Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第67回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分は、ウィリイの帰宅とホイットニー家のクリスマス、そして勝家の新年の模様の話がメインとなります。


1878年12月30日 月曜日
金曜日に母は横浜に出かけ、帰りは遅かったがウィリイを連れて帰って来た。
まったく偶然に横浜でウィリイに会ったのだ!
母がある店に入っていた時だ。
「船! 奥様! 船!」
うちの車夫のボズがそう叫びながら飛び込んで来たのだ。
それで波止場に下りて行くと東京丸が停泊しており、ウィリイが小舟で岸に近づいて来るところだった。
母はあまりの嬉しさに涙がこみ上げてきて、あの憎らしいボズまでが涙を流したそうだ。
ウィリイが帰ってきてからというもの、私たちは積もる話でとても忙しい。
帰ってくる際、兄は金沢から福井までの二十五マイルを歩いたそうだ。
雪の積もった悪い道なので人力車が雇えなかったのだ。今でもまだ足が痛むらしい。
日曜日は京都に泊まり、クリスマスは大阪で過ごした。
兄が無事帰還したので、私たちはクリスマスのお祝いを今日した。
お招きしたお客様は、松平氏と大山夫人以外皆さんご出席。
松平氏はご病気、大山夫人は暮の大掃除のためだ。
六時からはお客様がぼつぼつおみえになり、やがて客間も食堂も一杯に。
クリスマスツリーは小さい方の客間に用意してあったが、皆さんがお揃いになるまで戸を閉めておいた。
お客様はまず勝家の女性方と、小鹿さんまで含めてお子さん方全員。
杉田さん一族、富田夫人、林氏<今では背の高い青年>と従兄弟の喜一郎さん、イノコ。
大鳥氏の四人のお子さん――おゆきさん、おきくさん、富士太郎さん、小さい坊ちゃん。
それから徳川家達公の弟御さんの田安公とお付きの慇懃な二人のご家来等である。
杉田家の方がみえた時には、玄関の扉を開けにいった私が吃驚してしまった。
というのは、一団の人が一列縦隊になって歩いて来るのが門から玄関まで続いていたからだ。
咄嗟に私はどなたか見分けがつかなった。
ただ分かったのは「若い男女、老人と子供」が揃っていることだけ。
しかし次の瞬間には先頭の杉田武氏に続く杉田夫人や富田夫人やおよしさんが分かった。
盛と、イノコと、六蔵、アイスという名前の女の子がこれに続き、その後に数人の使用人がいた。
その人たちの下駄の音がカラコロと玄関に迫って来るのは、ある意味奇観だった。
私は一人一人にお辞儀をして「よくいらして下さいました」というのに大わらわ。
その後すぐに三浦夫人と可愛い赤ちゃんのおアイちゃんが付き添いの女中と現れ、女中は賑やかな会場に茫然としていた。
その他に津田お琴さん、およしさんの赤ちゃんのかしくちゃん、こまつ、武夫たち。
これらのお客様の他に勝夫人、内田夫人、疋田夫人、お輝、保爾、岡田つる夫人、お逸、およね、おせき、おかね、伊藤、おえい、その他がいたわけだ。
「あら、うちの人が多過ぎるわ。場所を取り過ぎてしまいます」
お輝はそう云ったけれど、口先だけとしか思えない。
茶菓をまわしてから、クリスマスツリーに火を灯して戸を開けた。
「七十年の生涯の間にこのようなものは見たことがない」
そう驚く岡田夫人から、蝋燭の光に喜んだおよしさんに赤ちゃんに至るまで、全員が感嘆の声をあげた。
そしてプレゼントの時間。
「とっても素敵、とっても綺麗、勿体ないよう」
富田夫人は贈り物に感激してそう云ったが、本当に我ながら適切な贈り物だった。
大島氏が赤ちゃんのために乳母車を贈られたところだったので、おくるみが欲しかったのだ。
杉田夫人も喜ばれて「キレイ、ウツクシイ」ばかり繰り返しておられた。
私たちはあらゆる努力を傾けて全員に、小さくてもとにかく何かの贈り物を用意したのだった。
特に親しいお友達には心を籠めたものを。
この興奮が一段落してから、ウィリイが京都で買ってきた幻灯を見た。
皆さんがお礼を云ってお帰りになった後、勝家と滝村家の子供たちだけ残ってゲームをして遊んだ。
そのうち小鹿さんがお帰りになり、私たちは女の子と母とウィリイで、お茶を飲みながらひとしきりお喋りをした。
梅太郎は足袋を吊して、ウイリィがそれにお菓子やおもちゃを詰めると大喜びだった。
皆さんも面白がっていた。
このようにしてクリスマスのお祝いは終わった――これが日本で過ごす最後のクリスマスになるのかしら?
いや、この世で最後のクリスマスになるかもしれない。
神様、いずこにあっても神とキリストに仕えるものとならしめ給え。
神の真実をもって我らを取り巻く闇を照らし給わらんことを。


