Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第30回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分
今回分はクララたちの箱根旅行のお話がメインとなります。


1877年4月17日 火曜日
今月はなんと出来事の多い月だったろう。そして今日もまた実に楽しい一日だった。
勝夫人が向島の桜祭に招待して下さったので、十二時に出発した。
勝夫人と玄ちゃんが一台目、母とアディが二台目、お逸と私がその次の人力車に乗った。
お逸はとても派手に着飾っていて、途中で何人もの人が振り返ってその綺麗な顔を見ようとした。
向島へ行く道は外出着を着た人々で混雑していた。
父親たちは堅いハカマを穿いて厳めしく真面目くさり、母親たちは手入れのゆき届いた地味な晴着をまとい、息子たちは洋風の帽子を被り靴を履いて闊歩しながら、綺麗な女の子に晴れやかな流し目を送っていた。
娘さんたちはこの上もなく派手な色合いの装いをして、粉白粉を塗りたくり、苦心してめかしこんだという感じだった。
紙製の風変わりなお面をつけた人が大勢いた。
時には、両親から子供たちまで皆このようなお面をつけた一家もあった。それはグロテスクに見えるけれども<あちこちから吹きつける>埃が顔にかからないようにするのに役立っていた。

さて、私が眺めた情景をどのように描写したらいいだろうか。
頭上のピンク色の桜の花のアーチ、木の間を漏れる暖かい陽光、それに加えて、きらきら輝く川の波の上に時々花吹雪が溶けない雪のように散るさまは、美しい一枚の絵の背景となり、その背景の前に晴れやかに装った群衆が浮かれ気分で群がっているのだった。
道に並んだ茶店や飲食物の屋台に立ち寄っている者もあれば、お面や玩具、お守り、簪、装飾品などを買っている者もいた。
一番よく売れている玩具は、竹の棒の先につけた、羽を広げた格好の大きな色彩鮮やかな蝶々のようだった。
手品師、踊り子、それに狐や獅子の仮面を被った人たちが、お寺の前で何か演じたり、踊ったりしていたが、それは「神様を楽しませる」ためだそうだ。
お酒に酔いつぶれた人たちが千鳥足で歩き回り、仲には馬鹿げた演説をする者もいて、聞き手の群衆は腹を抱えて笑っていた。
お酒の効き方の現れ方が人によって異なるのを見るのは面白い。
とても楽しくなってしまう人もいれば、怒りっぽくなる人もいる。
また一人の老紳士はとても威張った様子で頭をのけぞらせ、できるだけ真っ直ぐに歩き、素面であるように見せるために一生懸命努力していた。
茶店にいたある愚か者は犬に顔を嘗めさせ、周りの女の人たちがきゃっきゃっと笑い転げていた。この国ではとても異例のことなのだ。


