Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「帰ってきたクララの明治日記 超訳版」第8回をお送りします。
なお前シリーズの過去ログは、以下のように収納しております。
明治8年8月分明治8年9月分明治8年10月分明治8年11月分明治8年12月分明治9年1月分明治9年2月分明治9年3月分明治9年4月分明治9年5月分明治9年6月分明治9年7月分明治9年8月分明治9年9月分明治9年10月分明治9年11月分明治9年12月分明治10年1月分明治10年2月分明治10年3月分明治10年4月分明治10年5月分明治10年6月分明治10年7月分明治10年8月分明治10年9月分明治10年11月分明治10年12月分明治11年1月分明治11年2月分明治11年3月分明治11年4月分明治11年5月分明治11年6月分明治11年7月分明治11年8月分明治11年9月分明治11年10月分明治11年11月分明治11年12月分明治12年1月分明治12年2月分明治12年3月分明治12年4月分明治12年5月分明治12年6月分明治12年7月分明治12年8月分明治12年9月分明治12年10月分明治12年11月分明治12年12月分明治13年1月分明治15年11月分明治16年1月分明治16年2月分明治16年4月分明治16年5月分


1883年6月2日 土曜
勝夫人が昨日の朝お赤飯を届けてくださった。
それは大層みごとな箱に入っていて、美しい刺繍のある袱紗がかけてあった。
小鹿さんの健康が恢復したので、病気中のお見舞いに対する内祝なのである。
ちょっとたってから行ってみると、およねが大きな桶に入っている赤飯をかきまわし、七郎やヨシなどがそのまわりに立って、お見舞いをくださった人々へそれを持って行くよう待ちかまえていた。
勝夫人と、小鹿さんの奥様が後ろの部屋で塩を包んだり、礼状を書いたりしていた。
今朝、私は疋田夫人と婦人祈祷会に永坂へ行った。
途中杉田夫人と、およしさんを誘って一緒に行った。
杉田家は美しい新築の家が完成したばかりで、それを見るのは初めてだ。
杉田夫人は私たちにおいしいご馳走をしてくださり、家中を見せてくださりこう云われた。
「貴女のお母様にこれをお見せできる時を楽しみにしていたのに」
母がいろいろ夫人の持ち物や、台所までも見て喜んでくださったであろうともおっしゃった。
このことを先日杉田夫人が家族の人たちに話していたら、六蔵さんがこう云ったそうだ。
「そうだね、ホイットニー夫人がこの新しい家をご覧になるのはよいけれど、今は天国のそれはそれは美しい家にお住まいだから、この家なんか貧弱に見えるだろうよ」
会は二十名足らずの婦人が出席して、とてもよかった。
私以外は全部日本人であった。
その家の主は未亡人のクリスチャンで家の様子からみて裕福らしい。
私たちは議題としてイエスの誕生をとりあげた。
婦人たちの熱心さは驚くべきものであった。
そして男性をまじえずに、女性だけで会が開けたことを喜んだ。


1883年6月12日 火曜
今朝私は昨年の日記を見て、去年の六月のことを思い浮かべていた。
何かとても昔のことのような気がする。
その頃には父も、母も生きていて私は十分に満ち足りていた。
私は別の生き物のような気がする。
何もかもまるで変わってしまった。
しかし私はこの春にはあんなに悩まされていた苦痛から今は解放されているのだと思うと慰められる。
ウィリィが胸膜肺炎になり、起きられないでいる。
非常に苦しいのだが、長く床についていてとてもつらい割には、辛抱強くしている。
アディもひどい風邪で家に閉じこもっている。
このようなわけで病人を扱う経験がますます増えた。
病人の看護は私にとってなかなか努力が必要なので、これもまた神の思し召しなのだと時々思ったりする。
私が病を恐れ嫌うので、その罰として神が私をそのような境遇におき給うのではないかと恐れたりもする。
今のところ自分がすぱらしい健康に恵まれていることはありかたい。


