Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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帰ってきたクララの明治日記 第4回

1883年4月30日 月曜
ああ、生きながらえて今日の日を見ようとは! 
しかしこれが現実なのだ。
私は今日は孤児として日記をつけなければならない。
まるで恐ろしい悪夢を見ているようだ。
しかしこれは夢ではない。私は母なし子だ。
神はわが愛しい、最愛の母をみもとにお召しになった。
つらい何週間もの間、ずっと私たちは希望と恐怖のうちに、母を看守って来た。
そして、予想で痛み、なん度となく押しつぶされた私たちの胸は神の恵みを求めて叫んだ。
このようなことを思いおこすことは、私にとって、とてもとてもつらいことである。
しかし「何ごとも忘れないために、思い出しておきなさい」とウィリィは云う。
過去を振り返ることで、傷はまた開かれるだろうが、一生懸命に思い出して書き留めておこう。
母を失ったことは償うことのできない不幸ではあるが、どういうわけか安らぎのようなものを感じている。
それは、私の大切な母が長い苛酷な肉体的苦しみからやっと逃れられたと感じるからである。
全き絶望の時と、押しつぶされるような悲しみが私を襲っても、母は、自分の愛する母親のもとに行き、親戚の人たちといっしょにいるのだと思えば、私は安心していられる。
以前は、一時間も母から離れることは堪えられなかった。
私はどこにいようとも、母のベッドのそばに戻らない限り、心がやすまらなかったものだ。
しかし今は、きっと母は「神の館」で私を待っていてくださるだろうと思えば、心が安らぐ。
母が私にとってどのような存在であったか、誰も知らない。
「私たち二人は一体だ」と母はよく云っていた。
私か自分の一部であると感じていた。どんなにか私は母を愛し、母は私を愛していたことか! 
一緒にいる時はいつも楽しみを分かち合った。
母に会うこともなく、何も話すこともなく、これから長い年月を過ごさなければならないとは! 
何か 楽しいことがあった時、誰かいい人が来た時、何か面白いことを聞いた時には、母に真っ先に話し、喜びを分かち合った。
母は私たちのために計画をたて、実行した。
現世のこと、宗教上のことについて、母は私たちの先達であり、天国への導き手であり、モーゼであり、私たちのすべてであった。
私たち四人はいつも一緒で、幸福であった。
同じ精神と心をもち、目的も考え方もみんな同じであった。円満で、とても幸せであった。
私たちの家族はこの地上の小さい楽園にいるようであった。
そして皆で、手に手を取り合って、天国に行こうとしていた。
私の我がままが時に母を悲しませたことは確かだが、母の病気がどんなに重いかが分かってからは、すべてを投げうって、できる限り忠実に看護した。
「お前は本当によくしてくれるね」とか「娘がいなかったら、どうなるかしら」と、母はなん度となく繰り返した。
亡くなる一週間ほど前、母はウィリイに内々でこう言った。
「クララがすっかり変わって、私は満足です。あの子は誠実だということがよくわかります。今までの悪いことはもう忘れましたし、許しました」と。
おお、その言葉は今もなお私にとってとても貴重だ。
私は強情をはり、癇癪を起こしたげれど、母は逝く前に私を許してくれた。
このようにやさしく慈しまれた者にとっては、どのような小さな科も重大に感じられる。
誰もが、私たちは仲のよい家族だと言った。
そしてまた、ウィリイの母に対する男らしい愛情を見て「恋人のようだ」と人は言った。
「世界中で男女を問わず誰と一緒にいるよりも母と一緒にいることが一番楽しかったし、また母と一緒にいる時ほど楽しかったことはない」
ウィリィはそう言った。
かわいそうな兄さん! これからどうするかしら。アディにも私にも母の代わりはできないもの。
しかし、母が長いこと生きながらえたことを、私たちは感謝しなければならないとウィリィに言おう。


