Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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帰ってきたクララの明治日記 第10回解説

【帰ってきたクララの明治日記 超訳版解説第10回】
「ようやくクララの日常も本格的に戻って来ましたわね。
一児の母親になった貴女との仲も、子供の頃のはしゃぎぶりとは違うけれど、相変わらずのようですし。
ところで、貴女がクララにプレゼントした縮緬、『元旦に皇后陛下に拝謁することになっているので』とありますけれど、その後の日記を見ると中止になってしまったのかしら?」
「みたいだね、日記にハッキリした記述があるわけじゃないけど。
ただこの1884年の春には、クララは陛下や皇后様に直接お会いすることになるので、何らかの事情で一時的に延期になったのかも知れないね。
で、その際のエピソードについては、また改めて紹介することにして。
今回の解説の主題は、やっぱり大山巌将軍の奥様である山川捨松さんかな? 
この方の波瀾万丈の人生っぷりは、尋常じゃないから。
再来年の大河ドラマの主人公は新島襄夫人だけど、捨松さんにした方がドラマ作りには絶対困らないと思うんだけどなー」
「このコーナーでも既に一度紹介していますわよね? 
確か作家の徳富蘆花が『不如帰』で嘘八百の悪役のモデルにしたせいで、晩年は誹謗中傷を受けたという話」
「……ごめんなさい、その徳富蘆花さん、勝家に結構の間、居候していたんだ。
どういう経緯で居候していたか分かんないんだけど、私の娘も証言してるし」
「貴女の娘さんの証言を元にした勝家の屋敷地内を見ると、東端にあったのが徳富蘆花氏の住居で、西端すぐ外にあるのがホイットニー教会ね。
徳富蘆花氏とクララに面識があったと考えるのが順当ですわね。
クララとしては随分複雑な気持ちだったでしょう、友人である捨松さんの云われなき誹謗中傷を、すぐそばに住んでいた知り合いが書いているのだから」
「……それを云ったら私の方はもっと複雑だけどね。捨松さんは友達だし。
ちなみに娘が当時勝家に住んでいたのは、私が旦那様の横浜転勤に伴って横浜住まいしている間、娘を学習院に通わせるためね」
「……明治日本、世間は広いようで狭いものですわね」
「とりあえず本題に戻って捨松さんの話だけど、今回は晩年じゃなくて、幼少期から若い頃の話をピックアップ。とても一回じゃ終わらないからねー。
捨松さんの幼名は“さき”といって、安政7年、つまり1860年生まれで、私とクララより一歳年上。
生まれは会津若松。父親は会津藩の国家老、1000石の家柄だから、我が家とは雲泥の違いだね。
だけど、会津若松藩の国家老ということで分かるように、その人生を一変させたのは」
戊辰戦争における会津攻防戦ですわね」
「数えで8歳だった捨松さんは、会津若松城に家族と共に籠城して、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝ったそうよ。
更に城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ“焼玉押さえ”という危険な作業もしていたのだけど、これを手伝っている時に大怪我をしているわ。
ちなみに、このとき会津若松城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長は、西郷隆盛の従弟にあたる薩摩の大山弥助という人物。
云うまでもないけれど、後に捨松さんが嫁ぐことになる大山巌将軍その人ね」
「よくそんな不倶戴天の敵のような経緯の方と結婚されましたわね」
「当然の事ながら大揉めに揉めた末のことなんだけど、それついてはまたの機会に。
で、会津若松城落城後、捨松さんは函館に里子に出されたの。
この時にフランス人の家庭に引き取ってもらうことになって西洋式の生活習慣にもある程度慣れていたのが、後に日本最初の女子留学生に志願できた理由の一つだろうね。
ただ一番大きかった要素は、岩倉使節団の留学生に兄の山川健次郎さんが選抜されていたことだっただろうけれど。
ちなみに、この山川健次郎さんも超優秀で、後に東京帝国大学総長になって“賊軍”の家から頭脳一つで男爵にまで登り詰めることになります。
こうして捨松さんは渡米することになったのだけど、この日本初の女子留学生は殆ど応募者がおらず、応募者五名全員当選。
しかもその五人とも旧幕臣や賊軍の娘だったということで“勝ち組”は誰もこんな危険な話には乗らなかったってことだよね。