1883年6月19日 火曜
ユーイング夫人が来週土曜日に出発されるので、その前に一度お目にかかりたいと思って、先週土曜日に加賀屋敷に出かけた。
本当によい訪問であった。
それから健康を害しておられるフェノロサ夫人をお見舞いした。
夫人はとてもやさしく、母のことをいろいろ親切に話してくださった。
夫人の話によると、丁度二ヵ月前あの悲しい日に、フェノロサ氏は日本人クラブのディナーに出席し、日本人たちの悲しげな顔を見て大いに心を打たれた。
日本人の大部分は入ってきて眼に涙をうかべ「お葬式に行くので失礼します」と言ったそうで、フェノロサ氏は彼らの深い悲しみに感銘をうけたそうである。
小崎弘道氏は日曜日の夕方ここで説教した。
集会の前に話しあった時、彼は勝氏が母の生涯と、その静かな臨終に示されたキリスト教に非常に感銘をうけたという話をなさり、こう云われたそうだ。
「臨終の時あのような静かな力をもち、あれほど子供たちによく本分を守らせているのは、信仰の力にちがいない」
小崎氏によれば、勝氏はキリスト教について話をすることに常に興味を持ち、かつ喜んでおられるそうだ。
小崎氏はまた、実例の力について勝氏の言われたことを話した。
えらい賢者たちの説明より、幼子の生命のあかしのほうが勝氏にとっては、強い影響力があると言われたそうである。
小崎氏は、また次のように言われた。
「日本人のためには平信徒の伝道活動が最も大切である。
日本人はどちらかというと、宣教師より平信徒の言うことをよく聞くから、平信徒の方が、日本人の心によりたやすく訴えることができる」
小崎氏自身も、平信徒のキャプテン・ジェーンズという人によって改宗した。
この友人のジェーンズに注目していた当時、それが宣教師だったら、耳を貸す気にはなれなかったであろうと。
またある人は、信州に一つ教会を建てた。
少なくともそのきっかけを作った。
つまりその人は、弟子たちのうち数名を改宗させ、そしてこの人々はのちに日本国中で最も大きく、最も栄えた教会の一つを建てた。
しかもその人はこの地に僅か六ヵ月しかいなかったのである。
その数ヵ月を何と効果的に過ごしたことであろう。
日曜日はアディの誕生日であった。
たまたま母の亡くなった命日の十七日であるが、私たちはこの日をできるだけ楽しいものにし、妹に、わが家の光がなくなったことを淋しく思わせないように努めた。
昨日はトルー夫人とクレッカー家の人たちが、今夕は勝家の婦人たちが来られた。
私に新しい生徒ができた。
お父様の献吉氏が朝鮮の釜山浦で総領事をしている前田嬢で、なかなか有望のようである。


1883年8月8日 
ほんの一年前の今日、私はなんと豊かで幸福であったことか。
そして今は貧しくとり残されて。
私はスコットランドにいたのである。
あの美しいスコットランドに。
クライド川をのぼってアランヘ素敵な旅をしていた。
私はあの雲一つない美しい日を、静かにゆく流れを、そして私たちのうきうきした気分を、絶対に忘れることはできない。
ほのやさしいおだやかな顔、ディクソン氏の快活な打ちとけた笑い、我が心の快楽への完全な没入。
しかし今は、私の、そして逝き給うた母の環境は、なんと変わってしまったことか。
母は現在更に輝かしい空を、一層美しい丘を、そして、流れて行く清澄な川を見ている。
母は栄光のうちに、あの日のことを記憶しているであろうか。
母は自分の「朱筆日記帳」に特筆すべき日として赤文字でその日付をつけさせたことを。


きのう私たちは朝鮮の公使たちにおもてなしをした。
お客は五名で、明るい色の紗のような布地の服を幾重にも重ねてある特有の民族衣装をつけて、背丈が高く立派な容姿の人たちであった。
ところで、公使自身は皇太子の令息であるが、ピンクの袖のついた孔雀色の青い衣服を着、馬の毛でできている大きな丸い帽子を被っていたが、その帽子の山はとても小さくて高かった。
宰相の令息である副公使は全部青の紗をまとっていた。
そのほかに司教冠のような形の帽子をかぶり灰色の衣服を着た人が一人と、白い衣服の人が二人いた。
主要な人物たちは一連の琥珀の玉を帽子につけ、それが顎の下を通り結び目は腰のずっと下の方までぶら下がっていた。
彼らの毛髪は頭の上でたいそう入念に結ってあり、すき通って見える帽子の下で真直ぐに高く立っていた。
中に日本語を話せる人が二人いて、私たちはその人たちと口をきいた。
彼らの発音はなんとなく違っていたが、それでもかなりよく通じ合えた。
その中の一人は特に私に対して丁寧で、築地のお宅に招いてくださった。
公使自身も私に朝鮮へ来るようにとおっしゃった。
私はこの著名な方たちに紹介された時、何と云ったらよいのかよくわからなかった。
日本語を頭に浮かべて「ミナサマ、ヨクイラッシャイマシタ」と言ったところ、彼らは私の日本語がよくわかり、非常に嬉しそうに見えた。
私が幻灯の用意で忙しくしていた時、白い衣服の紳士がごく自然な態度で「ゴクロウサマ」と言った。
ココ榔子の実があったので、それをお客様のお慰めにと割った。
ウィリイが二つの穴、いいかえれば二つの眼をくりぬいて、それを割った時、彼らは笑いながら「痛くて泣いているのです、この果汁は涙ですよ」と言った。
私たちは一行をもてなして、とても楽しい時を過ごした。
そして皆が誠に礼儀正しく、心からもてなしを受けてくれていることを知った。
一行のうちの一人は兄のオックスフォードの帽子に興味をもち、それをかぶってみたりした。
そして、ウィリイにも自分の奇妙なかぶり物をかぶってみるように、と言って渡した。
ウィリィは日本の医療伝道師を朝鮮に送りたいと切望し、日本が東洋の伝道者になるべきだという考えを抱いている。
この案はもともと母から出たもので、私たちは母のためにペストを尽くして、それを実行に移したいと思っている。
四人の朝鮮人は身に相当の危険があるのだが、すでにクリスチャンになっていた。