Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

「帰ってきたクララの明治日記 超訳版」最終回も解説はいつものように、お逸(勝逸子。勝海舟三女)とユウメイ(中国系アメリカ人初の正式な女医)に。
最終回は「その後のクララ」について語ります。


【帰ってきたクララの明治日記 超訳版解説 最終回】
「第一部110回、第二部17回。その他、総集編数回。
今回をもちまして、クララの明治日記 超訳版は完結となります。
最後までお付き合い下さった方々、どうも有り難うございましたm(_)m」
「ホント、最後まで見捨てないでくれて、ありがとねー。
やー、まさか本当に完結するまで続くとは思わなかったよねー、私たちの掛け合い漫才」
「そっちの方ですの!?」
「最初はブログ主、シラフでこんな“寒い企画”書けなくて酒の勢いで書いていたのに、今じゃ、その日解説するテーマだけ決めたら構成も何も本当に一切考えずに“私たちの好きなように喋らせているだけ”だってさ」
「……そんなノープラン解説で、お見苦しい点が多々あったかと思いますが“親しみやすい解説を目指した”ということでご容赦くださいませm(_)m。
さて、前振りはこれくらいにして、本題に入りますわよ。
この後、クララは日記を付けるのは一年に二日程度、クリスマスの日などに育児日記的に書きとめているだけのようで、原本でも紹介されていませんわ」
「長男の梅久君(ウォルター)を筆頭にこの後は、もう年子みたいなものだものね。
長女の和気ちゃん(アデライン)、次女の喜乃ちゃん(ウィニフレッド)、三女の幸ちゃん(ノーベル)、四女の礼ちゃん(エルザ)、五女の勇ちゃん(ヒルダ)の計6名。
ちなみに、日本名の名付け親は全部うちの父様だったり。
女の子に“勇”ってどうなのよ? って思うけど、女の子に男的な名前を付けるのは、父様の名付けの時の癖みたいなものね。
うちの二番目の姉様にも、二つ名だけど男名前つけてるし」
「クララが殆ど書くことのなくなった日記の、最後にはこれだけ記してあるようですわ。
『1891年(明治24年)12月11日。
メーペル1歳となり、一ヵ月前から歩き始める』
本当にメモ程度ですわね」
「子育て大変だったようだからねぇ、亭主がロクデナシで、ろくに働きも子供の世話もしなかったから。
流石は現代から130年先駆けて誕生した明治のニート!」
「貴女の弟でしょうが!?」
「…………面目次第もございません。。。
で、最初木下川の別荘で新婚生活をしていた梅太郎とクララだけど、そのうち父様が建ててくれた屋敷内の家に住むようになります。
流石に父親になってニートではいられなくなった梅太郎は横浜のドック会社に勤務するようになるんだけど、週末にしか帰って来られない、ということもあったものの結局長続きしなくて、続いて東京の製綿工場で働くことに。
丁度この頃、クララは一男二女の母になってたんだけど、家計の上からも梅太郎だけに頼れなくなって、明治女学校で教鞭をとりはじめます。
この頃のクララについては津田梅子さんとの手紙のやりとりが残っているので、この“ラノベ風に明治文明開化事情を読もう”シリーズで津田梅子さん関係の記録を取り上げることがあったらその際に紹介したいと思います。
二人の働き場に近いというので、飯田町にある家に移ったんだけど、あまりにもみすぼらしい家だったので、また屋敷内に戻ってきて、父様が建ててくれた別の家に住みはじめます。
ということで、また勝の屋敷地内に戻ってきたことで、この頃のクララや梅太郎のことが勝家の親族――私の娘を含めて――の証言として残っているんだけど、本当に梅太郎はロクデナシだったみたいね。
髭をはやしていたので、勝家の子どもたちから“チョロヒゲ”なんてあだ名を付けられて、背が高くて、いつものっそりしていて、それでへんに威張っていて、のらくらしていたというのだから、小さい頃勝家に下宿していたうちの娘もボロクソに証言してるわね。
クララのことは“本当に綺麗な人でした”とも云っているけど」
「本当に苦労したようですわね、クララ。
それでも庇護者としての勝海舟氏が存命だった頃は良かったのでしょうけど……」
「……うん、明治32年、つまり1899年1月21日。父様、77歳で亡くなってしまったからね。
その翌年の5月、クララは子供たちを連れてアメリカに帰っていきます。駄目亭主を残して。
この決断については、父様の存命中にもう許可を取ってあったみたい。
第二次大戦後、クララの日記を日本に持ってきてくれたのは、クララの末娘の勇――ヒルダ――なんだけど、そのヒルダの自伝にはこんな風に書いてあります。
『私は、私たちのアメリカ行きが、勝のお祖父さんによって、許されたものであることを知っています。
お祖父さんは、西洋に深い共感をもっているお祖父さん自身がいなくなったら、アメリカ風の考えで育った私たちが、日本での生活について行かれないのではないかと、思っていたからではなかったでしょうか』
ま、梅太郎、生活能力ゼロだったしね、クララとしては、父様亡き後、たみ義母様に頼るわけにもいかず、やむにやまれない選択だったと思うよ。
それでもクララ、子供達には梅太郎の悪口は言わなかったみたい。
同じくヒルダの自伝にこうあるの。
『母からは、海舟のことを、非常に理想的な人のように聞かされていたが、実父梅太郎のことについては、母はまったくといってよいほど触れなかった。
よその父親のするように家族の面倒を見なかったことは、子供心にも判っていたが、母は、別段、彼に対して怨みがましいことは言っていなかった。
大人になると、私も父の立場から見ることができるようになって、彼の仕打ちを責めることはやめた。
母が私たちを合衆国に連れてきたことは、やはり正しかったのだと思う』