母の病気は、父の死と長旅の疲れから来たのだと思っていた。
しかし、実は不治の内臓の疾患が母にとりついていたのだ。
このことをとても母には言えなかった。
母は死ぬことを怖れてはいなかったが、もし万一そのような忌まわしい病気にかかったとしたら、そのことは知りたくないと、よく言っていたから。
それは母のような繊細な感受性の持ち主には、とても堪えられないことであった。
ある時母が、いつもより気分がよくて、新しい部屋で起きあがっていた時、ウィリィは思いきってそのことを仄めかした。
しかし母はそれをとても気にして、そのために恐ろしい吐血をした。
「二度と病気のことは云わないでほしい」
母はウィリィに頼んだ。
この先どうなるかわかった時から、他の用事をする時とか、母の生命を救ってくださるように天に祈る時以外は、昼も夜も、私は母のそばを離れなかった。
私にとって、なんと長く苦しい数週間であったことか! 
毎日私は死のつらさを味わった。
多くの人は、母のために共に祈ってくださった。
そして、信仰の人ミーチャム氏は「母のために祈るよう神の励ましを受けた」と言っておられた。私も同じように感じた。
医師であるウィリィはほとんど不可能だと言って諦めていたけれども、私は、母が召されたその夕べまで、神の癒やしの約束にすがっていた。
その時まで、私はどんなに母に愛され、母を必要としているかということ、また母なしではやっていけないことを神に告げ、生命をお助けくださいと強く祈っていた。
母が神のために働き、その人生の目的は神の栄光であったこと、今は暮らしは楽になり、生活も平穏で、人の役に立てるようになって来たことなどを神に告げ、見たいと願っていた仕事の成果を見るために、生命をながらえさせてはくださらないかと、私は神に祈った。
しかし母が堪えられぬ苦しみに身もだえし、呻吟するのを見て、私は祈った。
「おお、神よ、ただ聖旨のままになし給え。思し召すならば、彼女を召し給え。
ただこの苦しみから救い給え。
もし彼女を救い給うならば、我が意に非ず、聖旨のままになし給え」
そして神は母を召し給うた。


本当に突然だった。
とても大きな衝撃だったので、二週間たった今でも、取り返すことのできない母の死が本当だとは思えないのである。
たった二週間前だけれど、随分前のことのように思われて、ほとんどすべての出来事は、遠い記憶の彼方に消えてしまった。
時々、母の美しい顔、美しい黒い眼、やさしい微笑みを思い出したり、母が「クララ」とか「娘よ」とか「わが子よ」と呼び、細い、白い、すべすべした指を私の顔の上に置いたりしたことを思い出そうとするのだが、なかなか思い出せない。
おお、美しい母には、いまわしいお墓はふさわしくない。
暗闇の中にいると、天国も同じように感じられる。
誰でも天国は違うというが、私は以前はあまり天国のことを考えたことがなかった。
母がいるところが私の天国であった。
そして今はぽっかりと穴が空いたようである。
私にとって、この世は何もないような気がする。
彼女は四十九歳、私の年の二倍以上だ。
そして私はそのくらいの年齢まで生きるかもしれない。
母に再び会えるまでの物憂い年月を私はどうしたらいいだろうか。
その間、私は母から一言も、なんのしるしも、小さな伝言さえも聞くことはできない。
母は行ってしまった。
私の熱愛の届かないところへ永久に行ってしまった。
母にかしずいていた何週間かの、なんと楽しかったことか! 
母は私がそばにいないと幸せに感じられないようになっていた。


