Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第49回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、青山墓地訪問、ホイットニー家の引っ越し準備、そしてYMCAの親睦会での話がメインとなります。


1878年6月8日 土曜日
今日はアディに手伝って貰って客間の大掃除をすることにした。
昼食後、マツを連れて勝家に行った。
勝家の方たちは皆とても親切だ。
小鹿さんはとりわけ陽気で、いつもの気の抜けたようなところはなかった。
小鹿さんと二番目のお姉様の旦那様である疋田氏が鳥居坂の家に見に行かれたのだけど、戻ってきた報告は「荒れ果てている」という有り難くないもの。
私たちはお逸と麻布開拓使三号館に行き、そこで初めて茶摘みやお茶の葉の乾燥作業を見た。
顔見知りの吉沢郷党氏がいて、すっかり見せて下さり、説明して下さった。
そこで作るお茶には三種類あるそうだ。
第一級は早春に摘むもので作るのが難しいけれど、第二級と第三級はそれほど難しくはなく。
でも当然のことながら味もそれほどよくない。
アメリカに輸出されているのは三級以下ですよ、日本の上流階級の人は絶対に使いません」
茶摘み人は五月か六月から八月まで、三時に起きて一日中お茶を摘む。
五月から既に三五〇〇ポンド摘んだそうだ。
摘んだお茶の葉はまず家の中に運び、竹の篩に入れてお茶の入った大きな鉄鍋の上で蒸す。
吉沢氏が背の高い中年の男を紹介して下さった。
この人は二十年もお茶作りをしてきたので、今では先生役をしている。
お茶作りをすっかり見せて貰ってから、吉沢氏に挨拶をしてそこを出た。
「今の外人さんかい? 精養軒の近くに住んでいるとても良い外国人で、大変物知りなんだ」
吉沢氏が私たちのことをそうに説明しているのが聞こえた。
門に行く途中で、牛や搾乳所を見たがとても清潔だった。一匹の可愛い子馬が堂々とした母親の近くで跳びはねていた。


次に青山にある大鳥夫人のお墓にお参りすることにした。
大久保利通氏のの墓も同じ墓地にある。
近くの小さい花屋で切り花(とても高価だった)と、夫人のお墓に植えるための薔薇の木を買った。
お墓は狭い囲いの中にある白木の柱だった。
囲いの中には梅、桜、松、柳などが植えてある。
お墓の前の竹筒に残っていた枯葉を墓守が片付けて、私たちの持ってきた花を活けた。
二つの竹筒の間には香炉もあった。
白木の柱には、故人の姓名、年齢、性別、命日が書いてあった。
この後、大久保卿のお墓にもお参りした。
小さい塚で、木のテントに覆われており、周囲には字を書いた白い吹き流しが立っている。
テントの四方は白と黒の布。
大久保卿のお墓の近くの白い囲いの中には、殺された御者の中村太郎氏のお墓があり、その後ろには馬のお墓まであった。
お墓はいずれも白木の柱だった。
次いで佐藤氏のお墓にもお参りした。
石碑の両側に美しい灯籠のある、手入れのよいお墓であった。
お逸の話によると、京都には主君のお墓の近くに立派な祈念碑があるということだ。
主君は日本の歴史に名をとどめる英雄の一人である。
どの囲いも小さくて、一つのお墓があるだけのものが多い。今後死ぬ人があるとは思っていないようだ。
お墓は大抵白木の柱だけれど、中には荒削りの石を立てたものである。
名前は深く刻み込まれて、赤か金色に塗られている。
草に覆われた小さい赤ん坊のお墓や、十六歳の娘のお墓もあった。
これには凝った彫刻があり、屋根がついていて、真っ白い紙の飾りつけがあった。
私たちは更に黒田夫人のお墓にもお参りした。
夫人は有力者で開拓使の長官であった夫に殺されたという噂であるけれど、立派な碑が立っていた。
そこで母が復活についての話をしてくれた。
お逸がそれを熱心に聞いてくれたのが嬉しかった。
ふと帰りしな。沢山の奇妙な石碑や文字の間に、十字架の形をしたお墓を見つけた。
周囲の異教的な彫刻の間でこれを見つけた時には、息を飲む思いであった。
この墓石には「主の僕 中川某」とだけ記されていたけれど、雑草が生い茂った哀れなお墓であった。