「おねえさーん!」
後ろからそう呼びかける人がいたかと思えば、一方からは「ハッタ」と叫んできた。
それでも男女を問わず、子供たちの口から一番聞かれたのは「唐人! 唐人!」という言葉で、正直とても不愉快だった。
しかし翻って考えてみれば、私たちは我が国に来た清国人を「チャイニー」、アイルランド人を「パット」、フランス人を「フケンチー」や「ジョニー」などと呼んでいる。
それはきっといま丁度、私が呼ばれた「唐人」「異人」と同じように、その人たちにとっては不愉快な綽名なのだろう。そう考えたら、私の気持ちは静まった。
やがて勝家の夏の別荘に着くと、そこは美しい桜の木に囲まれていながらも桜祭りの騒音や混乱から離れている素敵な場所だった。
広い庭の中央には池がある。池の両側に絵のような緑の丘が美しい傾斜を見せており、大きな石灯籠が隅々に立ち、石の五重の塔が一際目立っている。
やはり石で出来たお堂が木陰の一隅にあって、云いようもなく巧妙に出来た小さい段々がそこまで続いている。それはオイナリサマで内部に「おめでたい時」を表す赤飯が沢山置いてあった。
丘の頂上の可愛らしい小さな東屋から向島の大通りと川の素晴らしい景色が見渡せた。穏やかな川の面に浮かぶ小舟の純白な帆は、紺碧の天空に漂う小さい白雲さながらだった。
ああ、なんと楽しい時を過ごしたことだろう。
私たちは庭を走り回り、丘を上り谷を下り、五重塔のそばまで高く駆け上がったり、池に駆け下りたりして遊んだ。勝夫人も後からついていらっしゃった。
このように運動したお陰で食欲が増進し、茅葺きの小屋で頂いた食事の美味しかったこと。
夕方の五時に帰途についたのだけれど、途中<日本へ来て初めて>街路上の喧嘩を幾つか見た。
しかし喧嘩の主は大抵滑稽な労働者と商人たち。女の人が逮捕される場面を目撃したけれど、これも大変珍しいことなのだそうだ。頭を切りつけられた男の人も見た。四番目から五番目の喧嘩の場面を通り過ぎながら、お逸の人力車夫の新左衛門が溜息をついて、こう零した。
「酒ってやつは人間を駄目にするな!」
「まったくその通りだ」
私たちの車夫は皆、相槌を打った。


1877年4月18日 水曜日
今日、古いトランクをひっくり返していたら、アメリカを発つ前に頂いた昔の年賀状が出てきた。
素敵な銅版画で、小さいキューピッドの乗った貝を、海豚やその他想像上の動物が引いているものだった。
そう云えば、と今更ながらに思い出して裏を見てみると署名があって、それぞれ「Y.松平」と「S.松平」と「H.南部」と入っていた。
「S.松平」というのは確か、高木さんの仕えていた桑名藩主で、以前我が家に来たことがある松平定敬氏の義理の息子で、最後の桑名藩主であった松平定教氏のことだ。南部というのは、東北にある藩の家老の息子さんで、Y.松平と云うのは……確か!
「おやおさん、これ、見て頂戴!」
「ど、どうされましたの、クララ先生?」
あまりに慌てているので、おやおさんを驚かせてしまった。
でも私は咄嗟になんと云ったらいいか分からず、その年賀状をそのままおやおさんに手渡す。
「Y.松平……これは康倫様の筆跡ですわ!」
この時、おやおさんの浮かべた幸せそうな表情をなんと表現したらよいのだろう。
幸せのシャワーを浴びた朝顔みたいな笑顔。
「このカード、我が家に持ち帰り飾らせて頂いて宜しいでしょうか?」
勿論、その言葉に否と云うわけがない。
私が渡して差し上げると、おやおさんはすっかり喜んで、そのカードを抱きしめながら家に持って帰った。
そうそう、母に話のあった皇后様の学校の職は駄目になった。外国人ではいけないそうだ。残念。


1877年4月27日 金曜日
今日、以前お会いしたことがある村田一郎氏がみえた。
村田氏は今度の船でアメリカから帰られたばかりだけれど、風采がぐんとよくなり、立派な紳士になられた。
以前この国にいた時は、間が抜けていて不器用な方だと思ったものだったけれど、今はすっかり変わって、なんとも云えない威厳と紳士の態度が身についている。
外国旅行はある人々にとってはとてもためになるものだ。
日本人がアメリカに行くのは教養のため、我々アメリカ人がヨーロッパに行くのは洗練されるため、ヨーロッパ人は――いや、ヨーロッパ人は何処でも旅してまわっている。
村田氏は、クラーク氏の学校の卒業生である活発な若い友達を連れて来られた。


