Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第75回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分明治10年8月分明治10年9月分明治10年11月分明治10年12月分明治11年1月分明治11年2月分明治11年3月分明治11年4月分明治11年5月分明治11年6月分明治11年7月分明治11年8月分明治11年9月分明治11年10月分明治11年11月分明治11年12月分明治12年1月分明治12年2月分明治12年3月分明治12年4月分
今回分は「クララ、按摩さんを初体験」「クララの横浜小冒険」、そして「ホイットニー家で説かれるキリスト教の教え」の話がメインとなります。今回分はキリスト教色、濃い目です……が思わぬクララの“暴言”もw。


1879年4月13日 日曜日 
復活祭。
外は雨で陰鬱だが、私たちの心の中は、その昔の神のしもべのユダヤ人のように明るい。
母は出かけられないので、ド・ボワンヴィル夫人と芝教会へ行った。
今日は家の者は誰も築地へ行かなかった。
礼拝の出席者は多く、ユニオン教会から来ている人も幾人かいた。
説教はショー氏で、復活にちなんだ良い話をなさった。
だが一番素晴らしかったのは、私が初めて参加した聖餐式だった。
四人ずつ祭壇に跪いて聖体を受けるのだが、ショー氏は真剣でとても厳かな式だった。
ド・ボワンヴィル夫人、ミス・ワシントン、私、ディクソン氏、それにもう一人知らない人が一緒に跪いた。
午後は母の痛みを和らげるために、背中をさすってあげるのに忙しかった。
その後、ひどい雨と寒さの中を芝に行くには行ったが、いつものように日曜学校で教えることはしなかった。
私の生徒が三人いたが、この前の日曜に習ったことをよく覚えていたようだ。
お互いに段々気心が知れて、少しずつ面白くなってきている。
天気が悪いので、夜の会に津田氏の生徒が来るとは思わなかった。
が、賛美歌を歌っていると時間通り七時に津田氏が入って来た。
勝家からは三人、夕食に来ると約束していらした松平氏もみえたので、大勢になった。
初めのうちは恥ずかしがって、母がちょっと喋ると、あとはシーンとしてしまった。
「何か云うことはありませんか?」
津田氏もそのたびにそう聞くと、やっと一人が手を挙げた。
「先生、思っていることがあるのですが、話してもよろしいでしょうか?」
彼はそう云って、信仰についてたとえ話をした。
「銀座で勤めていた時、おじいさんが、砂糖の作り方を是非知りたいと云ってきたことがあります。
それでその製法の出ている本を買って、一緒に砂糖を作ってみました。
ところが長い時間かかってやっと出来上がったのは砂糖ではなくて、薄いシロップでした。
おじいさんはひどくがっかりして、この本は間違っているからもう駄目だ、と諦めてしまいました。
今年になってたまたま本を手に取ったので製法をもう一度みてみましたら、一番大切なものを抜かしてしまったことに気付きました。
それでもう一度おじいさんを呼んでやってみたら、今度はちゃんとしたものができました。
これは聖書を読む場合も同じです。
すっかり分かったと思っても、よく読んでみると一番大切なこと、つまり聖霊ということをおざなりにしていたことに気づきます」
この学生はもう一つ話をしたが、私には曖昧ではっきり分からなかった。
「科学のみで宗教のない日本は、片方の車輪しかない人力車のようなものです。
宗教があってはじめて科学は、日本を真の文明へまっすぐ導いてくれるでしょう」
津田氏はそう締めくくった。


1879年4月15日 火曜日
オーシャン号で、アメリカからの便りが昨日の朝着いた。
アラスカ号は四十日もかかっているが音沙汰無しだ。
このぼろ船に乗るのはまったく命懸けだ。
キャンベル氏が教えて下さったお陰で、乗らずにすんだのは本当に幸いだった。
入港予定日に着いたためしはないし、ホワイト・スター・ラインの船なら十八日から二十日で来る荷物が、まず三十日はかかる。
一番早い東京号は十四日で来るが、チャイナ号はアラスカ号と似たり寄ったりだ。
ゲーリック号、ベルジック号はオーシャニック号の姉妹船だ。
届いたのはフィッツジェラルド夫人、ドクター・ワード、ブルース氏、ジョー・ランキン、ビールズ夫人、ウォルター・モリリッジからの手紙の他、新聞などもあった。
ブルース氏は印刷して貰うためにフィラデルィアに送ったユーイング氏のダーウィン説に関する論文のパンフレットを送って下さった。
故郷からの便りは大変嬉しい。
しかし「よいことは重なる」と諺に云うから、おばさんやアリシア、もしかしたらミス・ティクナーの手紙も海上<さもなければ海中>かも知れない。