1878年6月11日 火曜日 
森夫人が訪ねて来られ、楽しい話し合いができた。
「永田町にある我が家の持ち家に入りませんか?」
二、三日前に富田氏から聞いていた話を、正式に申し入れをされた。
私たちは神様に私たちの住むべき家を選んで下さるようにお祈りしていたので、夫人の申し入れを受けることにした。
「狭苦しい汚い家で大変恐縮なのですが」
森夫人が繰り返しそう云われるので、その家を見ていない私たちは気が滅入ってしまった。
でも、ウィリイは実は偶然その家を見たことがあるそうだ。
その報告は悲観的なものだった――小さくて、通りに近く、隣に石鹸工場があるという。
到底我慢できないのではないかと思った。
しかし健康に適した地域ではあるし、後は神様にお任せすることにした。
家賃としては私が森夫人にピアノを教えるということであった。
夫人は、イタリア公使館の秘書をしている中村氏から、新しいピアノを買ったところである。
私はピアノが大好きだから、この条件は大歓迎だ。最近はオルガンを弾く機会の方が多いのだけれど。
森氏は母に何人かの新しい学生を寄越して下さるとも仰った。
これによって、私たちは十分暮らせるはずである。
私たちの課題は、父のために然るべき職業を見つけることだ。
父は当てもなく家の中を、あっちこっちとうろうろするので、私たちみんなの邪魔になる。


今晩はYMCAの親睦会に行ったが、余興がとても面白かった。
私たちは早く行ったので、ずっと前の方に陣取った。
ジュエット氏とディクソン氏が並んで立っていて、そのうちに私たちに気付いてお辞儀をしてくれた。
ジュエット氏が近づいて来て私の隣に腰掛け、ディクソン氏も負けじとばかりに母のすぐ隣の席に腰掛けた。
ジュエット氏はまず母と握手をし、あと順々に握手された。
するとディクソン氏も同じ事をした。
ディクソン氏は本当に一々、ジュエット氏のなさる通りの真似をした。まるで物真似師のよう。
ようやく会が始まった。
最初の出し物はディクソン氏によるディケンズ作品の朗読。
大騒動の話で、中心人物のジョン・ウィロットは滑稽な人物である。
次にミス・コラスが「三艘の船」と題する可愛い歌を歌った。その折り返しの文句は次の通りである。
「男は働き、女は泣かなければならない故に」
素晴らしく美しい茶色のコートと、これによく似合う帽子を被ったミス・マクニールが、イタリア人の子供の歌手によって、信仰のない人が改宗するという話を読んだ。
次にパイパー夫人が、お得意の「聖教徒の上陸」と題する、フェリシア・ヒーマンズ作の歌を歌った。
とても綺麗な歌だった。
けれど、ハイパー夫人の声は音量は良いが嗄れた声で気に入らない。
お茶とお菓子が出た後で、ジュエット氏がディケンズの『ジョーの死』を朗読した。
それが終わって「海の貝殻」と題する歌をワット氏が印象的に歌った。
お茶とお菓子のお代わりが済むと、しぱらく中休みがあり、この間ディクソン氏とジュエット氏は何かこそこそと立ち回っておられた。
と、再開される前に。ディクソン氏が、私の方をチラリと見た。
『歌を歌って下さいませんか?』
そう云われるのではないかとびくびくしていたけれど、幸い指名されなかった。
「やれやれ、助かった」
そう小さく呟いた途端に、ディクソン氏が本を開き、演壇から真っ直ぐ私の方に歩いて来た。
私はすっかり慌ててしまった。私の命もこれまでかと思った。
(私は知らない間に本当に歌うと約束してしまっていて、彼の手に持っているプログラムに私の名前が載っているのではないか!?)
いや、そんな記憶は全くないのだけれど。
ところがディクソン氏はその本を私に渡し、皆に聞こえるような大きな声で突然云った。
「ミス・ホイットニー、この歌を一緒に歌ってください!」
それから皆の方に向いて、歌の題を云い、残念ながら本はもうないが、と断った。
そしてオルガンのところに戻って行き、ジュエット氏の伴奏で歌い始めた。
私はこっそりその本をミス・エルドレッドに渡した。
彼女はその歌を知っているけれど、私は知らないのである。
ハフェンデン氏が、ヴァーベック夫人に本を渡しておられるのが見えた。
しかし、ヴァーベック夫人は絶対に歌は歌わないのだ。
それにしてもこんなに大勢歌の上手な人が集まっている中で、何故私なんかをわざわざ指名したのだろう?
私には全く分からない。特別の好意を私に示されたかったというのだろうか?
礼拝の賛美歌をリードするミス・エルドレッドやトルー夫人や、ミス・ヤングマンにミス・ギューリック、それにかなり力強く歌う、ハイパー夫人やミス・コラスなどもいたのだ。
ディクソン氏が私に本を渡された時に、ガシーが意地悪い顔をちらっと私の方に向けた。
私はできるだけ大きい声を出して歌った。
けれど、ミス・エルドレッドのラッパのような賛美歌の声に比べると、小さい鐘の音のようだった。
帰り際、階段を下りて行く時に母が先に行き、私はまだ階段の途中にいたところ、ディクソン氏は急いで私に手を貸そうとして、母を見過ごしてしまったことに気づき、階段の下か途中まで手を伸ばすような格好になってしまった。
「今日はとても楽しゅうございましたわ」
お別れに際、私が彼にそう云うと、彼はこう返した。
「あなたが来て下さったので、楽しい会になりました」
こんなことを日記に書いているのは、将来小説を書くときに役立つかも知れないと思うからである。
というのは『トリビューン』紙上で読んだのだけれど『若草物語』の作者、オールコットは十歳の時から日記をつけていて、各巻千頁以上の日記帳が七十七巻もあるそうだ。
もっとも次のようにも書かれているのだけれど。
『しかし困ったことに索引がないので、一番良い箇所が何処に入っているのか分からないのである』
やれやれ、私もつまらない女だ。
またラブレターを貰ってしまった。
母に渡し、母が読んだ。
私はラブレターは自分で開封しないで、母に渡すことにしているし、今後もそうするつもりだ。