母は私が美しい黒髪をとかしたり、こまかい櫛ですいてあげたりするのが好きだった。
よく体を洗ってあげたが母はそれを喜んだ。
私は洒落た、小さな爪みがきの道具を一揃いもっていた。
そして母は私かお湯といい香りの石鹸を使って母の手を洗い、桃色の細い爪を、美しい象牙のブラシと薔薇色の粉でみがいてあげると大変喜んだ。
あとで母はいつも私の手をかたく握り云った。
「ありがとう。とても気持ちよくて、もう一本手があったら、それも洗ってもらいたいくらいよ」
母はふざけて私のことを「小さな赤いめんどりさん」と呼んだ。
それは、私か普段赤い服を着ていたからだ。
母は私が食事を運んで行くと云った。
「私の小さな赤いめんどりさんは私のためにかき集めて作ってくれたの」
私は母にペティとか、ラヴィとか、そのほかたくさんの愛称をつけた。
そして母はその名が大好きだった。
ひどい痛みが起こると、私は背中や横腹や脚をさすってあげた。
母はそれを喜び、私の手は、特に痛みをやわらげる効果があると言った。
そして実際に痛みをまったく取り去ったこともたびたびであった。
どんなに痛みが激しくとも、私かその場所をさすっている間は、母は痛みを感じなかった。
何度となく私は母のそばに何時間も横になって、かわいそうな母の背中をさすってあげた。
もちろん母のためならどんなことだって喜んでしたのだが。
母は毎夜私を起こさないように注意していた。
しかし、私は、母がちょっと動いても、呼んでも、すぐとび起きられるように夜は、母のベットのそばに私の小さい寝台をおいて、そこに寝た。
母は夜中二回、十二時と三時に肉汁を飲む習慣あった。
だから私は、自分のそばに小テーブルを置き、アルコールランプ、マッチ、蝋燭、錫鍋、茶碗、スプーン、パン、アップルソースなどを夜食のために用意しておいた。
十二時になると、母は目を覚まし、私を呼ぶ。
私は床の上に起きあがり、茶碗一杯の肉汁を温め、少々のパンとアップルソースをそえる。「私たちのお茶の会」
母はそれをそう呼んだ。
それから少し他の世話をしてあげる。
母は時計を見て、横になる、そして三時まで眠る。
三時にまた目を覚まし、何か食べる。
私は六時か六時半に起きて、熱い日本茶を持って行く。
お茶を飲んでから、顔と手を洗ってあげ、朝食の用意のため階下におりる。
後には、食物をとるたびに、ひどい吐き気が起きたので、あまり食べられなくなった。
母はとても気丈で、恐ろしい吐き気があっても、一生懸命食べるよう努力するのを見て、私は感動した。
「早くよくなるように、子供たちのために食べるのだ」
母はそう言った。しかし、同時に悲しげに云った。
「ああ、クララ、私はちっともよくならない。私は日に日に弱って来ているような気がするの。こうして寝ているのにあきてしまった」


ある日、ひどく苦しがったので、私は母のベッドの上に坐って背中をさすっていた。
ふと母は私の方を向いて云った。
「ねえ、クララ、私はなおらないのではないかしら。神様は私をお連れ帰りになるおつもりです。生まれてから一度もこんなに悪くなったことはありませんもの」
私は、そんなことはないといって、慰めようとしたが、母は、私か今までに聞いたことのない詩の一節を繰り返すばかりだった。
「見えざる手を我は見る
 彼方へと、手は我を招く
 聞こえざる声をわれは聞く
 そは命ず、とどまるなと」
私は、ペッドのそばで別の本を読みはしめた。母はそれを喜んで云った。
「私がロンドンで病気をしていた時にもう一冊の方を読みはじめ、快くなって来た頃に読み終えたわね。今度もそうなるかもしれないわね」
『よい時代、よいところ』の中の、私がはじめて書いた短篇を母に読んであげ、私のすべての計画を説明したところ、母は悲しげに云った。
「この世でよい時代は私にとっては皆すんでしまったわ」
私が二階にかけ上がって行くと、母はいつも言った。
「そんなふうに二階にかけ上がれるようになれるかしら」と。
クレッカー先生が来てくださった後で、よく云った。
「あの方はお丈夫そうね、とても幸福そうで、お元気ね」
母が亡くなってから一週間後に、先生が後を追って霊の国へ行かれようとは知らずに。


トルー夫人は、絶望の時に私たちに優しくしてくださった友である。
母はトルー夫人を本当の妹のように愛していた。
この二人は考えも同じで、趣味や性質が似ていた。
トルー夫人は、ご自分の学校の仕事に心を配らなければならない時でさえも、長い時間を母のために割いてくださった。
夫人はよく母に思いがけない美味しいご馳走を持って来てくださった。
たとえば黒いちごのジャム、グレアムパン、小さなクッキー、コテージーチーズなどで、みんな母がとても好きなものだ。
実際、母は亡くなる前一週間ほどは、コテージーチーズとグレアムパンのほかは何も食べなかった。
それをとても喜んで食べている母、美しい眼を輝かせ、頬に赤味がさしている母を見るのはとても嬉しいことだった。
情愛とやさしさの故にトルー夫人を私たちは祝福する。
夫人自身、大きな苦難を越えて来られた。
それが夫人を清め、強くした。
彼女は強い、頼りになる、健康な方で、誰でも本能的によりかかりたくなるような方である。
母はいつも私たちに「トルー夫人を好きになるように」と、また「どんなことでもいいからできたら夫人の手助けをするように」と言った。


