Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

帰ってきたクララの明治日記 第12回超訳版解説

【帰ってきたクララの明治日記 超訳版解説第12回】
「またまたキリスト教界から大物ですわね」
「冒頭で結婚式をやっていた内村鑑三氏だねー。聖書研究の第一人者にして、日本独自のいわゆる無教会主義を唱えたキリスト教思想家。
クララの日記だけで、明治初期のキリスト教界の大物は全員揃っちゃったカンジ?
もっとも、現在の世間一般での内村鑑三氏の知名度ってどれくらいあるのかな?」
「この方、歴史教科書に載っているのではなくって?」
「高校レベルの日本史教科書なら、出てくるのかな? 
多分、陛下への不敬罪の話と日露戦争反戦運動の関係で。左色の強い教科書だと、それ絡みで結構持ち上げてるのかも?
ただ、わたしに言わせれば、現代の“左の人”たちがその件を取り上げて内村氏を持ち上げるのは、完全に的外れなんだけどね。
特に陛下への不敬事件なんて、勝手に周囲が盛り上がっちゃっただけで、当の本人の知らない間に話が大きくなって、自分の知らないところで決着していたっていう」
「? 経緯がよく分かりませんわね。順を追って説明して下さる?」
「舞台となるのはこの結婚式の7年後の1891年(明治24年)1月9日。
この前年から内村氏は、第一高等中学校の嘱託教員をしていたんだけど、この日に講堂で挙行された教育勅語奉読式で――ちなみに教育勅語の発布はこの前年の1890年10月30日ね――教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対し“奉拝”することが求められたの。
この時、内村氏は軽く敬礼したものの、最敬礼はせずに降壇しちゃったわけ。
このことが同僚・生徒などによって非難され一気に社会問題化しちゃったの。
現代のネット風に言えば“炎上”ってヤツ? 
最敬礼をしなかっただけなんだけど、本人が元々超頑固な性格だったから、周りの評判が良くなかったんだろうね。多分普段から目障りに思っていた人間たちが、ここぞとばかりに騒ぎたてたわけ。
で、校長は慌てて“鎮火”に走って、敬礼は信仰とは別の問題だからって改めて敬礼を依頼して、本人も同意していたのだけど、間の悪いことに悪性の流感で倒れて、代わりに同僚に代わりをして貰ったの。
当然判ると思うけど、これがトドメになったわけで」
「……最悪の“鎮火失敗”ですわね」
「世間一般からは当然本人が“拒否”ったようにしか見えないもんね。
ここに至り、マスコミが大きく取り上げて“内村鑑三の不敬事件”として全国に喧伝され、事件はキリスト教と国体の問題にまで進展。
本人が意識不明のままぶっ倒れている間に“本人の名前で”弁明書が数紙に掲載されたり、辞職願いが出されたりで、結局翌2月3日付けで依願解嘱。
これがいわゆる“内村鑑三不敬事件”の顛末ってヤツ。
もっとも、実際明治政府なんかは事の真相を全部承知の上だったんだと思うよ。
本当に“不敬の輩”と思っていたんなら、その後、内村氏を野放しにしたりしなかったと思うもん」
「……人間の持つ負の部分というのは時代が違えど、変わりませんのね。そしてそれを政治的に利用しようとする勢力も」
「そう、始末の悪いことに、この“事件”が最初のきっかけで、後に教育勅語の神聖化が進んじゃうんだよね。本人としては本当に辛かったと思うよ。
体調が回復してから“事実誤認”を必死に叫んだのだけれど、結局世間は味方してくれなかったし。
それでも世間から総スカンを喰らい窮乏状態にある中で、多くの著作・論説を発表して、徳富蘇峰氏にも支援して貰えるようになり、蘇峰氏の『国民之友』に文を発表して文名を上げたんだよね。同誌の編集をやっていた国木田独歩もこの時代の内村に感銘を受けた一人だったり」
「……徳富蘇峰氏ね。捨松さんのことがあるから、個人的には好きにはなれませんけれど」
「またまたクララの関係者繋がりだよね。クララの友人・知人繋がりだけで一冊歴史の本が書けるかも?
それにしても、まだこの頃はクララも日本にいた頃だから、色々思うところがあったと思うよ、この“事件”の経緯には。
その後、1897年、内村氏は黒岩涙香氏が社主を務める朝報社に入社し、同社発行の新聞『萬朝報』英文欄主筆となって、ライフワークとなる『聖書之研究』の創刊も開始。