1878年6月12日 水曜日
あと二週間でこの家を去らなければならないのは残念だ。
二年近く私たちが雨露をしのぐよすがだったのだから。
しかし変化は必ず来るものだし、それほど悪い事態でもない。
今朝森夫人を訪問して新しいピアノと楽譜を見せて見せて頂いた。
楽譜はどれもまだ夫人には難し過ぎるし、古いフランス式の手引き書以外には手引書がないので、私の持っているピーターの教本をお貸ししなければならない。ピアノはフランス製で良い音色だ。
母は森夫人と一緒に富田氏のところへ行き、私は一人ぼっちで留守番することになった。
帰宅後、母は「とても楽しい訪問でしたよ」と云った。
津田氏もおられたそうで、私たちが外国人居留地の外に住めるように外務省にかけあって下さると約束された。
「本当はとてもおかしな話なんですけどね」と津田氏の弁。
というのは、富田氏や森氏は外務省の実権を握っておられ、自ら規則を改定して下さればよいのに、威厳を保つためにわざわざ津田氏を使って、彼ら自身に向かって依頼をさせるという形を取ったからである。


1878年6月13日木曜日
今日父のところへ、楠本東京府知事から会いたいとの書面が届いた。
代理としてウィリィが出向いたところ、知事の下に海軍卿安房守殿から手紙が来たというのだ。
「私が二年前に商法学校に寄附した千ドルはホイットニー氏が学長である商法学校を想定したものであるから、氏が商法学校を無過失で解雇された以上、そのうちの六百ドルはホイットニー氏に提供するように」
手紙にはそう書いてあったというのだ。
その上さらに楠本氏に対し、ホイットニー一家は普通の外国人とは違うのであり、勝家の友人でもあるから、並みの外国人のように取り扱うことは罷りならん、と警告されていた。
私たちが他の外国人達と違うとすれば、それこそ神の御恵の印ではないか。
何処に行っても私たちは「やさしい外国人」「日本人の味方」「親切な人」と云われる。
しかしそれは私たちが良いからではなく、神様がわたしたちを用いて下さるからなのだ。
そういうお褒めの言葉を聞くたびに、わたしは自分たちがそれに値しないことを知っているので謙虚な気持ちになる。
楠本氏はとても親切で、ウイリィにいろいろ話をされ、近くご自分で父を訪問すると云われた。