1879年4月16日 水曜日  
母のアンマには、家の者も興味を持っている。
勝家の人たちが上手だと云っていつも呼ぶ目の不自由な男の人だ。
頭を剃り、落ちくぼんだ目を閉じていて、見た感じは悪くない。
いつも風邪をひいているような、低いかすれ声でしゃべる。
昨日門を入ってきたら、ヨシとコマの二匹の犬が、頬を頼りに道を歩いている怪しげな奴だとばかりに吠えかかった。
按摩さんの方は、獰猛な犬が何匹いるかも分からないので、大声をあげて立ち止まり、頭の上で杖を振り回して飛びはねていた。
シュウが急いで飛び出し、犬を追い払い、ペコペコ頭を下げてあやまり、按摩さんを中に入れた。
治療を始めると、猫がじゃれて飛びついたので、また吃驚してしまった。
「按摩さん、猫は好きですか?」
私が聞くと「はい、いま飛びついてきたのは猫でしょうか、犬でしょうか」と頭を低く下げながら云った。
犬だと思ったようだが「猫ですよ」と云うとおかしがっていた。
もう十四年も按摩をしているという。
いつも明るく笑ってはいるが、味気ない暮らしだろう。
この忍従の態度を取らせるものが、キリスト教ではないのなら一体なんなのだろう?
治療中、患者を手荒く殴るようにするが、とても気持ちがいい。
指はしなやかで柔らかく、やさしい感触だ。
頭に手拭いをかけ妙な揉み方をするが、やはりいい気持ちだ。
関節を鳴らしたり、耳に小指を入れポンと引き抜いたりするが、こちらはどうも厭な気分のようだ。
だけど、肩から下に向かって手を震わせるようにして揉みおろすのはとても効果がある。


1879年4月17日 木曜日
屋敷の周りを散歩していると、いろいろなひとに会いお喋りするようになる。
特にお年寄りには愛想よくするように努めている。
勝家の岡田夫人<御隠居様>に出会うと、二人同時に「毎日よいお天気で」とか「昨日は寒うございました」などと挨拶をかわすことになる。
「お母様は如何でいらっしゃいますか?」
「お陰様で大分よろしゅうございます。もうほとんどよくなりました」
「まあ、そんなにお早く。私が玄関の敷石を踏み外しました時に、何週間も寝ておりました。
もっとも年寄りは治るのに時間がかかるものですけれど」
「母は按摩がとてもよかったと申しております」
「おや、日本の按摩がお好きでいらっしゃいますか。
針を是非なさるとよろしゅうございますよ。痛みには針ほど効くものはございませんから」
「それはなんでございましょう?」
「針でございますか? 長い金の針を按摩さんが打ってくれるんでございます。本当に気持ちがようございますよ」
「まあ! 我慢できないほど痛くはないのですか」
「いいえ、ちっとも。全然感じません。
肩胛骨の丁度真下を深く刺しまして、ちょっと骨を掠めますと、とても気持ちよくなりませんです」
私は感謝したが「母にさせます」とは約束できなかった。
話題を変えるため、私は桃色の美しい花を一杯つけた大きな海棠の木を褒めた。
「でございましょう? この椿が大きくなったら庭の模様替えをするつもりでしてね」
御隠居様は喜んで滔々と庭の未来図を説明なさった。
まるでこれから何年も生きているような口振りだ。
……もう片足を墓に突っ込んでいるというのに。
按摩さんには今日聖書や神の話をしてあげた。
初めて聞いたので「セイショ、セイショ」と何度もつぶやいていた。
天地創造や、キリストの行った奇跡について話すと、驚いて「へえー、なるほど」と云った。
特にベテシダの霊泉の奇跡(ルカ伝九・十)に感銘を受けたようだった。
どうかこれを機会に神の道に入ってくれますように。
午後にフェノロサ夫人がみえた。
とても美しい方だが無神論者だ。