もっとも津田梅子さんの父親であり、このクララの日記の常連である津田仙さんの場合は、幕臣の中では結構勝ち組に当たるので、ちょっと事情は違うんだけど」
「クララの日記を読めば分かる通り、相当変わり者ですものね、あの方」
「でも本人としても、家族としても、本当に命がけの旅立ちだったんだよ。
実際に捨松さんが、改名して捨松さんになったのはこの留学する時の話だし。
捨松さんのお母さんが“娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ”という思いで改名させたそうだから。
ちなみにこれも有名な話だけど、捨松さんがアメリカに向けて船出した翌日、横浜港からジュネーヴへ留学に旅立ったのが、大山巌その人ね。
で、この留学先で大山巌将軍は片足義足のロシア人革命家に出会って、フランス語を教授して貰うことになり、トルストイの傑作短編の主人公となる兄と、後にノーベル生理学賞を貰い、世界中にブルガリアヨーグルトを紹介することになる弟を持つそのロシア人革命家は、大山将軍の紹介で日本にやってきて日本政府のお雇い外国人になることになるのだけど、それはまた別のお話」
「はいはい、ブログ主お気に入りのレフ・イリイッチ・メーチニコフですわね。その話はまた別の機会にいたしますわよ」
「じゃあ、話を本筋に戻して、10年の予定でアメリカ留学した五人の女学生の内、二人は早々に脱落。
一方、残った捨松さん、津田梅子さん、永井繁子さんの三人は異文化での暮らしにも無理なく順応。
この三人は後々までも親友として、また盟友として交流を続け、日本の女子教育の発展に寄与していくことになります。
で、捨松さんはコネチカット州ニューヘイブンのリオナード・ベーコンという牧師宅に寄宿することになるんだけど、そのベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコン。
このアリス・ベーコンは、後に日本で教鞭を執ることになり、その時の日記は日本語にも翻訳されていて、実はこの“ラノベ風に明治文明開化事情を読もう”新シリーズの候補だったり。
というか、このクララの明治日記シリーズが終わったら、次回作最有力候補かも?」
「本当に人と人との繋がりが、明治初期の日本の文化を形どっていたのですわね」
「留学したアメリカの大学で捨松さんは非常に優秀な成績を残して、なおかつ学内でも人気者になるの。
ちなみに大学を卒業してからね、看護婦養成学校に通ったのは。
そして1882年、明治15年暮れ、出発から11年目。
新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々と帰国した捨松さんだったのだけど……というところで長くなってきたので、今回はここまで。
まだまだクララの日記にこの先、捨松さん登場してくるからねー……って、そう云えば、捨松さんって、ユウメイにとって先輩になるのかな?」
「わたくしは正式にアメリカの大学を卒業して医師になっていますわよ。
確認できる限り、わたくしが最初の中国人女性ということになるらしいのですけれど、ひょっとすると、アジア人初の正式な女医は捨松さんになったのかもしれませんわね」
(終)


と云った所で、今週も最後までお付き合い下さった方、有り難うございましたm(_)m。
最後まで読んで頂けた方、拍手ボタンだけでも押して頂ければ幸いですm(_)m。
その他にも、ご意見・ご感想、質問等も随時募集中ですのでお気軽に拍手で。
なお、来週は一週お休みを頂きます。申し訳ありません。次回は8月21日更新予定です。

【帰ってきたクララの明治日記 超訳版解説第10回】
「ようやくクララの日常も本格的に戻って来ましたわね。
一児の母親になった貴女との仲も、子供の頃のはしゃぎぶりとは違うけれど、相変わらずのようですし。
ところで、貴女がクララにプレゼントした縮緬、『元旦に皇后陛下に拝謁することになっているので』とありますけれど、その後の日記を見ると中止になってしまったのかしら?」
「みたいだね、日記にハッキリした記述があるわけじゃないけど。
ただこの1884年の春には、クララは陛下や皇后様に直接お会いすることになるので、何らかの事情で一時的に延期になったのかも知れないね。
で、その際のエピソードについては、また改めて紹介することにして。
今回の解説の主題は、やっぱり大山巌将軍の奥様である山川捨松さんかな? 
この方の波瀾万丈の人生っぷりは、尋常じゃないから。
再来年の大河ドラマの主人公は新島襄夫人だけど、捨松さんにした方がドラマ作りには絶対困らないと思うんだけどなー」
「このコーナーでも既に一度紹介していますわよね? 
