Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

帰ってきたクララの明治日記 第5回

月曜日の午後に、トルー夫人がおいでになって一晩泊まってくださった。
「トルーさん、あなたをおつかわしくださった主に感謝します」
母は云った。
ベルツ先生がその夕方来られ、診察してくださった。
先生は明るい調子で母と話し、また来ますよと約束された。
しかし、ウィリィに言われたところによると、病気はずっと進行しており、望みはないそうだ。
母は早口で、先生に徴候を説明した。その時の母の眼は、並々ならず大きく輝いていた。声はだみ声たった。
先生は、それは母が一日中だまっていて、急に話しはじめたためだとおっしやった。
その晩は、トルー夫人が私の代わりをしてくださった。
次の朝早く、私が急いで起きた時、母はひどい痛みに苦しみ、私の介抱を待っていた。
私たちは母の舌を冷やすために氷を買って来てもらった。
ウィリイは乳酒を作り、私はあつい湿布を、痛みの一番ひどい腰にあてた。
母は鼻と喉がひどくつまっていたので、起きあかって温水灌水療法をしてもらった。
それから恐ろしい苦痛の時間、私にとっての苦悩の時間をどのように記録することができようか。
私はタオルを換え、血の塊を取り除いた。
心の中は深い苦しみでいっぱいであったが、平静にしていなければならなかった。
ああ、あの長い時間! 祈りと絶望の涙の時がなんと長かったことか! 
母の呻き声を聞くと胸も張り裂けんばかりだった。


夕方近くになって、苦しみがはじまった時、母は思わず大きな声で叫んだ。
「主よ、慈悲をたれ給え」
何度も何度も繰り返し云った。
「助けて、ウィリイ」
「おお、クララー! 私を助けられないの?」
「おお、トルーさん、ひどく痛いの、こんな痛い目に会ったことないわ」
それからまた叫び、目を恐怖で大きく見開いて云った。
「おお、トルーさん、ごめんなさい、こんなこと言うつもりなかったのに。でも言わずにはいられなかったの」
私たちは、母をできるだけ静めようとしたが、苦痛は軽くならなかった。
母は私たちのうちの一人でもそばから離れることに堪えられないようだった。
「ウィリイに、ここにいるように言いなさい。皆、私の近くにいて頂戴」
「私の大事なお母様! この苦しみをどんなに私が代わってあげたいか!」
「おお、クララ、そんな苦しみから、おまえをお救いくださるように主に祈ります」
母はすぐさま答えた。
そして壁にかけてあったた二枚の「沈黙の慰安者」に書いてある聖句を繰り返し読んだ。
「悩みの日に我をよべ、我、汝を援けん、而して汝、我をあがむべし」(詩篇五〇・一五)
それらの言葉を母は何度も繰り返し「『汝を援けん』ということは本当でしょうね」と何度もつけ加えた。
そのほか「恐るるなかれ我、汝と共にあり、驚くなかれ我汝の神なり、我、汝を強くせん、誠に汝を助けん、誠に我が正しき右手、汝を支えん」(イザヤ書四一・一〇)などの聖句を繰り返したが、これらは母に慰めを与えたようだった。
それでも、「主よ、私にお恵みを!」と母は叫んだ。アディは泣いていた。
トルー夫人でさえも、眼を潤ませておられた。
母は、私たちを見回して云った。
「私――私は死にはしないわね、ウィリイ?」
「大丈夫ですよ、お母様」
でも本当はそうは思っていなかった。
「眠れれば、気分もよくなると思うのですけど」
母はそう言い、痛みをとめるアヘン剤をと言った。
大量の鎮痛剤が投与されたが、全然その効果はなかった。
「クララ、とても私には耐えきれそうにない、私は天に帰ります」
母は言った。私はもう我慢できなくなって、トルー夫人が眼くばせをしたけれども、心の悲しみを皆しゃべってしまった。
「どうしたの、クララ、おまえは神様を信じないの? 壁にはなんと書いてあったかしら?
『恐るるなかれ我、汝と共にあり』
神様は私とともにおられたように、お前とともにおいでになります。
いつも、ただ神様を信じていれば、決して神様はあなたをお見拾てになることはありません」
「でも、お母様!」
私は叫んだ。
「ママがいなくては、生きていられないのよ。ウィリイとアディの二人は仲良しよ。
でも、私は二人とは違うの!
お母様が逝っておしまいになったら、私には世界中に誰もいなくなってしまう」
そして私は、我慢できなくなって激しく泣きはじめた。
「神様が守ってくださいます」
母は言った。
「神様は私を愛してくださったし、おまえも愛してくださいます。
ただ神を愛し、信頼し、いつもみんな離れずに暮らしなさい。
きっとトルーさんはいつも親切にしてくださいますよ」
しかし私か泣きやまないでいると、母は言った。
「これ以上私につらい思いをさせないで、クララ。神様が一番よくご存じです」
そして「神よ、慈悲をたれ給え」と母は祈った。
それからまずウィリイ、次に私が祈った。
そして母は、最後に「神様が祈りをきいてくださり、お薬について指示を与えてくださるだろう、また、もしそれが最良であると思し召せば神は自分を生かしてくださるだろうが、もしそうでなければ、神の御旨のままになさいますように」と祈り、
「おお神よ、ただ、あなたのしもべをこの恐ろしい痛みから救い給え」
そして繰り返し「御旨の行なわれんことを」と祈った。
激痛の発作が続き、その間中、母の叫びは胸も張り裂けんばかりだった。
母がもう生きられないなら、私を楽にしてくださるよう私も祈った。
母は何度も私にキスをし、私の頭に腕をまわし「痛みを早くとって、助け起こして頂戴」と言った。母は寒くて暗いと言った。
私はそばに横になり、キリストの苦しみを語りながら、そっと母の頚をさすった。
母は静かになってつぶやいた。
「イエスの御名を、イエスの御名を、イエスの御名にまさるものなし」
そして、口をつぐみ、トルー夫人がその続きを言い終えると、母はうつらうつらして言った。
「あの方はいつでもやさしくてよい方です」
「どなたのこと?」私はたずねた。
「ああ、大山夫人のことよ」
それからとりとめのない話が続いたが、その中にイエスの名がしばしば出てきた。
母はそれから右側に向きをかえて頬をトルー夫人の膝の上にのせた。
私か母の背をしずかにさすっているうちに、母は眠りにつき、おだやかにそして静かに呼吸をしていた。
二時間ほど私たちはその息づかいを見守った。
トルー夫人は一度私を外に連れ出したがじきに戻った。
呼吸が突然変化を起こしたので私たちは力のある限りのことをしたが、しずかな息は止まってしまった。
1883年4月17日のことだった。