四月十五目の日曜日に、母は午前中ずっと、一種の昏睡状態だった。
私は何か食物をと思い、起こそうとしたが、なお悪くしてしまった。
その前日、母は長いこと私のデッキチェアに腰掛けていて気分転換ができたようで「鶏の蒸し焼きをほしい」と言った。
他の人は誰も母の好みのようには作れないと言うので、早速私か作ってあげた。
ほとんど毎食、私は母に食べさせた。
寝床に入ってから二人でとても楽しい話をし、一緒に祈り、神の王国について語り合った。
母が言ったことを皆おぼえていられたらと思う。
それはとても優しくて、役に立ち、また日本人のためになることをするいろいろな計画などであった。
日曜の朝、私は十時まで、母の息づかいを見つめ、むくんで、痛む足をこすりながら、ベッドの近くに坐っていた。
そして天の助けを祈った。
母は吐き気のために全然食物がとれなかった。
しかし、四時頃になって元気が出て、何か食べものをと言った。
母は、ウィリィに支えてもらって、長いことベッドに坐り、ウィリィといろいろなことを、とても快活に話した。
そして、とても具合がいいように見えた。
しかし夜はよくなくて、興奮と痛みのためにモルヒネを使わなければならなかった。
そのために、月曜日は、意識が朦朧としていた。
クレッカー先生がチフスにかかって診断していただけないので、ヘルツ先生をお願いした。
「私には腫瘍はできていないとベルツ先生かひとこと言ってくださったら、私はすぐにも起きて、しゃんとなりますよ。
でも、こんな恐ろしい不安定な状態では、望みなど持てません」
母は一日中とても静かで、ほとんど、ずうっと眠っていた。
私は読んだり、書いたりしながらそのそばに坐っていた。
美しい桃の花があったので私はそれを母の誕生日のために刺繍していた。
「その桃の花とてもきれいね。押し花にして、モリス夫人に送って頂戴」
母は私にいいつけた。また次のようにも云った。
「桃の花を刺繍にしたらとても綺麗でしょう。きっとうまくできますよ。ただ、先に紙でやってごらんなさい」
こんなことも母は言っていた。
「この誕生日<4月25日>さえ持ちこたえれば、私はきっとよくなりますよ」と。
母はその日を楽しみにしていた。
そして、躑躅――日本に来てはじめての誕生日に、森夫人が露の滴るつつじの大きな花束をくださって以来、母の大好きな花――が庭に咲きはじめていると聞いて、とても喜んでいた。
今つつじは満開である。
私は母のお墓に、何本かつつじを植えた。
おお、私の小さな望みは、母の腕をとって、つつじを見ながら庭で、母の大好きな散歩をすることである。
ああ、どうして――どうして、よりかかれるあのやさしい腕なしに、長い一生をずっと生きて行けようか! 
背格好が丁度よかったので、私が腕をとってあげるのが好きだった。
私はいつもそうしてあげた。
おお、あの幸福な、幸福な、フィラデルフィア時代。
私たちは、腕をくんで、チェスナット街を歩いた。互いを大切な者と感じ合い、みち足りて、平和だった! 
その時でさえも私は愛する母の腕にすがって、自分より幸福で祝福されている者は他にいないだろうと考えたものだ。
母は私を保護し、世間と私の間に立ってくれた。
ウィリイとアディは私より丈夫だった。でも私は――。
母は私には特別に気を付けて、かわいかってくれた。
私はそれを認め、その愛情に浸っていた。
去年の冬、私が肺炎にかかった時、なんとやさしく、休みなく看病してくれたことか! 
そして私のために、たびたび自分を犠牲にしてくれた。
母はまったく私のすべてであった。
だから、私が母を亡くして悲しむ気持ちは誰よりも強いだろう。
おお、わが神よ、あなたは決して無情ではなくお慈悲をもって、我が最良の友をお召しになりました。