Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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クララの明治日記 超訳版第33回解説

【クララの明治日記 超訳版解説第33回】
『西郷さんの首をお土産に持ってきますよ』
「商法講習所で父の片腕となって助手を勤めていた高木貞作氏(この当時28歳)にそう云われたクララ。
当然のことながら、クララは本気で捉えていません。この時点で西南戦争がまだ終結していないものの、熊本へ旧の主君が“保養に”出かけるのでそれのお供だ、と聞いされているのだから、それも当然だけどね」
「ですけれど、手元の資料を見ると……なんですの、この“人斬り”の人生は?」
「高木貞作氏の経歴について説明するためには、幕末当時の桑名藩の動きを知る必要があります。
幕末動乱期の桑名藩藩主松平定敬氏は、実は桑名松平藩にとっては養子で、兄は会津藩主の松平容保。その関係で定敬氏は京都所司代に就任します。
そしてまだ将軍ではなかった当時の一橋慶喜公と手を組んで、幕政を牛耳ります。このトライアングルを世に“一会桑”と云います。
もっともこの蜜月は長くは続きませんでした。その亀裂は慶喜公が大政奉還を決めた時点で決定的な物となるのですが、それでも鳥羽伏見の戦いでは、特に桑名藩薩長軍に対して善戦を見せます。
ですが、その善戦が決定的な仇となったというべきか、慶喜公は自分が乗って江戸に向かう船に、強引に松平容保・定敬兄弟の徹底抗戦派を乗せ、そのまま江戸に連れ去ってしまいます」
「……そ、それって“拉致”っていうのではなくて?」
「その結果、会津藩は兎も角、桑名藩は定敬を見捨てて、先代藩主の息子、定教氏を新藩主として、恭順派に寝返ります。
ですが江戸に連れ去られた定敬氏は未だ抗戦の意志を捨てず、今度は越後長岡藩に逃亡します。
桑名藩としては、藩主を無視して強引に代替わりさせたのはいいけれど“前”藩主といえども、このまま暴走されたら“お家滅亡”の危機。そこで家老の吉村権左衛門宣範という人物を送り込み、説得しようとしたのですが……」
「その家老さんを白昼の路上で“バッサリ”殺っちゃったのが、高木貞作氏というわけですのね?」
「そーいうこと。しかもこの高木貞作氏、第十二代服部半蔵の従兄弟なので、元々“その手の仕事”をしていたんでしょうね」
「……怖い想像だけど、その関係、ひょっとして明治になっても続いているのではなくって? クララの日記での高木氏と殿様の関係を見ると?」
「……それについてはノーコメント。ただ記録上、西南戦争に出陣していることになってるよね、定敬氏は。 高木氏の西郷さんの首取り宣言が何処まで本気だったかは分からないけれど。少なくとも桑名藩関係の人間には冗談に聞こえなかったと思うよ、この後に紹介する経歴からして。
さて話戻って、その後、殿様に従って高木氏は東北戦線で戦い続けるのですが、その後、桑名藩軍が庄内で降伏したため、桑名藩軍ごと桑名へ護送されることに。もっともこのまま桑名藩に帰参すれば、仇討ち対象にされることは間違いなしなので、脱走します。
で、変名して髪を切り、次に高木氏が向かった先は箱館。幕府側の最後の抵抗の地であり、彼の殿様も一足先に榎本武揚艦隊と合流して箱館にいたからなのね。
ところが高木氏が到着する前に、殿様は別の桑名藩の家老に説得されて、今度はなんと上海まで逃亡した後だったの」
「高木氏もたいがいですけれど、なんですの、この殿様の無茶ぶりというか、支離滅裂ぶりは? 