1878年6月14日 金曜日
この家とも近くお別れなので、お世話になった方たちを招いた。
上杉夫妻、インブリー夫妻、尊敬する説教者のインブリー氏に会いたがっておられたディクソン氏に、マーシャル氏。
インブリー夫人は快活な話し好きで、人をもてなすのがとてもお上手だ。
一日中準備に追われたけれど、支度が調ったテーブルは、真っ白いテーブル掛けに、磨き上げた銀の食器やガラスのコップが並び、庭の花が活けてあってとても綺麗だった。
食事中の会話が弾み、すべて調子よく運んだ。
食後は骨董品を見て論じ合ったり、歌を歌ったり、お喋りをしたりした。
音楽の部分はだいたい私に任されていた。ディクソン氏が少し手伝って下さったけれど。
食堂には入っていく時は、とてもおかしかったのだ。
父がインブリー夫人の腕を取り、私は上杉夫人の手を取って父の後に続き、次に母と上杉氏、ウィリイとインブリー氏というように並んで進んでいった。
上杉夫人となられた大鳥家のおひなさんは男性に腕を取られるのが大嫌いなのだ。
私はそれを知っていたし、私もあれはこの上なく馬鹿げていると思っているのだ。
そういう事情から、私がおひなさんの手を取ったことに彼女はとても感謝していた。
でも時折、私に逃げられるとでも思うのか、私の手に縋りついていた。
とにかくとても楽しい時を過ごした。
皆がお帰りになってから、マーシャル氏は堀切へピクニックに母とアディを招待した。
私はまったく無視された。
ウィリイと私は断固復讐を誓った。
なんて憎らしい人!
彼らはボートに乗って行くのだ! そして月明かりのもとで帰ってくる計画なのだ!
母は新しい仮説を提起した。「脳髄は胸にあるのか」というのである。
何故なら困難に遭遇すると、いつでも胸にこたえるからだ。
明日は村田家に夕食に招かれている。
津田氏も来週お宅へ私たちを招いて下さった。


1878年6月15日 土曜日
今日はとても楽しい一日だった。
こういう土曜日は理想的だ。
十時までに家を綺麗に整頓し、それから靴下の繕いをしている母のために『スペクテーター』紙を読んであげた。
その後、少しばかり書き物をした。
昼食後、森夫人に最初の授業をするために出かけた。
思ったよりずっとお上手であった。ピアノを教えるのはとても楽しかった。
森夫人のためになるばかりでなく、私は再びピアノに触れることができるのが何より嬉しい。
それから母と一緒に、村田氏のところに出かけ、とても楽しい夕食をとった。
奥様は、いつもの通り親しくされた。
帰る前には私にキスされたけれど、私はキスされるのはあまり好きでない。
でも村田夫人は愛情深い方だ。


1878年6月16日 日曜日
ひどい雨の日曜日。それでも、私たちは十時に日曜学校に行った。
しかし、参加者は日本人の男の子がたった一人。
半時間もオルガンの前に腰掛けて弾き続けたているうちに、ウィリィ・ヴァーベック、マクラレン氏その他が来た。
それで日曜学校を始めたものの、マクラレン氏は途中で帰宅した。ブルーシーの他に赤ちゃんもいるので、早くお帰りになったのだ。
ハフェンデン氏が短いお話をなさって、日曜学校は終わった。
コクラン先生が「魂の証」という題で説教されたが、私には非常に面白かった。
特に印象に残ったお話は次のようなものだった。
「二人の人が同じ家に住み、同じ食物を食べて、しかし南極と北極ほどに離れているころがあり得る」と。
これが精神的疎遠というものなのだ。私にはそれがどんなものかよく分かっている。
礼拝の後、マクラレン夫人のお手伝いをしに行ったのだけれど、ご主人に断られて、ひどく気分を害された。