Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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クララの明治日記 超訳版第109回解説

【クララの明治日記 超訳版解説第109回】
『ほ〜た〜るの ひ〜か〜り まど〜の ゆ〜き』
「そんな音楽が聞こえてくるような雰囲気ですわね、ついに」
「…………………………(哀涙)」
「さて、予想通りお逸が使い物になりそうにないので、今週はわたくし一人で解説させて頂きますわね。
以前から、何度か書いていますけれど“蛍の光”を日本で最初に演奏したのは、クララ・ホイットニーだと考えられています。
クララ自身は生粋のアメリカ人ですけれど、日記を読んでいれば分かる通り、その友人・知人はスコットランド人が非常に多いのですわ。
まずもって一番出番の多かったディクソン氏がスコットランド人ですわね。
それから仲の良かった大鳥圭介氏が責任者を務めていた工部大学校の教授は、開設を提言した長州藩出身の山尾庸三氏がスコットランドに留学していた関係で、教授陣はスコットランド人揃い。
そんな彼らをクララは自宅のパーティーに招待してオルガン演奏などでもてなし、彼らの帰国の際には全員揃って別離の歌であるスコットランド民謡"Auld Lang Syne"を合唱したのですわ。
で、そのパーティーの場に同席していたと考えられるのが、先程から泣きじゃくっているこの娘、勝逸子。
クララの日記では明確には出てきませんけれど、この時点で既にお逸は後のご亭主である目加田種太郎氏と知り合っていたと考えられます。
そして丁度この年、明治十二年、文部省は目加田種太郎と、後に日本の音楽教育の父と云われることになる伊沢修二の提言で、音楽取調御用係を設置。
その成果として明治十四年に発行されたのが“小学校唱歌集初編”。
その本の中でスコットランド民謡"Auld Lang Syne"は“蛍”と題され、メロディーはそのままに、歌詞だけは文部省関係者によって日本的な文語体の詩が付けられることになりましたの。
更に後になって国文学者が校閲し、題名を“蛍の光”とし、歌詞も修正を加えられ、現在の我々が知る“蛍の光”が完成したのですわ。
経緯としましては、ざっとこんな感じですわね。
もっともこの経緯については推測が一部混じっていることは断らせて頂きますわ。
……本当はこの娘が、お父様までとは云いませんけれど、せめてクララ程度に記録を残していたら、明治史の解明に役立ちましたのに。
今更云っても本当に詮無いことですけれど」
「…………………………(嘆涙)」
「さあ、お逸、いい加減に顔をあげなさい。
一応第二部の構想はあるにせよ、とりあえず第一部は残り一回ですのよ」
「……クララと私の最後の悲しい別れのシーンのある第一部最終回だけど、皆様、どうか最後の最後までお付き合い下さい」
(終)


と云った所で、今週も最後までお付き合い下さった方、有り難うございましたm(_)m。
遂に次回が「クララの明治日記 超訳版」第一部最終回となります。
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