1877年5月8日 火曜日
今日から私は母、ウィリイ、アディ、そして使用人のセイキチを連れ、晴れた日には東京から青い輪郭が微かに見えるだけの箱根山へと出かける。
帰宅するまでの総距離数は延長は四十五マイルか五十マイルにもなる予定だ。
九時に出発して神奈川に行き、そこで待っていた人力車に乗った。
出発直前に、お逸から旅立ちに向けての挨拶と「早いお帰りをお待ちしています」という言葉を添えた見事なカステラを頂いたので、短い返礼の手紙を書いた。
さて、出発の時のことを書いているのだった。
母とアディが一緒の人力車に乗ってヤスが引きキスケが押した。クマが一人で引く車で私が後に続き、ウィリイが次に一人用の人力車で行ったが、珍しいくらい容姿のいい京都の人ががウィリイの車夫だった。名前はショウテイだかショウハンだかで、とても若い人だ。
私たちは昼食のため以前江の島旅行の時に立ち寄った端道茶屋に立ち寄ったが、ゆっくりは休まなかった。
茶屋の女の人たちは私たちを覚えていて、私たちの風采についてたくさんのお世辞を述べたのだけれど、書くのも馬鹿らしい。アディと私がとても大きくなったと云っているのだけれど、彼らはアディが私で、私はその姉だと思ったのだ。
それから「お兄さんは大変綺麗(!)ですね」とも云った。
別れ際に皆「サヨナラ」と挨拶をし「ハヤクノオカエリ」と云った。
初めから気付いていたことだけれど、私たちが立ち寄ったところは何処でも、出発する人に早く帰るようにと呼びかけている。
そして帰って来ると「ゴクロウサマ」と声をかけるのだ。この言葉を正確にどう訳せばいいのか分からない。けれど「お疲れでしょう」または「お手数をかけてすみません」というような意味だということだけは知っている。多分一種の方言なのだろう。


二時頃に江ノ島、つまり「絵のような島」に着くと、以前逗留した橘屋の人たちがとても喜んで温かく迎えてくれた。
昼食後、景色を見に出かけた。まず前回同行しなかったので感嘆しているウィリイを丘へ案内し、あの素晴らしいお寺と弁天岩屋へも連れて行った。
ここで、父親、祖父、二人の娘から成る日本人の巡礼の一家と親しくもなった。
私たちは一緒に笑い、話し、蟹を捕まえ、お茶を飲んだが、とても気持ちのよい人たちだった。
セイキチの車の車夫が一人ついて来た。ボズという名前だったが、太っていて、髪の刈り方がニューヨークにあるシンシン刑務所の囚人みたいだったので、私たちは彼を「コンヴィクト」つまり「囚人」と呼んだ。
しかし、大変感じよく慇懃な人で、濃い青の木綿のぴったりとして小綺麗な別当の上下服を着ていた。
私たちはまだ先へ行かなくてはならないし、荷物になるのでお土産はあまり買わなかったのだけれど、我らが友である巡礼の一行は殆ど行く先々で何か買っていた。一箇所だけで父親は小さな屏風を十枚も買っていた。一体何処にそんなに飾るのだろう?