このようにして私たちの愛する人は、長い年月仕えてきた神のもとに行った。
そして私たち三人の孤児はその大切な亡骸のまわりに集まって、母が仕えた神に仕えることを誓った。
ヴァン・ペッテン夫人が来られ、私をその腕に抱いてくださった。
勝夫人、疋田夫人、内田夫人は階下で泣き、祈っていらっしゃったが、私はまるで石のようだった。
私はトルー夫人にいわれて立ち上がり、母の綺麗な下着を広げたがなんら心の痛みも感じなかった。
私は母の写真の前に坐って祈ろうとしたが、無駄であることに気づいた。
私の心は石になってしまい、涙一つ流すことができなかった。
一晩中私は苦悩でのたうちまわったが、涙は一滴も出てこなかった。
涙はみんな頭のてっぺんに集まって、私はほとんど気が狂いそうであった。
翌日母にお茶をあげる。
いつもの時刻に私はふとお茶のことを思いつき、部屋に入り、亡くなった母におはようを言い、キスをしたが、それは私の全身をちぢみ上がらせた。
それから私は泣き、祈った。
母は安らかな顔をし、幸福な神秘とでもいうようなやさしい微笑を口元にうかべていた。
そのやさしい眼は、この世で、永久に閉ざされてしまったのだ。
そして私の眼は涙にかすみ、重く憂いに沈んでただこの悲しい世の中をながめるばかりであった。
私は、母が生前好んで訪れた青山に、安息の場所を探しに出かけた。
前の大山夫人も、大鳥ゆきさんもそこに葬られている。
アメリカ人の友人たちは横浜の外人墓地に埋葬することを望んでいたが、私たちは母の意志に従って、母の愛していた日本人の間に、母を置くことが一番よいと思った。
日本の人はこのことをとても喜んだ。
母がそこに埋葬される最初の外国人であり、日本人の間に埋葬されるのは母にとっても英雄的であると彼らは言った。
そしてこれは母の願いでもあった。