1878年12月31日 火曜日 
古い年の最後の日。
これがこの世で過ごす最後の日であるとしたら、平然と未知の世界に入ってゆくことができようか。
今日の一日はあっという間に過ぎてしまった。
いくつかの贈り物を受け取ったが、これらは片付けておかなければならない。
それから午後には勝家の方々の来訪があり、ディクソン氏が幸せな新年を迎えるようにと挨拶にみえた。
「すぐ帰らなければ」と云いながら、十一時が鳴ってから帰った。
彼は田舎への旅行のこと、田舎の景色や土地の人のこと、ミス・ヤングマンのクリスマスツリーのこと、スコットランドの教会の教派のことなどを話した。
それから、スコットランドの歌や、オックスフォードの歌や、私が母からクリスマスの贈り物として貰った『古今の賛美歌』の中から、私たちの好きな賛美歌を選んで歌った。
「もう少しゆっくりしていたら年始回りになるところだったね」
ディクソン氏が帰っていった後、ウィリイはそう云った。
旧年よ、さようなら。
親切なよい年であってありがとう。


1879年元旦 新年おめでとう 木曜日
美しい朝日の輝きとともに新年はやって来た。
これほどよく晴れた美しい元旦は初めてだ。
目を覚まして霜の降りた地面や、澄み渡った青空――それは日本の空でもなく、ヨーロッパの空でもなく、アメリカの空でもなく、普遍的な空であって、銀色に輝く富士山がくっきり浮かんでいたが――それを眺めた時に、私は喜びを抑えきれず、神の中の神、光の中の光、卑しい賤女を蔑まれることのない神を讃える歌を歌った。
朝食とお祈りをすませてから勝氏の家に新年のご挨拶に出かけた。
しかし、あちらはまだ支度ができあがる前だった。
七郎は早くから身支度ができていたが、おせきは縮緬の着物や一番上等な簪を並べるところだったし、他の方たちもまだ支度ができていなかった。
やがてお母様が皆さんに「支度をするように」と仰ったので私は帰ってきた。
間もなく梅太郎が、つるつるに磨いた顔に、五つの紋を染め抜いた灰色と黒の着物を何枚か着て、その上に茶色の袴をきりっとつけ、真新しい下駄を履き、手袋をはめて父上の家から出て来た。
もう、すっかり一人前の紳士のようだ。
紋付きの袖に通した腕を組み、十六歳の青年にできる最上の威厳のある足取りで、いつも寝起きしている姉上のお夢さんの家に行き、恭しく案内を請うた。
家に招じ入れられると、初めて上がった家であるかのように、畳の上にサムライのように厳かに坐った。
老婦人と娘さんがかまぼこなどを載せた新年のテーブルを持ちだして来て、まるで王子様にするように、お坊ちゃまに深々と頭を下げ、新年の挨拶をした。
お坊ちゃまはこれに対する返礼の挨拶をし、同じように深く頭を下げた。
これは私たちには非常に不思議に思われた。
何故って、梅太郎はいつもこの家で寝起きしているのだから。
一日中私たちのところにも来客があり、ありったけの茶菓を出してもてなした。
屋敷内の婦人たちはみんな訪ねて来て「おめでとうございます」と挨拶した。
お輝としげのは素晴らしい衣装で来て、一日中アディと遊んでいった。
私は今はじめて、疋田氏の父上が旗本の本田公であり、疋田氏も殿様であることを知った。
それだからお輝も大名の家族らしい衣装を着けても構わないのだ。
同じく疋田家の玄亀は可哀想に風邪をひいて、折角の祝日を床の中で過ごさなければならない。
おせきは豪華な衣装であったけれど、羽根をついている間に鼈甲の簪が落ちて壊れてしまった。
お逸もすっかり美しい衣装だった。
女の使用人たちさえ今日は淑女のように見えた。
うちのタケまで新しい着物を着て気取っていた。
高木氏もみえたが、私たちに散々からかわれた。
お酒を相当飲んで来られたので、羽根つきをさせられ、失敗するたびに顔に隅を塗られたのだ。