1877年5月9日 水曜日
顔を洗って着替えを済ますと、ヤスがお茶と梅干しを持って来た。
「柔らかい砂糖を振りかけて、日本では毎日朝食前にこれを食べるのですよ」
母は好きではないし、アディは食べられず、ウィリイは食べたらとてもむかむかすると云ったが、私は自分の感情を押し殺して一個食べてみた。
朝食後、すぐ江の島を発って湯本へ向かった。
一日中車に乗り続け、丘やでこぼこ道は歩いて越えた。
アディと私は随分歩いたり走ったりしたけれど、人力車というものは、どうしても乗らなくてはならないとなると、実に退屈なものだからである。
道が狭い上にひどく悪くて、人力車ではとても通れない山麓あたりに着いたのはかなり遅い時刻だった。
私たちは人力車を降り、歩いて上り始めたが、ついに駕籠に乗った。これはヨーロッパの椅子駕籠のようなものだが、人が肩に棒を担いで運ぶものだ。最初に母が一台に一人で乗り、アディと私は一台に代わる代わる乗ることにした。
しかし丁度出発しようとした時、駕籠を担いだ二人の人がやって来た。
「自分たちは同じ道を湯本に行くのだから乗っていってくれませんか?」
というわけで、その駕籠に乗ってみたら、私にぴったり。
駕籠の乗り心地は実に素晴らしく、駕籠かきの人たちは大変親切だった。
京都の若いショウテイは私のそばに付き添って、駕籠かきや私に陽気に話していた。
けれど、この高地にも夕闇は迫り、すっかり暗くなって、しばしば通りかかる登山者の姿が黒い影のように見えた。
それからロマンチックな旅が始まった。
湯本に着いてみると、一つしかない旅館は徳川公のお父様、一橋公と随員が泊まっているので、私たちは更に一マイルほど先の小さな村へいかなくてはならなかった。
ここまで私を乗せてくれた親切な人たちは別の方に行くので、アディと私は――かなり窮屈だったけれども――一つの駕籠に一緒に乗っていった。
間もなく村を出て、寂しい山道に差しかかった。
駕籠かきの規則正しい足音と、遠くの滝の轟音の他は、暗い静寂を破る物音は一つもしない。
やがて急流に出たけれど、それは、ナイヤガラのグリーンリバーのように、山腹を激しい勢いで流れていた。
その時キスケが駆けて来たので、提灯のちらちらすら灯りであたりの様子が分かった。
片側には山が真っ直ぐ切り立ち、反対側には急流が息もつかせぬ速さで流れ、その間の狭い山道を私たちは通っているのだった。
幅一フィートぐらいしかなくて、ぬかるみや塗れた石で滑り落ちそうなところも幾つかあった。
それから渡ったあの橋! ああ、このような危険な場所を思い出すと、血が凍り、息が止まりそうだ。
水かさの増した流れに架けられている一本の丸木橋、手摺もなくて、細い竹竿が短い棒に棕櫚縄で結びつけられているだけだった。
それから駕籠とびくびくした乗り手が、あの恐ろしい崖の上で振り回された険しい上り道。アディはひどく怯えてしまったので、元気を出すため私たちは歌を歌った。
しかし、ロマンチックな情景と、事の珍しさに私は心を奪われていて、そこを通り過ぎてしまうまではちっとも怖くなかったし「危険が増せば増すほど勇気が湧いてくる」のだった。
けれど、私がそんなに大胆になれたのは、きっとついて来た車夫たちの陽気なお喋りと、提灯の灯りのお陰だったと思う。
間もなく旅館の看板が見えて私たちは元気づいた。
女主人と女中たちは私たちの様子を見て非常に吃驚し、まるで起き立てのように目を擦りながら外に出て来た。
二階の清潔で綺麗な部屋に通され、すぐに夕食が出た。その後山から直接引いた温泉に浸り、床についた時はくたくたに疲れていた。


1877年5月10日 木曜日
昨晩は疲れ切っていたので、私たちは寝坊してしまった。
普段使わない日本式寝床でも、とてもよく眠れた。まるで、いつもし慣れているかのように、掻い巻きを掛けて寝たのだけれど、あまり自慢はできない。
起きた時に寝ぼけ眼で見たら、脚は丸出し。
でも日本人はそのようなお行儀の悪さを責めたりはしないだろう。森夫人だって、最初寝台から落ちられたではないか。
やっと起き出してみたら、雨がひどく降っていたので、今日の旅行を見合わせなくてはならず、私たちは自分たちだけでできる限りの娯楽の種を見つけようとつとめた。
楽しみの一つは、前夜は暗くて分からなかったのだけれど、旅館のすぐそばを流れている急流を眺めることだった。
また反対の山側には、あちこちに温水と冷水の小さな滝が流れ落ちていた。
車夫のクマが小さな滝で気持ちよさそうに水浴びをし、ボズも真似をするのを私たちは部屋の縁側から眺めた。二人にとっては本当にとても楽しかったに違いない。
この辺でもう一つ変わったことは、どの橋も土台が石を一杯入れた細長い駕籠でできていることだった。
どうしてそれで橋の下部が固定させられるのか私には分からないけれど、どんなに急な水の流れにもびくともしないところを見ると、明らかにしっかり固定しているに違いない。
それはとても賢明な工夫であり、更に大変奇抜で他に例を見ないものだと思う。
私は一日中火鉢――とても寒かったので――のそばで横になっていたけれど、あまり気分が良くなく、休んでいなくてはならなかったからである。
旅館中にある本を、外国のも日本のも皆集めてきて、日本の物語やマクミランの文芸誌や「ジェントルマンズ・ジャーナル」などに読み耽ったのだけれど、確かに随分ためになったと思う。オランダの文学の現状についての論文を読み終えると、もうそのような固い読み物は十分だというような気がして、この国の物語を読み始めた。