しかし、日露戦争開戦前にキリスト者の立場から非戦論を主張して、萬朝報の当初の非戦論の社論が、世論の主戦論への傾きを受けて主戦論に転じると、内村氏は萬朝報を離れることとなります。
もっとも、本人は非戦論を訴えながらも徴兵拒否には反対の立場だったり」
「それはまた随分と矛盾した話じゃありませんの?」
「ううん、内村氏の思想から云うと全然矛盾してないの。
“キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く”
ってのが、内村氏の提唱した無教会主義者の教理だったわけ。
内村氏曰く。
『一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である』
『悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される』
更に戦死した弟子に対しては『神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった』って言葉を捧げてるわ。
一般的にこの思想は“身体の復活”と“キリストの再臨”の信仰を元にしていて、前者は個人の救い、後者は社会の救いと考えられている……らしい。
ここまで来ると、いくら特定の宗派に属さないと云っても、完全にクララのお母様あたりのキリスト教思想とは隔絶してしまって、わたしには理解不能だけど」
「とりあえず、現在の“自称”平和主義者や反戦主義者が聞いたら卒倒しそうな思想ですわね。
なるほど、貴女が最初に云った言葉の意味が理解できましたわ」
「内村氏はこの後もキリスト教活動を続けつつ、1924年に米国で可決された排日法案に反対するために、絶交状態にあった徳富蘇峰氏と和解して『国民新聞』に何度も排日反対の文を掲載したり、キリスト教会の重鎮である小崎弘道氏――今回のクララの日記にもチラリと登場してるよね――らと対米問題について議論を重ねたりと精力的な活動を続け、1930年に亡くなっているわ。そしてその死をもってライフワークだった「聖書之研究」は第357号をもって廃刊になったの。
ちなみに、wiki見て初めて知ったんだけど、内村鑑三氏の長男である内村祐之氏は、東京帝国大学医学部教授を務めた精神科医で、戦後に第3代日本プロ野球コミッショナーになっているんだって」
「……何処をどうやったら精神科医プロ野球コミッショナーになりますの?」
wikiから引用すると、東大学生時代には、早稲田や慶応を撃破するくらいの凄い左腕だったらしいよー。
医学の研究で多くの業績を残しつつ、戦前は東大野球部長、六大学野球連盟理事長として戦時下の学生野球の対応に尽力。
戦後は、混乱の続くプロ野球界で最高委員を務め、いわゆるV9の巨人黄金時代の川上哲治監督に大きな影響を与えたといわれるアル・キャンパニスの「ドジャースの戦法」を翻訳したのもこの人で、1962年5月、日米の野球に精通した人物として日本野球機構第3代コミッショナーに就任。
コミッショナーとして実績を残しつつも、札束競争にまみれてプロ野球界に入ってくる新人選手を憂い、新人研修制度を行おうと提案したところ、オーナー陣の激しい抵抗にあい、自らコミッショナーの職を降りたんだって。
コミッショナーはオーナー側寄りであると批判されている中、オーナー側と対立してコミッショナー職を辞したのはこの内村氏ただ一人と云われていて、辞職する時には“どんな医者でも完治の見込みがなければ患者を見放すものだよ”なんて痛烈なコメントしてたり。
コミッショナーの職を辞した後は一度たりとも球場に足を踏み入れず、存命中は特別表彰による野球殿堂入りも拒否したところなんて……」
「父親そっくりの頑固者ということですわね。
ですけれど、また父親の話に戻りますけれど、後の歴史の展開を考えると、もう少し柔軟性があれば、とも思わないでもありませんわね“不敬事件”の顛末は。
もう少し頭を下げるだけで良かったのでしょう?」
「……丁度次回、クララはその天皇様と初めて直接お会いすることになります」
(終)


と云ったところで、今週も最後までお付き合い下さった方、有り難うございましたm(_)m。
最後まで読んで頂けた方、拍手ボタンだけでも押して頂ければ幸いですm(_)m。
その他にも、ご意見・ご感想、質問等も随時募集中ですのでお気軽に拍手で。