アメリカに戻ったクララは、サンフランシスコに上陸し、陸路大陸横断の長旅をして、ペンシルバニア州のブルームスパークに落ち着きます。
知人縁者が一人もいないのに、ただ有名な州立の師範学校があるというのを頼りに、環境のよい小さい学校の町を選んだみたい。
この町にいる間に、クララは子供たちを、思いきり自然に溶け込ませ、彼らに自然に対する愛を教えこんだんだって。
クララの日記を手に日本にやって来たヒルダは、驚くほど草や花の名を知っていたんだけど、みんなこの時に教わったそうよ。
その後もクララは家事の傍ら、日本のことを書いたり講義したりして稼ぎ、これから六年の後、同じ州のスクラントンに移ります。
クララたちの生活費の基礎は、勝家と親戚が毎月出しあって送ってきた金50円だったんだけど、勿論それでは足りず、クララがタイプなど手内職で補充していたらしい。
長男のウォルターはマサチューセッツで仕事をするため家を離れ、一家は更にボルチモアに移ります。
その後のクララの子供たち――うちの父様からすれば孫、私からすると甥・姪だけど――の経歴はこんな感じ。
長男のウォルターは工業技師となり、第一次世界大戦には志願兵として参戦。
長女のアデラインは美術関係の仕事をしつつ、美術学校の教授と結婚。
次女のウィニフレッドは正看護婦となり、ボルチモアの有名なジョソズ・ホプキソズ病院に勤務。
三女メーベル、四女エルザ、五女ヒルダはともに美術関係の仕事につき、ヒルダは1930年に結婚。
クララは、ずっと、このヒルダの家にいて孫たちの世話をしたそうよ。
だからクララの日記がヒルダの手元に残されたわけね」