1877年5月11日 金曜日
今朝はとてもよく晴れていたので、朝早く、塔の沢玉の湯旅館と女主人に別れを告げて、高く険しい山道をまた上り始めたのだけれど、ヤスは少し後に残って、彼をとても持て囃してくれた茶屋の女達と別れをしばし惜しんでいた。
私たちはでこぼこの山道を骨を折って上がって行った。
非常に危険な険しい場所にいるかと思うと、再び平らな草深い台地に出た。そしてまたいつの間にか、人里離れた森の中の道を歩いているのだった。
道の両側に、殆ど熱帯性とも云える木と草が混じり合っていた。桃と棕櫚の木が隣接して生えているところもあれば、無数の竹が、羽のような葉となめらかな幹で、非常に険しく危険な崖を覆っている所もあった。
私はある傾斜の急な場所で、危うく道を踏み外しそうになった。
丁度駕籠から降りたばかりで、道が狭いものだから、駕籠を避けて脇に跳び移った。
それから後に下がって、竹の土手だと思ったところに寄りかかろうとしたのだけれど。
「お嬢さん、危ない!」
駕籠かきの一人が叫んだので跳びのいた途端、足下の土が崩れるを感じた。
振り向いて下を覗くと、とても転げ落ちたくないような場所が目に入った。本当に! それを見たら私は厳粛な気分になってしまった。
この辺に生えているもので比較的少ない植物は百合の木だった。
その他、故国では庭の装飾用に植える赤いらっぱ形の花、野萓草、野薔薇、あやめ、きぼうし、藤、それから無数の名前の分からないとても珍しい植物があった。
森にも、雉やいい声で啼く綺麗な鳥が一杯いた。堂々とした杉や松の古木が素晴らしくよい巣になりそうなのに、栗鼠は一匹も見なかった。
しかし、その代わりに蛇がいて、大きいのを何匹か見た。一度などは、駕籠かきが、大きな蛇が道を通り過ぎるまで立ち止まっていたこともあった!
そのうち芦ノ湖に着いたのだけれど、そこは硫黄温泉のある所で、昼食をすますと私たちはすぐに立ち去った。硫黄のにおいに耐えられなかったからだ。でも他の入浴者は結構、堪能しているらしかった。
芦の湯を後にしてまた旅を続け、とても気持ちのよい田舎を通ってしばらく行くと、こんもりと繁った寂しい森の真っ直中でで、突然、実際に固い岩を刻んで作った大きな地蔵に出くわした。
これは小さい子供の守り神で、周りに多くの子供が埋葬されており、死んだ子供たちの履き物や玩具などが、その像の腕の中や足下に散らばっていた。
石像は蓮の上に坐っているように作られ、顔は大変慈愛に満ちた表情を浮かべており、手には子供の魂を抱いているという。私たちは岩の苔を少し取ってからそこを離れた。


