Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第108回をお送りします。
なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回分からは、そろそろ本格的なクララ達の日本との別れの準備の模様がメインとなります。


1880年1月10日 土曜
今晩ほど騒がしいことはこの家ではかつてなかったと思う。
築地の宣教師たちが私たちを驚かすために不意打ちのパーティをしてくれたのだが、あまりうれしい驚きではなかった。
七時半頃にディクソン兄弟とウォルター・カーティスが来たというので、食堂にお通しした。
ディクソソ氏は来ることになっていたが、ウォルターはよく知らないのでちょっと驚いた。
それから銅鐘が鳴って、大勢の宣教師が来て、家の小さな客間はあふれんばかり。
客は一時頃に帰り、私はうんざりした気持ちで床に就いた。
こう思っては悪いのだろうけれど、祈りと神への奉仕に捧げられた我が家が、宣教師たちのやかましい振る舞いで汚されたような気持ちだった。
勝氏が騒ぎに驚いて、お酒を飲んで笑っていると思われないかと気が気ではなかった。
あの人たちはお互いには気が合っているのだが、私だちとは合わない。
クーパー氏、ライト氏、ショー夫妻、ミス・ホアといったような私たちと同じ考え方をする人たちとの静かな小さな集まりとはまったく違う。


1880年1月11日 日曜
今夜の会はいつになく大勢集まった。
富田夫人がみえ、藤島氏がまた現われた。
会の後、藤島氏は発言を求めた。
「この会に参加してから宗教に関心を持つようになり、今ではキリスい教を心から信じるに至りました」
それから、ディクソン氏やほかの方々が辛抱強く説明してくれたこと、そしてここで楽しい夕べを過ごしたことを感謝した。
クーパー氏がこの会が終わりになることについてしみじみと話された。
クーパー氏や尊敬するショー夫妻とお別れするのはとても悲しい。
アンガス氏もとても良い方だ。
アメリカ人より、私たちに親切にしてくれたこういったイギリス人のほうが私たちは好きだった。


1880年1月13日 火曜
今日は日本人の老婦人ばかりのひどく奇妙なパーティがあった。
最年少は六十五歳、最年長は八十一歳で耳が聞こえないといった人たち。
でも、とても楽しく、これほど満足な会はなかったと思うほどだった。
十一時にみえて、五時までおられた。
招待したお客は杉田夫人、岡田夫人、内田夫人のおば様と滝村氏の母堂。
この方はこれまで見た日本人の老婦人の中で一番美しい。
髪は雪のように白く黒目がち、肌はつややかで、老齢にもかかわらず背が並はずれて高く、腰も曲がっていない。
私たちはみな床に坐って相槌を打ったり、噂話に耳を傾けたりした。
めいめいが自分の年齢を云い、互いに髪、歯、目などを較べて、お世辞を云ったりした。
「滝村様、おいくつでいらっしゃいますか」
内田夫人のおば様がときく。
「六十五でございます。もう年寄りでございますよ」と滝村老夫人。
「おや、まあ、年寄りだなんておっしゃって。
おぐしは白うございますが、大変お若くお見えでございますよ。
髪は黒うございますが、私は八十一でございます。
耳も聞こえませんし、目もほとんど駄目でございます。
ほんに私のような用無しの年寄りは、足手まといになるだけでございますよ」
「そのようなことはございません、おきの様。
あまり物の役にはたちませんが、子供にとってはそばにいてもらう方がよろしゅうございましょう」
そう云ったのは滝村老夫人。
「あなた様のようにお子様のあるおしあわせな方はそうおっしゃれますが、私のような子無しではどうしてよいのやら」
「まあ、お子様かおありにならないのですか?」
「はい、残念ながらありませんのでございます」
「それではさぞお寂しゅうございましょう」
「はい。子供のいない家というものは、まったく寂しいものでござします」
「私は子供が三人、孫が五人おりますが、まあ騒々しくて、時々閉口いたします」
それから話は歯の話になり、滝村老夫人は、二本だけはグラグラしているが、後はみなまだ丈夫だと云った。
内田夫人のおば様は、物を食べるとみなグラグラするという。
岡田夫人は自分の歯は四本しか残っていないという。
食事は近くの茶屋から取り寄せた和食でとても楽しかった。
富田夫人、お逸、こまつも来て、食後にオレンジ・ゼリーとコーン・スターチ・プディングとを食べた。
老婦人たちはとても珍しがった。
「今日はこんな珍しい物をいただいて、きっと長生きいたします」
日本人は何か新しいことを聞くと「これで七十五日長生きができる」と云うのが口癖で、それでこう云ったのだ。
「私が日本に戻ってくるまで生きていてくだされば、もっと長生きできるようなものを持って参ります。どうぞ鶴と同じくらい長生きをして下さい」
そう母は言った。
皆大層喜んで、紫の座布団に坐ったまま深々とお辞儀をした。
杉田夫人だけは紫座布団が足りないので、ソファーの厚いクッションにぎこちなく坐っておられた。
食事が終わると、岡田夫人は云われた。
「こんなご大層なご馳走は食べたことがありません。おいしいものでお腹が一杯。
もっと三倍も食べたいのですけど、歳ですね。
若い時は一度に蜜柑なら十五は食べられたけれど、今は三つがせいぜいです」
私はこの善良な老婦人に写貞を下さいと言ったが、彼女は笑って断られた。
「私のひどい写真を、一体どうなさるおつもりですか?
七郎はよく私に写真を撮れと申しますが、私が死んだら、孫たちには話だけをしてくれればよいと云っております。
みっともないお婆さんの写真なんぞ見れば、馬鹿にして『なんてひどい顔だ』と申しますでしょうから」
私は笑って「それは違います。私は本当にあなたの写真が欲しいのです」と言った。
「姪に持って行ってやりたいから卵、魚、豆、菓子を紙につつんで持ち帰りたいのですが」
内田夫人のおば様はそう言われた。
食後、私はオルガンを弾いてあげたが、これでまたこのご老人たちは七十五日長生きする訳である。
内田夫人のおば様は私の椅子に両腕をもたれかけて座り、すっかり聞きほれたような様子で、何度も何度も云われた。
「いいものですね、日本音楽よりよろしゅうございます」。
それから歌を歌ってほしいというので、讃美歌を最初、英語で二、三曲歌い、次に日本語で歌った。
内田夫人のおば様はとても喜んで、この歌を覚えたいという。
そこでお逸と私は彼女の耳もとで歌詞を大声で繰り返した。
しかし、どうしても「イエスを愛す」が「エシュあいこ」に、一番の「帰スレバ子タチ」が「こたつ」にしかならなかった。
震え声をはりあげて私たちといっしょに歌うのがひどくおかしかった。
でも、とても上手で皆にほめられた。
勝夫人が入ってきておば様の背を軽くたたいて云われた。
「まあ、おばさん、お上手だこと。
あなたのようなお若い方が歌う時は、私たち年寄りは後ろに控えていなくてはなりませんね。
でもクララさんに教えてくださるようお願いしなくては。
オルガンの音が聞こえたら駆けつけていらっしやいませ」
「ああ、あなた、ご存じのとおり耳が聞こえませんでね」
気の毒に、彼女をも愛しておられるイエスの存在も知らずに、賛美歌を歌っている姿を見て胸が熱くなった。
「まあまあ、外国人がこんなに愛想が良いとは思いがけませんでしたね」
老婦人たちはそう言い合いながら帰っていった。