高木氏が身近にいたら、また暗殺させていたんじゃありませんの、追い出された後とはいえ、自分の藩の家老を?」
「残念、それは桑名藩も学習して考慮済。この箱館まで説得しにきた家老さん、実は高木氏の従兄弟なのよね。流石に“従兄弟は簡単に殺せまい”って踏んだんでしょうね」
「高木氏、危険人物扱いされすぎですわ!」
「さて、その高木氏。殿様が逃亡した後とはいえ、戦意は衰えません。
彼は更なる“危険人物”の“旗の下”に集い、最後の抵抗を始めます」
土方歳三新撰組、ですわね?」
「そう! ちなみに世に云う“箱館戦争”で土方歳三の“新撰組”に組み込まれたのは、旧隊士と幕臣以外は原則として会津藩桑名藩藩士が条件。松平容保・定敬兄弟が藩主を務めた会津藩桑名藩限定、というわけ。如何に彼らが“筋金入り”だったかが分かるよね」
「しかし、そんな人間がよく生き残りましたわね、激戦の箱館戦争を?」
「まあ、生きてさえいれば、逆襲のチャンスはあるものね」
「…………」
「戦争終結とともに、明治2年11月に東京へ船で護送され、高木氏の身柄は桑名藩に引き渡されます。
その後、明治3年に渡米、いったん帰国し、明治5年に開拓使留学生(大蔵省派遣)として再び渡米。
ニューヨークで税関事務の見習いをした後、クララの父様であるホイットニー氏の学校に入学し、明治8年に帰国。
ホイットニー氏が商法講習所を開く前から、その開設に尽力します。
その後はクララの日記で紹介された通りなんだけど……」
「ちょっとお待ちなさい、お逸! 
いまサラリと流したけれど“身柄は桑名藩に引き渡されます”と“その後、明治3年に渡米、いったん帰国し、明治5年に開拓使留学生として再び渡米”の間が全然繋がっていませんわよ!」
「知らないわよ。どんな資料を読んでもその“中間”が不明なんだもの!
普通に考えれば、家老が従兄弟、なんだから高木氏の家柄もそれなりだったので、親類から助けの手が入ったってことなんでしょうけれど」
「でも、藩の家老を斬り殺していますのよね、高木氏?」
「上意である! の一言で全部片づけちゃったんでしょうね。あくまで藩内の問題だし、あまり追求すると明治政府から要らぬ介入受けそうだから、アメリカに追放した、というのが実体じゃないのかな?」
「しかしそんな経歴の方が商業簿記を学んで、日本最初の商法学校で講義をしたわけですの。人の運命というのは面白いものですわね」
「その後の高木氏の人生をサラリと説明しておくと、明治11年に東京の第十五国立銀行に入行。明治15年には横浜正金銀行へ移り、明治25年から27年までニューヨーク出張所主任を務め、のち神戸支店支配人に。
明治31年1月に依願退職後は再び第十五国立銀行に移り、支配人を務めましたが、まもなくぜんそくが悪化して退職。
あとは悠々自適の生活を送り、短歌の道にいそしみ、なんと昭和8年まで生きて、86歳の人生を全うしています」
「前半生と後半生がまるっきり違いますわね……」
「でも、こういう“修羅場の中の修羅場”を潜ってきた人たちって、まだ昭和の初めまでは生き残ってたのよ。
それが戦前のこの国の“強さ”を支えてきたんだろうけれど、そういう人たちがいなくなって抑えが効かなり、頭でっかちの人間たちが主導権を握って暴走を始めたのでしょうね」
「それについては中国生まれというわたくしの立場上、異論がありますけれど、ここでは敢えて触れませんわ。
それでは長くなってきましたので、とりあえず今週の所はこの辺で……」
「待った! せっかくだから、ちゃんとツッコミ入れてよ!」
「他に今週話題にするようなことありましたかしら? 吉沢氏については書かれた通りでしょ?」
「『お湯がなかったので浴室へタオルを持って行って、井戸から汲みたての冷たい水で身体を洗いっこした』」
「“洗いっこした”の部分は勝手な補完分でしょうが!」
「でも状況的には、そう捉えるのが妥当だもんね♪
というわけで、来週からのこのコーナー“クララの明治日記超訳百合版♪”と改名する予定なので宜しく」
「勝手におやりなさい、この百合っ子!」
(終)


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