丁度ここから箱根の湖が見えて来たが、とても美しかった――穏やかに澄んだ水が草に覆われたまろやかな丘に囲まれ、その丘が透明な湖上に影を映している。これに平和に草を食む白い羊の群れがいさえすれば、完全な一枚の絵となっただろう。
ウィリイが一人でどんどん歩いて、真っ先にそこへ着いた。
茶屋に入ると、私たちは荷物と駕籠を茶屋に残し、案内役と称する女の人についてお寺の方へ歩いた。
丘の上に建っているそのお寺は長い段々を上ったところにあった。母とアディと私が先に立ち、セイキチ、ヤス、キスケ、ショウテイといった随員が続いた。
謂われのある物について語るショウテイの説明はとても興味深かった。
彼によると湖は長さ三里、幅二里の広さだと云うが、信じられなかった。
大きな石の傍らで立ち止まったが、それは頼朝が小舟を繋いだ所で、石に空いている穴は頼朝が鉄の釘を打ち込んで作ったものだそうだ。
少し先に、お釜のような巨大な鉄の鍋があったが、それは頼朝がお茶を飲むのにお湯を沸かした容器だと、案内人が云った。きっと多量の薬草を飲んだに違いない。
またもう少し先に、案内人によれば、六百年前に建てられたという石の神社があった。
しかし、江の島で見た地蔵は千二十九年前のものであり、鎌倉の観音像は千三百年前のものだ。


1877年5月12日 土曜日
昨晩泊まった旅館は鎌倉屋という名で、主人は非常に感じのよい人だったのだけれど、暗さと湿気が耐えられなかったので、雨と霧の中を出発した。
下るにつれて段々明るくなり、芦の湯に着くまでには太陽が照りだした。
しかし山の頂上にはまだ霧がかかっていた。私たちは芦の湯では泊まらず、下り続けて宮の下へ行き、奈良屋に入ったが、天皇陛下が京都にいらっしゃる時御休憩になる、地の利を得た綺麗な旅館だった。
陛下のお泊まりになる部屋は誰も使ってはいけないので、私たちはその隣の部屋に泊まった。宿の人たちは陛下のお部屋を畏敬の念をもって扱い、夜はそこにずっと明かりを灯していた。
私たちの部屋の畳の縁は薔薇色の絹なのに対し、陛下の部屋のは豪華な白と金の錦だった。
こちらの蚊帳の吊り手が鉄であるのに対し、あちらのは真鍮で、絵を掛ける釘は銀だった。
また立派な掛け物と刀架があったが、私たちの部屋にはなかった。
しかし、別段この大君主が羨ましいとも思わず、その部屋を居間として好きな時にとても気をつけて使い、アディはそこでお祈りをした。
母は按摩さんに按摩をして貰った。その人は皇后様を按摩した人だったが、別に光栄だとは思わなかった。
私たちの部屋の隣には、父親が英国人で母親が日本人の家族がいて、数人の子供はとても器量がよかった。ご主人は奥さんに大変優しかったけれど、上流階級の人たちではないようだった。絶えず粗野な大声で笑ったり話したりしていて、それに赤ん坊の泣き声が加わり、私たちのような静かな一家には正直なところ不愉快だった。特にお祈りをしたり、私たちの主な仕事である読書をしたい時にはそう感じられた。
「お客様、今日は離れが開いていますが、如何でしょうか?」
女主人が彼らを、上手くここから離れた部屋にそっと移してくれた気遣いには驚いたけれど、同時にとても嬉しかった。
お陰で私たちは静けさを楽しむことができた。この階にはもう一家族おり、やはりご主人が外国人で奥さんが日本人だったが、子供が一人でそれも随分大きかったから、ずっと静かだった。
部屋の前に綺麗な庭があり、三つの池に魚が一杯いたのでクラッカーを与えた。
この庭の向こうには丘が果てしなく重なり合って続いていた。