1879年1月2日 木曜日 
お正月の二日目となると、あまり早くは起きなかったが、昨日と同じようによく晴れた一日だった。
午前中に何人かのお客様がみえた――伊藤氏、田中氏、富田氏、村田氏、滝村氏など。
母とウィリイは加賀屋敷に出かけたので、私は一人留守番をした。
午後になって落ち着きかけたところへサイル先生が幌付き人力車に乗っておいでになり、日本音楽についての私のエッセーを見たいと仰った。
前にディクソン氏には辛い点を頂戴したものだったが、サイル先生は大変よく書けていると褒めて下さった。
「ボストンに送って印刷して貰うようになさい」
先生がそう云われたので、多分そうすることになるだろう。
それから、マレイ先生が福与氏と一緒にみえて、勝氏の昔の実力のことを話された。
「でも今では隠居なさって、骨董品や文学の趣味に耽っておられます」
箕作氏も来られたが髭を剃ってしまったので、はじめ誰か分からなかった。
いろいろお話になったのだが、こんな事を知らせて下さった。
東伏見宮がクララさんたちに会いたいと仰っていますよ」
この後ポート氏、レーシー氏、ターリング氏がみえ、その次にアンガス氏がこの上なくスマートな出で立ちで訪ねて来られた。
私はあまり大勢の若い男性方がみえたので困惑し、何を話題にしていいか分からなかった。
そのうちに、はじめの三人が帰り、アンガス氏だけが残った。
「私の言葉に訛りがありますかね?」
そう聞いておいて、私が曖昧な返事をすると彼は次のように続けた。
「ディクソンは自分に訛りがないつもりで、ユーイングの訛りを笑っているが、スコットランド訛りのないスコットランド人なんているものですか」
この後、中原氏が和服姿でみえたが、とても立派だった。
昨日から私の風邪が悪化して、胸が苦しくて、横腹が痛む。
薪が無くて、火を燃やすことができず、寒かったので私は早く床に入った。
母はアディを連れてショー氏のお宅へクリスマスツリーを見に行き、楽しい時を過ごした。
しかしその帰路、母とウィリイは危ない事故に遭った。
知らない人力車を雇って出かけたところ、別の人力車に衝突して、こちらの人力車が後ろ向きにひっくり返り、母は背中を痛めたのだ。
でも、その程度ですんでほっとした。


1879年1月4日 土曜日
私は風邪から肺炎になりかけて二日間寝たきり。
とても苦しくて、今夜初めて床の上に起き上がっている。
ウィリイはゆうべグレイ氏、アンガス氏、タムソン氏、バー氏と一緒にディクソン氏のところへ招かれた。
母の留守中には大勢の客がうちにみえた。
トルー夫人は床の中でお目にかかった。
おうちへ招かれたが、当然行くことなんて不可能。
タムソン氏も来られたが、勿論寝ているので会わなかった。
次にミス・ホアとショー氏がみえたが、私の部屋にはお逸と村田夫人が来ておられたので、通さなかった。
後でシモンズ先生が診察に来て下さった。
新年早々不景気なことではある。
けれど、忍耐力を養うことができたとすれば、病気も神様の栄光のためになったかもしれない。
というわけで、母がクリスマスにくれた綺麗な祈祷書を今日は読んだ。
夕刻おいでになった高木氏は次のような句をお作りになった。
元旦や 空にいっぱい 鶴の声(The air is full of congratulations)