1880年1月14日 水曜
今日は本式のおもてなしを受け大層なご馳走だった。
大鳥、津田、村田、高木氏たちが久保町の売茶亭に招待してくださった。
食事は日本式のフルコースのあとに洋風のものが出、一時から三時半までかかった。
ありきたりのつまらないものだったが、「日本のクリスマスツリー」と説明されたものは、とても面白かった。
一月に子供に贈り物をするのが日本の風習だという。
集まった子供たちは、それぞれ長い紙のくじをひき、くじに書いてある番号のおもちゃをとる。
一番は大きなおかめの面で、これに当たった子は面をつけて踊らなくてはならないが、そうすると一年間幸福でいられる。
おひなさんがおかめに当たったが、踊るのはいやというので、父親の大鳥氏がお面をつけてジッダに似た踊りをして皆を喜ばせた。
大鳥、津田、林氏のお子さんや、ほかのいたずら小僧たちも目を輝やかせて、賞品の一杯のせてあるお盆の方を眺めた。
母がひいたのは、絵の取り外しがきく素敵な掛け物で一番よかった。
シモンズ博士は化粧道具箱で、髪油、紅、白粉、歯磨き粉、歯ブラシ、派手なかんざし等が入っていた。
私は、はたき――引っ越し準備にすぐ使える――、漬物一瓶、それにシモンズ博土と同じような化粧道具箱と絹地に描いた可愛らしい絵をもらった。
アディも「ちょうどほしいと思っていたもの」をもらって大喜びだった。
それから後、またいろいろ面白い趣向があった。
綺麗な少女とその師匠が二弦琴で美しい曲を弾いた。
薔薇色の頬をした干供が二人、すまして「万歳」を踊り、手品師が私たちを驚かせた。
中でも面白かったのは、五センチぐらいの幅の普通の麻の皆帯を畳の上でクネクネさせていろいろな形をつくったことで、津田氏はこれで「Welcome」とか数字の、1,2、3ができるのではないかと言った。
もう一つの芸は玩具のだるま五、六個を、引き出しのついた箱にしまって見えなくしたり、紙吹雪に変えたりするものだった。
また、長い紙切れを燃やして、灰の中から紅白の傘を取り出したりした。
手品師は紅白の縞の服を着た、好感の持てる顔をした男で、手練の業は素晴らしかった。
白い紙の蝶を扇子、花、湯呑の縁にとまらせて、まるで生きているかのように踊らせる蝶の芸は最高のできだった。