1877年5月16日 水曜日
雨と霧のために出発できなかったので、奈良屋で三、四日過ごし、今朝私たちは再び車を連ねて出発した。
小田原で昼食をとり、またどんどん進んだ。
一人の騎兵が私たちの前を馬に乗って通っていったが、何度かマントを落とし、それをヤスが拾い上げるのがとてもおかしかった。
ヤスが拾って手渡すたびに、騎兵は笑みを浮かべながら振り向き、お辞儀をして、跳ねる馬の歩調を緩めるのだった。
私たちがゆっくりしているので、ウィリイはさっさと先に行ってしまった。
七時には、月明かりの他は提灯もなく、寂しい道を進んでいた。
大分時間が経った時、陽気に歌を歌って荷馬を引いている男に出会ったが、その人は歌――というよりは騒音――をやめて、先に行ったウィリイのことを色々話し、今どこにいるか教えてくれた。
それを聞くと私たちは嬉しくなり、元気が出て道を急いだ。
暗闇では誰にも分からないだろうと思っていたのに、藤沢に入ると、若い女の人が呼びかけて、ウィリイがここにいると云ったので、私たちは止まった。
その旅館の畳は汚く、建物は古臭かったけれども、皆感じの良い人たちだったので、そこに泊まることにした。
母は按摩を頼んだのだけれど、目の不自由な人ではなく、とても穏やかないい人だった。
その人が母を揉んでいる間、私はその人と面白い話をしたが、彼は私を見続けていた。多分私のように太った身体を揉んでみたいと思っていたのだろう。
その人が出て行こうとした時、私は百足を殺してしまった。毛布の上を這っていたので、残酷にもそれに飛びかかったのだ。
「ど、どうしたのですか!?」
按摩さんは吃驚して尋ねてきたので「百足がいたのです」と答えると少しだけ窘めるように云った。
「何も怖がることはありませんよ。大人しいからそんなに大騒ぎする必要はありませんから」
それから如何にも日本人らしく「貴女は日本語が大変上手ですね」とお辞儀を云って帰って行った。
お辞儀と云えば、アディの気の利いた言葉を思い出した。
色々な町を通っていると、女の人が私たちに何かと批評して、それも私たちの白い肌や、明るい色の衣服をお世辞に褒めることが多かった。
ある日何人かの女の人のそばを通り過ぎた時、アディが私に云った、
「クララ! 私美しいんですって」
私は何故か少しカチンと来て言い返す。
「ああ、あれは日本人のお世辞に過ぎないのよ」
「そうね、多分そうね」とアディはため息をついたのだけれど、少ししてから云ったものだ。
「でも私、まんざら嘘じゃないと思うわ」
さて藤沢の話に戻ろう。
寝る用意をしていると、通りで凄まじい音がした。窓にすっ飛んで行って見ると、一人の若者がブリキのやかんに紐をつけて地面を引きづりまわしていた。
別の一人が鉄の輪をたくさんつけた棒を、もう一人は先を箒のように割いた竹竿を持っていて、それを引きづるとひどく変な音がするのだった。
この3人はこの騒音に加えて、まるで敵の軍隊が攻め寄せて来るときのような恐ろしい叫び声をあげていた。
「なんでもありません、あれは藤沢消防団ですよ」
女中はそう言うけれど、何故消防団がこんな騒音をたてるのか見当もつかない。


1877年5月17日 木曜日
朝早く藤沢を発ち、神奈川へ向かった。
何度か官営宿屋に寄って休息し、五時に神奈川の駅に着いた。
そこで人力車の車夫たちに別れの挨拶をすると、一団になって待合室にやって来て返礼した。しばらく付き合ったこの人たちに親しみを感じていたから、別れるのは本当に残念だった。
汽車は我が家の方へ向かって出発したが、車掌さんは顔と眼が角張っていて眉がほとんど垂直な面白い人で、ずっとアディと私ににたにたと笑いかけていた。
東京駅で父が待っていてくれ、木挽町に着いたら、テイとウメが迎えに出て来た。
万事めでたし。本当にありがたい。