた。
「失礼、まだお名前を伺っていませんでしたね。お嬢さんはなんというお名前なのですか?」
「クララ、クララ・ホイットニーといいますわ」
「……クララ・ホイットニー。クララさんですね、いい名前でいらっしゃる」
大久保氏はゆっくりと繰り返し、私の名前を仰った。
私たちが話しているうちにゲームは着々と進行し、徳川公は華々しい打球を続け、勝者となった。
その次が私、次がウィリイ、その次が大久保氏、そして後の人たちがそれに続いた。
しかし、若者たちはあまりにも礼儀深くて、最高技能を発揮せず、それで見栄えがしなかったのではないかという気がする。
母はやらないで見ていたが、大久保氏がアメリカにいた日本人で私たちの友達だった人たちの話をするのに興味を持った。
そこで私たちは母の椅子の周りに集まり、日が陰り始めるまで話をした。
屋内に入ることになったところで、吃驚することが目の前で起きた。
徳川公が近道をしようとして塀の上に飛び乗ったのだ。、
「殿、お客様の前ですぞ」
大久保氏が笑いながら踵の辺を掴んで抑えていたけれど、徳川将軍家のお世継ぎ様が脚を捕まえられて塀の上に跨っているのは、あまり威厳のある格好ではなかった。
それから家の中に入って、日光、芝、上野にある将軍家の立派な菩提寺の写真や、フランスの景色の写真、また風景や月やガス灯といった付属物が回転する美しい立体写真を見せて貰った。
私が覗く時、大久保氏は私を楽しませるために、ナイヤガラの滝のところで月を光らせ、パリではガス灯に火を灯してくれた。
火鉢の側に坐っていると、夕食の用意の出来たことが告げられ、気持ちのよい食堂へ行って決められた席に着いた。
食堂には、ローマで美術の勉強をしている日本人の巧みな絵や、立派な掛け物などがいくつか掛かっていた。
どうしてそうなったかは知らないけれど、とにかく私の隣の席にはあの愛想の良い青年がいた。
夕食は素晴らしく、本物の日本料理で、パンとバターがついており、フォーク、ナイフ、スプーンを遣ってもお箸を使ってもいいようになっていた。私は大久保氏が見ていない時に、お箸を使ってみた。
食後「ロト」をしに行った。
大久保氏が「教え手」だったのだけれど、私はやり方が分からないので大久保氏の隣に坐った。大久保氏は私に教えながら、数を合わせた。
徳川公は上機嫌で、竹村氏はその滑稽な話しぶりと動作でみんなを笑わせ通しだった。
云うまでもなく徳川公が勝った。
(どうしていつも勝つのかしら?)
私の抱いた疑問は、でもきっと日本人の中では口に出してはいけないことなのだろう。
そして徳川公が勝ったところでゲームは終わり、八時を過ぎていたので、私たちは帰る支度をした。


帰る時はまた大騒ぎだった。
私がテーブルにあったのを褒めたもので、大久保氏は温室の桃の花を持って来て下さるし、滝村氏は母に肩掛けを掛けて下さり、竹村氏は人力車を呼んで下さった。私の頂いた花をくるんで渡して下さる人もいた。
徳川公は握手をしようと、従者と共にそばに立ち、使用人たちはめいめい提灯を持って通りまで案内してくれた。
みんな大声で「さよなら」と叫び、私たちに挨拶を返して、間もなく人力車は暗闇の中に出た。
このようにして帰宅したが、本当に素晴らしかった! 
家の中に男の人だけしかいなかったのも変わっていた。
「いつでもここにいらっしゃるのですか? 他の人たちはうちに帰るのですか?」 
「わたしの家は麻布にありますが、殆ど将軍家で過ごし、他の人々もずっとここにいますよ」
大久保氏によると、そういう事らしい。
あの若者たちが、誰にも邪魔されずに楽しく過ごしているなんて素晴らしいことだ。
女の人も年寄りも子供たちもいなくて、彼らだけで幸せな家族のように暮らしている。
給仕、料理人などに至るまですべて男の人だったけれど、男同士で婦人をあんなによくもてなしてくれた腕前には感服せざるを得ない。