確か作家の徳富蘆花が『不如帰』で嘘八百の悪役のモデルにしたせいで、晩年は誹謗中傷を受けたという話」
「……ごめんなさい、その徳富蘆花さん、勝家に結構の間、居候していたんだ。
どういう経緯で居候していたか分かんないんだけど、私の娘も証言してるし」
「貴女の娘さんの証言を元にした勝家の屋敷地内を見ると、東端にあったのが徳富蘆花氏の住居で、西端すぐ外にあるのがホイットニー教会ね。
徳富蘆花氏とクララに面識があったと考えるのが順当ですわね。
クララとしては随分複雑な気持ちだったでしょう、友人である捨松さんの云われなき誹謗中傷を、すぐそばに住んでいた知り合いが書いているのだから」
「……それを云ったら私の方はもっと複雑だけどね。捨松さんは友達だし。
ちなみに娘が当時勝家に住んでいたのは、私が旦那様の横浜転勤に伴って横浜住まいしている間、娘を学習院に通わせるためね」
「……明治日本、世間は広いようで狭いものですわね」
「とりあえず本題に戻って捨松さんの話だけど、今回は晩年じゃなくて、幼少期から若い頃の話をピックアップ。とても一回じゃ終わらないからねー。
捨松さんの幼名は“さき”といって、安政7年、つまり1860年生まれで、私とクララより一歳年上。
生まれは会津若松。父親は会津藩の国家老、1000石の家柄だから、我が家とは雲泥の違いだね。
だけど、会津若松藩の国家老ということで分かるように、その人生を一変させたのは」
戊辰戦争における会津攻防戦ですわね」
「数えで8歳だった捨松さんは、会津若松城に家族と共に籠城して、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝ったそうよ。
更に城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ“焼玉押さえ”という危険な作業もしていたのだけど、これを手伝っている時に大怪我をしているわ。
ちなみに、このとき会津若松城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長は、西郷隆盛の従弟にあたる薩摩の大山弥助という人物。
云うまでもないけれど、後に捨松さんが嫁ぐことになる大山巌将軍その人ね」
「よくそんな不倶戴天の敵のような経緯の方と結婚されましたわね」
「当然の事ながら大揉めに揉めた末のことなんだけど、それついてはまたの機会に。
で、会津若松城落城後、捨松さんは函館に里子に出されたの。
この時にフランス人の家庭に引き取ってもらうことになって西洋式の生活習慣にもある程度慣れていたのが、後に日本最初の女子留学生に志願できた理由の一つだろうね。
ただ一番大きかった要素は、岩倉使節団の留学生に兄の山川健次郎さんが選抜されていたことだっただろうけれど。
ちなみに、この山川健次郎さんも超優秀で、後に東京帝国大学総長になって“賊軍”の家から頭脳一つで男爵にまで登り詰めることになります。
こうして捨松さんは渡米することになったのだけど、この日本初の女子留学生は殆ど応募者がおらず、応募者五名全員当選。
しかもその五人とも旧幕臣や賊軍の娘だったということで“勝ち組”は誰もこんな危険な話には乗らなかったってことだよね。
もっとも津田梅子さんの父親であり、このクララの日記の常連である津田仙さんの場合は、幕臣の中では結構勝ち組に当たるので、ちょっと事情は違うんだけど」
「クララの日記を読めば分かる通り、相当変わり者ですものね、あの方」
「でも本人としても、家族としても、本当に命がけの旅立ちだったんだよ。
実際に捨松さんが、改名して捨松さんになったのはこの留学する時の話だし。
捨松さんのお母さんが“娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ”という思いで改名させたそうだから。
ちなみにこれも有名な話だけど、捨松さんがアメリカに向けて船出した翌日、横浜港からジュネーヴへ留学に旅立ったのが、大山巌その人ね。
で、この留学先で大山巌将軍は片足義足のロシア人革命家に出会って、フランス語を教授して貰うことになり、トルストイの傑作短編の主人公となる兄と、後にノーベル生理学賞を貰い、世界中にブルガリアヨーグルトを紹介することになる弟を持つそのロシア人革命家は、大山将軍の紹介で日本にやってきて日本政府のお雇い外国人になることになるのだけど、それはまた別のお話」
「はいはい、ブログ主お気に入りのレフ・イリイッチ・メーチニコフですわね。その話はまた別の機会にいたしますわよ」
「じゃあ、話を本筋に戻して、10年の予定でアメリカ留学した五人の女学生の内、二人は早々に脱落。
一方、残った捨松さん、津田梅子さん、永井繁子さんの三人は異文化での暮らしにも無理なく順応。
この三人は後々までも親友として、また盟友として交流を続け、日本の女子教育の発展に寄与していくことになります。
で、捨松さんはコネチカット州ニューヘイブンのリオナード・ベーコンという牧師宅に寄宿することになるんだけど、そのベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコン。
このアリス・ベーコンは、後に日本で教鞭を執ることになり、その時の日記は日本語にも翻訳されていて、実はこの“ラノベ風に明治文明開化事情を読もう”新シリーズの候補だったり。
というか、このクララの明治日記シリーズが終わったら、次回作最有力候補かも?」
「本当に人と人との繋がりが、明治初期の日本の文化を形どっていたのですわね」
「留学したアメリカの大学で捨松さんは非常に優秀な成績を残して、なおかつ学内でも人気者になるの。
ちなみに大学を卒業してからね、看護婦養成学校に通ったのは。
そして1882年、明治15年暮れ、出発から11年目。
新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々と帰国した捨松さんだったのだけど……というところで長くなってきたので、今回はここまで……って、そう云えば、捨松さんって、ユウメイにとって先輩になるのかな?」
「わたくしは正式にアメリカの大学を卒業して医師になっていますわよ。
確認できる限り、わたくしが最初の中国人女性ということになるらしいのですけれど、ひょっとすると、アジア人初の正式な女医は捨松さんになったのかもしれませんわね」
(終)


と云った所で、今週も最後までお付き合い下さった方、有り難うございましたm(_)m。
最後まで読んで頂けた方、拍手ボタンだけでも押して頂ければ幸いですm(_)m。
その他にも、ご意見・ご感想、質問等も随時募集中ですのでお気軽に拍手で。
なお、今回を含め、時折出て来るお逸の娘さんの証言が記してある本が、現在大安売り状態なのでオススメしておきます。最安値が送料込み308円なので興味のある方は是非。