お逸さんが来た。
激しく泣いて、物言わぬ遺体の上に身を投げかけ、冷たい手をさすり、やさしい言葉をつぶやいた。
亡き母のことでお逸に生きた説教をすべきだと考えて、私は長い間、お逸と話をした。
実際、訪ねて来てくれる日本人に、この死が与える教訓を銘記させることが私の目的であった。
小鹿さんの奥様は、泣きながら、物言わぬ姿に頭を下げ、「ああ先生! もう一度お目にかかりとうございました」と、おっしゃった。
内田夫人は、さめざめと泣き、深々と頭を下げられた。
しかし、母がとても愛し、非常に関心をもっていたその妹さん、疋田夫人は、何も言わなかった。
頭を下げて部屋の中に入り、離れたところに立ちヒステリックに泣き、腕で私をかかえて言った。
「私はあなたのママを姉と思って慕っていました」
勝夫人は冷静だった。
奥様のキリスト教への改宗を母が非常に望んでいたことや、キリストに捧げた母の生涯のことなどを私かお話すると、夫人は全部聴き終わってから、こうおっしやった。
「神の思し召しなのですよ、ですからあなたは悲しみに負けてはいけません。
あなたの涙でお母様を生き返らすことはできません。
お母様はもうなんの苦痛もなく、今は幸せです。
さあ元気を出して、お兄様や妹さんのためにお生きなさい。
集会や学校の仕事をお続けなさい。
そしてこの国で、あなたのお母様がなさっていた役を引き継いで下さい。
悲しい時は私たちのところへいらっしゃい、いっしょに泣きましょう。
そしてあなたが幸せな時はいっしょに笑いましょう。
さあ勇気をお出しなさい、そしてお母様を手本になさい。
これから先の長い年月のことは考えず、今日という日以外には日がないと思ってただ毎日をお過ごしなさい」


お葬式では、誰も彼もとても親切にしてくださった。
ハリー・パークス卿は屋根のついた馬車を貸してくださった。
ミス・パークスやほかの人たちが十字架や花環やいろいろな花を贈ってくださった。
ミス・ディクソンが来られて部屋を整え、私を腕に抱き「勇気を出すのですよ」とおっしゃった。
私たちは「たえなるみちしるべのひかりよ」(二八四番)や「清きみ民らすむみ国」や「主のとうときみことばは」(二八四番)など母の好きだった讃美歌を歌った。
この歌は、母の気高い生涯と死のかぐわしさを私に思い起こさせてくれるであろう。
奥野昌綱氏は日本語で感動的なスピーチをし、私は出席していた数百人の日本人の多くが感銘を受けてほしいと願った。
インブリー氏は短いが人の心を打つような言葉を述べ、皆は、日本語で歌った。
それから、母を外に運び出した。
木々が皆微笑し花を咲かせている私たちの小さな前庭から、緑の垣根にそった小路を通り、外の大通りヘ――そこは生命と喜びで活気づいていた。
が一方、世界でただ一人は冷たく静かに横たわっていた。
しかし、神の慰めにより、私は霊柩車のきしむ陰気な音など耳に入らず、ただ輝く黄金の神の都に母が入って行くのを聞き、そこでのいとしき者だちとの再会を心に描いた。
しかし私の心はささやいた。
「ママは子供たちがいなくてどうなさるだろう? 
ママにすっかり包まれて生活していた子供たち、またママと別れてはどんな考えも望みも持ち得なかった子供たちがいないのをママは淋しくお思いにならないだろうか?」
おお、神のみぞ知り給う。
私はあきらめ、人生の重荷をふたたび背負うのだ。
そして私の優しい大切な思いやりの深い母を「己に属る者を知り給う主」(テモテヘの第二の手紙二・一九)の御手にゆだねよう。
はげしい風が、母に吹きつけませんように。