「一方、貴女のロクデナシな弟はどうなりましたの?」
「僅かばかりの実績と言えば、明治40年7月には『海舟日誌』という単行本を出版したことくらいだけど、編集兼発行者は巌本善治氏という有名な父様の記録者だから、実質これは梅太郎の仕事じゃないよね。
クララたちの帰米後、離婚のやむなきを覚って、しばらくして榎本武揚小父様の縁戚にあたる田崎このさんを後添えとして迎え、芳子、勝利、安善という一女二男をもうけます。
ちなみに長女の芳子さんは寺村銓太郎という人と結婚。
更にその娘として、倫子さんという子が生まれるんだけど、二・二六事件に巻き込まれて十六歳で留置場に放り込まれたり、長じて医師となったのだけど、終戦時にはハルピンにいてロシア語が堪能だったため、殺到してきたソ連軍の将校とやりあって現地に取り残された多くの日本人を助けることになったり、後に帰国してからは日本女医会会長となり、様々な福祉活動を行うことになるのだけど、それはまた別のお話」
「……本当に勝家の血筋は波瀾万丈ですわね」
「で、梅太郎の話に戻ると、梅太郎の親友に杉浦重剛って人がいて、この人、国粋主義者として有名で、後には昭和天皇の教育係も務めることになる人なんだけど、この人の推薦で侍従や東京市長候補の声もあったんだけど、生来の物ぐさのあの子がそんな面倒を引き受ける筈もないわけで」
東京市長候補って……そんないい加減な人事でいいんですの!? 
というより、どうしてそんな国粋主義者と駄目人間が親友に!?」
「さあ? 父様の関係からしか思いつかないんだけど、杉浦氏と父様の思想とが違いすぎて全然想像が付かないんだよね。
向こうは一方的に父様を尊敬していたみたいだけど、実際に面識があったのかどうか」
「梅太郎君を東京市長候補に担ぎ出そうとしたのはその辺が理由ですわね」
「御輿にするつもりだったのかな? 流石に御輿としても梅太郎じゃ、軽すぎると思うんだけど。
それはともあれ、うちに出入りしていた誰かを通じて梅太郎と知り合ったことは間違いないと思う。
杉浦氏、父様と同じで門下生がとんでもなく多い人だったから。
ちなみに横山大観鏑木清方などの超有名日本画家や、吉田茂河野一郎など大物政治家も杉浦氏の門下生だったらしいよ」
「本当に不思議な時代ですわね、明治という時代は」
「それで梅太郎がどうなったかと云えば、晩年はまさに落塊の生活で大正14年、1925年3月に東京で病没します。
一方のクララは、フィラデルフィアからほど近いメディアという町のヒルダの家で、1936年12月6日、脳溢血で亡くなります。
結局、クララの日記の主要登場人物で、第二次大戦後まで生きたのは私だけみたい」
「……クララとしては幸せだったかも知れませんわよ、日本とアメリカの戦争を見ずに死ねたことは」
「その第二次世界大戦中のことだけど、クララの子供たちは温かい隣人や友人の庇護で、別段の迫害も受けず、ウォルターはカジを名のり、ヒルダもヒルダ・カジ・ワトキンズを名乗り通したそうよ。
ともに、日本の偉人海舟の子孫であることを誇りとしていたからだって」
「……さて、語ることはまだいくらでもあるようですけれど」
「随分長くなっちゃったからね、そろそろ締めに入ろうか」
「幕末維新期。数多くの外国人が日本を訪れ、当時の日本と日本人について記録を残していますけれど、その中でもクララの日記はとりわけ異彩を放っています。
それはまた十代の少女の、日本を見たまま感じたままに書いたプライベートな日記ゆえでしょう」
「当然日記の最初の頃の記述は、日本人と日本人の宗教観に対する優越感や偏見が書かれたりしているけど、日記を読み進むにつれて、段々クララが日本人化していくところが面白いよね。
うちの父様の言葉を借りれば“すっかり日本人におなりですな”ってことで」
「今日、勝家の内実がかなり分かるのもこのクララの日記のお陰ですしね。
貴女との親友関係は日本の音楽史……なんて大袈裟なことは云いませんけれど、貴女たちが親友でなければ、日本の卒業式で“蛍の光”が歌われることはなかったわけですし」
「日記に記されている通り、クララ、本当に沢山の日本人と出会って、その人たちに多かれ少なかれ影響を与えて、その人たちが明治日本を築きあげていったかと思えば感慨深いよね」
「クララ自身も結婚後は教育面で日本の文明開化に貢献しようとしていたようですけれど、残念ながらその志は果たせず、親友の津田梅子さんに託すことになります」
「上でも書いたけど、このシリーズで津田梅子さんを取り上げる機会があったら是非紹介したいところだよね、その辺のクララの奮闘も」
「そうですわね、機会がありましたら是非。
さて、いつまで続けても名残惜しいところですけれど、本当にこれで幕といたしましょう。
改めまして、二年以上の長きにわたって連載に付き合って下さいました方々、どうも有り難うございましたm(_)m」
「“超訳版”なんて巫山戯たサブタイトルを付けてたけど、この連載中にイギリスからクララの日記の英語版を取り寄せ、この連載を読んで頂いたフランス在住の方からはフランス語版までいただき、一応“超訳版”を名乗れる素材は手に入れたわけで。
最後の方は忙しくて、原本の英語版と突き合わせが殆ど出来なかったのは残念だったけど」
「……そもそも“超訳版”といいつつ、終盤は殆ど原本の日本語のままでしたけどね」
「そこら辺は“違った形でリベンジ”だって<ブログ主」
「わたくしたち三人主役でオリジナル小説を書くのでしたっけ?」
「いつ書き上がるか、全然分からないけどね。
とりあえずこの連載が終わったってことで“来週から全力を出す”だって」
「……まったくもって期待できそうにありませんわね」
「それでは皆様、その作品が書き上がるその日までしばし――ちょっと長くなっちゃうかも知れないけど――お別れだよ。バイバーイ」
「最後まで読んで下さった方に深い感謝を」
(完結)


と云ったところで、最後の最後でお付き合い下さった方、本当に、本当にどうも有り難うございましたm(_)m。
遂に連載以来、只の一週もweb拍手が途切れることなく、完走できました。
最後まで読んで頂けた方、拍手ボタンだけでも押して頂ければ幸いですm(_)m。
次シリーズも構想中ですが、本格的にオリジナル小説にも取り組みたいところですので、しばらくお待たせすることになると思います(連載ストックも必要ですので)。
どうか気長に(年内には何とか)お待ち下さいませm(_)m。
なおクララの明治日記関係での、ご意見・ご感想、質問等は今後も随時募集中ですので、お気軽に拍手やメールでどうぞ。