1879年4月18日 金曜日 
今日は一日中大変忙しかった。
朝食がすむとすぐ、母がシュウや田中に用事を言いつけるのを通訳するのに十時までかかった。
それがすむと梅太郎の勉強をみたが、よくできていた。
それから春物の服の入ったトランクが富田夫人から着いたので、整理するのにお昼を大分過ぎるまでかかった。
マギー・クレッカーが来て、アディは付きっきりだった。
そのうちお客様が次から次へと見えて、母はお相手した。
夕方勝夫人のところに母と伺った。
でも、すぐお客様で呼び戻され、楽しい話も切り上げなくてはならなかった。
事故以来初めての母の外出だ。
昨日の夜、神田でまた大火があった。
半鐘のけたたましい音に目を覚まし、窓から見ると、白い三日月も星も色褪せるほどの紅蓮の炎が空を赤々と照らしていた。
水曜の午後にも神田の近くの中橋あたりで大火があり、みんなで火の見櫓に上がって火事を見た。
だけど私の目は火事ではなく、美しい風景に釘付けになってしまった。
工学寮、ヤマト屋敷、鍋島屋敷、徳川家の広い敷地、いろいろな寺の美しい屋根。
遠くには高い五重塔などが見え、周りを紺青の海が囲み、その上には何千年の昔、賢い天皇が天から授かった不老不死の薬を隠したという美しい円錐形の富士山が聳え、素晴らしい景色だった。


1879年4月19日 土曜日 
母は昨日の晩、シモンズ先生のご指示を受けるため、私を横浜にやることにした。
それでド・ボワンヴィル夫人に、一緒に行って頂けるか手紙を書いた。
了承の返事が来たので、すぐに出かける用意をし、今朝夫人とマリーに停車場で落ち合った。
午前中にシモンズ先生のところへ行きたかったので、横浜に着いてから大忙し。
まずショーベー絹物店に行き、スモーキングキャップを見た。
マニング博士がド・ボワンヴィル氏より、シギを一羽多く撃って賭に勝ったので、贈り物にするのだ。
それからエドワードに行って、つけの精算をし、次に母の時計を取りに時計屋へ行った。
店主のフランス人はとても親切だ。
一ドル払うと、いつものように二十五セント割り引いてくれたのでチップにあげた。
「珍しく善良な人ですね」
ド・ボワンヴィル夫人はそう云っていた。
それからヴィンセント夫人の店へ押しかけたが、品数はひどく少なかった。
帽子はとてもおかしな形の麦蕎のと、フェルトのが三つ。春のファッションは来月フランス船が着くまで入らないという。
なんて待ち遠しい! 
ド・ボワンヴィル夫人は娘さんのマリーの写真を撮りにいらっしゃるので、ここで別れた。
それから典型的なアメリカ人の経営する典型的食料品店パイオニア・ストアに行った。
私が訪れたのは初めてだったけれど、母がよく話をするので、林檎の並べ方から碾いたコーヒーの匂いまでよく知っている感じがした。
イギリス人は「マーム」と「ミス」を使い分ける。
しかし、ブラス店主はアメリカ式に「マーム」と私にも呼びかけるので、懐かしくて、つい、ちょっと買い物に来た奥さん連のようにお喋りしてしまった。
アメリカだったらこんなことはできない。
必要なものは全部買い、ついでに途中で食べる棗椰子の実も少し買った<行儀の悪いアメリカ人!>。
住所を云ったが「全然分からないから紙に書いてくれ」というので、読み方もついでに教えてあげた。
周りの日本人はひどく面白がっていた。


シモンズ先生の家に行くと、お留守で三時までお帰りにならないという。
「では、野毛病院の方に行きます」
一番大切な用事は先生に会うことなのでそう告げると、先生のお母様に「食事をしてからになさい」と云われた。
食事中、お祖父様のお話相手をつとめると、ひどく喜ばれた。
まるで二十かそこらの若者のように振る舞って、ジップの首輪に付けた「俺はシモンズ先生の犬だ。お前は誰の犬だ」という自作の詩を大得意で見せて下さった。
それから庭を抜けて、ヘップバン夫人に会いに行った。
その途中、ウィリイに頼まれた小さなカップと受け皿をブラウア夫人に届け、そのお礼に夫人の飼っている鸚鵡に「バカ」と云われた。
ヘップバン夫人は、やさくし迎えて下さった。
ピンクの絹レースの帽子が、微笑む顔にぴったりと似合っていた。
「二階に行って荷物を置いていらっしゃい」
泊まるのかと思われて、そう仰るので「母が階段から落ちて云々」と理由を話した。
夫人はとても心配して下さり、書斎からヘップバン先生を呼んでこられ、くわしく症状などを聞いて下さった。
お二人が東京にいらっしゃったら、どんなによいだろうに。
野毛病院ではシモンズ先生から処方箋を頂き、大分安心した。
ウィリイがいないので、母の身体には私が気を付けなくては。
だがまったく経験不足だ。
三時十五分の汽車には乗りそこね、ド・ボワンヴィル夫人においてきぼりにされ、慌ててしまった。
東京、横浜間を一人で旅したことはなかったので、支えを全部なくして、この世でたった一人になった思いに。
ヘップバン夫人の家に戻れば、日曜までいらっしゃいと云われるので、とうとう決心して一人で帰ることにした。
乗客の中には二等切符を持った騒がしいドイツ人やイギリス人がいて困ったなと思っていると、なんと嬉しいことに、グリーン氏の穏やかな顔を見かけた。
「ああ、グリーンさん、これこそ天の助けですわ」
他の人をやり過ごして呼びかけ、事情を説明すると、騎士のようにバックや傘を持って下さった。
お陰で、それれまでは注意を惹いてはまずいと思っていた外国人たちでさえ、平気で見ることができた。
途中楽しくお喋りをして家に帰ると、新左衛門が私を置いてきぼりにした理由を報告した。
ド・ボワンヴィルの奥様がマリーが「ヤカマシイ」ので約束の四時まで待てなかったらしい。


1879年4月20日 日曜日
母は教会に行けないので、今朝はアディと二人で行った。
リーズ氏の説教は素晴らしかった。
ヨセフは何故自分が奴隷に売られたり、牢屋に入れられたりするのか分からなかったが、それが結局二つの国を救うこと救うことになったように、嵐の後には必ず上天気がくる。
だから私たちは神の恵みをどんな時でも信じ、神を愛さなくてはならない。
そう説かれた。
こんなに良いお話なのに来ている人が少なかったのは残念だ。
お昼からひどい雨になったので午後は芝に行かず、もっぱら母と梅太郎の相手をした。
そのうち銅鑼が鳴り、ディクソン氏がみえた。
夕食後、津田氏が奥様を連れて来られた。
奥様は日本人にしては素晴らしく力強いソプラノだが、ドを出そうとしてファシャープを出す変な癖がある。
勝家からは五人参加した。
英語の礼拝が終わると、津田氏が日本語で話をした。
「イエスの教えは喜びの宗教です。賛美歌も聖書も、楽しいとか、幸いなるかなといった言葉でいっぱいです」
そしてにこにこしながらマタイ伝五章を読まれた。
「日本や清国の良い詩と云われるものは全体物悲しくて、悲哀が深ければ深いほど秀でたものと考えられています。
ですから出てくるのも、死、涙、溜息、過去への哀愁といったものばかりです。
だが皆さん、聖書は真の喜びの根源であり、これを読んでみなければ、というよりキリストを信じ、真の幸福とは何であるかを知っているキリスト教徒でなければ分からないことなのです」
みんなは「本当にそうだ」とか「ナルホド」と相槌を打った。
次に津田氏の左にいた青年が、マタイ伝四章を見て欲しいと云い、キリストの誘惑を終わりまで読んだ。
「入信する前に、聖書で一番心を打たれたのはこの箇所です。
キリストは私たちに素晴らしい模範を示してくれたと思います。
人間が躓く欲望は三つ、それは食欲、誇り、野心です。
サタンを追い払ったキリストは、天国への道の妨げとなるこの三つのものに打ち勝ったのです。
私たちもこうありたいものです」
下手な話ですがこれで終わりですと最後にお辞儀をしてやめた。
この祈祷会が皆の役に立って欲しい。