Fate雑記(士凛特化)&血だまりスケッチ こと 魔法少女まどか☆マギカ観測所

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今週も「クララの明治日記 超訳版」その第25回をお送りします。なお過去ログは、以下のように収納しております。
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今回は1877年、明治10年の正月近辺のクララ一家の模様がメインとなります。なお、矢田部氏は相変わらず暴走中w。


1877年1月1日 月曜日
1877年! 
なんと早く1877年が来たことだろう! この新しい年月日を書くのは不思議なような気がするけれど、これは多くの年の中の一つに過ぎず、少数の関心のある人にしか気付かれない、何本もの線の上に重ねた一本の線でしかないのだ。
私たちにとって安楽な一年ではあったけれど、ひどい心痛や、耐えねばならないつらい試練が、去年という本の頁にいろいろ狭まっていた。
だけど、もうそれを読み体験してしまっているのだから、もっと希望に満ちた新しい年のためにそんなものは忘れ去ろう。
これから先に何があるのか分からないし、知りたいとも思わない。
それは我が父、神様の御手の中にあって、ご意志のままに、私たちに割り当てられるようになっているのだ。
今は何もかも私たちにとってうまくいっている。病気の者はいないし、事は全て順調に進んでいるように見える。
これは、私たちを繁栄させておいて、世俗的な物に心を向けさせようとする悪魔の誘惑なのかも知れないし、あるいは神様が約束を果たして下さっているのかもしれないのだ。


ところで、今日の俗事に移ろう。
今日五十人くらいの訪問客があった。まず、日本人の学生が来たのだけれど、何故誰もが揃って、苦労して英語が喋れる振りをするのだろう? それでいて英語で発したのはこの一言だけなのだ。
「How old are you?」
中でも千田嘉吉という人は二時間もいて、私を楽しませ<?>た。その人は私に年を尋ねたあと突然、とんでもないことを言い出した。
「お嬢さんの写真を私に下さい」
断っておくけれど、私はその人とは初対面なのである。「一度、私が住んでいる麹町の家まで来て下さい。母と一緒に歓迎しますよ」
更になんと私を自宅にまで誘ってみせたのだ。この方は薩摩のサムライで、お父様の千田貞暁さんは、東京都の楠本知事に次ぐ地位の方なのだそうだ。
「天上所(いとたかきところ)には栄光神にあれ」(ルカ伝二・一四)とか「それ今日ダビデの邑に於て汝らの為に救主うまれ給えり、是主たるキリストなり」(ルカ伝二・一〇)といった聖句が彼の注意を惹いたので、こういう語句の出典やイエス・キリストとはどんな方かについて話してあげたが、この方面のことに関しては全く無知だった。
マレイ博士とワッソン氏とウィルソン氏が一緒に来られ、ヴィーダー氏とスコット氏、それからその他大勢訪ねてきた。私たちが東京で知っている外国人は殆ど全部来たと思う。高木夫妻は四時に来て、夕方ずっといた。
やがて佐々木氏が来て、続いてハリー・ランキン氏、そしてウィリイがあちこちの訪問から帰ってきた。アンサンク氏、それからジョードン氏。しかし、ジョードン氏はすぐに帰って行ったので、後の人たちで夕食の席に着いた。
そして「やはり」というべきか、間もなく矢田部氏がやって来た。でも、余所で夕食をご馳走になってきたというのだけは驚きだった。そんな遠慮深さ<?>があるなんて。
その後、若い人たちで羽根つきをした。
佐々木氏、高木氏、ランキン氏、矢田部氏、ウィリイとおせき、それに私が加わった。
ランキン氏はこれをするのが初めてで、とても楽しんでおられた。
「羽根の飛んでくる角度からして、羽子板はこう握り、振り抜くの時は」
ランキン氏は羽子板を数学的正確さで検証し……でも、結局一つも打ち返さなかったのは滑稽だった。
あらゆる角度に振り回し、挙げ句の果てにランプをひっくり返してほやを壊した!
「火! 火が!!」
テーブル掛けに火が付き、危うく燃え上がるところだった。
「申し訳ない、本当にすみません」
ランキン氏は大変恐縮し、日本人みたいに謝ったけれど、楽しんでいる最中にやったことだから仕方がない。
高木夫妻は九時半には帰り、佐々木氏も帰ったけれど、残りの人たちは坐って、矢田部氏が今週行くという江の島について話をした。
私たちは江の島の思い出をありったけ聞かせた。弁天洞窟のこと、お坊さん、洞窟内での昼食、気持ちの良い給仕のおはる、それから橘屋旅館についての全てを。
丁度いい機会だ。そう思って私は矢田部氏が出て行って外套をお召しになる時に、私はついて行ってコーネルの襟止めだか記章だかをお返しした。
「これはクララさんに貰って頂きたかったのですが」
「いいえ、お返しします!」
これ以上の議論は無駄。そう理解している私は、さっさと矢田部氏の外套の襟にそれを止めてあげた。
すると、なんということでしょう! 矢田部氏は私の手を強引に取った挙げ句、隅の方に引っ張って行った。
「怒っていらっしゃるのですか? この贈り物に突別な意味があったわけではないんです。
自分はただ純粋で、単純で、男性的であるが故に、女性の機微に疎く……」
この後も何とかひたすら言い訳じみたことを云っていたけれど、後の事は覚えていない。
「私は何も気にしていませんが、母に内緒にするようなことがあってはいけないのです」
その場を切り抜けたい一心で、私は話を打ち切るたるにただそれだけ云った。
いくら矢田部氏でもこれで諦めるだろうと思っていたら、甘かった。
彼は再び私の手を取ると、跪いて、私の手に永遠の誓いをしようとしたのだ! なんて馬鹿馬鹿しいこと!!
私はそんな下らないことはさらりとかわした。
みんなが帰った後で、うちの家族は客間に坐り、暖炉の消えかかった残り火にあたりながら、一日の出来事を回顧した。 


1877年1月3日 水曜日 
今朝10時頃、母とわたしは、日本人の友達の何人かに新年の訪問をしに出かけた。
まず旗が華やかにはためき、竹、松、常盤木の小枝を飾った通りを通って勝家の屋敷へ向かった。どの家も、正面に、柊と神々しい竹でできた大きなアーチから、松の小枝の小さな藁束にいたるまで、何かそのようなもので飾っていた。
赤坂氷川町十番地にある勝家に着いて、まず車夫の一人に来訪を告げに行かせると、梅太郎が出てきて、私たちを呼び入れた。
客間でしばらく待っている間に、梅太郎が火鉢の火を掻き立てて暖を取ってくれた。
「新年おめでとうございます」
とても美しい着物を着て入っていらっしゃった勝夫人が仰った。お着物は地味だけれど、素材が大変優雅で、事実奥様がこんなにすばらしく装ったのは見たことがない。
それからおよねがいつもよりいい着物を着て現われ、次に勝氏がお逸と、この家の小さい男の子と女の子をぞろぞろ連れて入って来られた。
私たちはお逸としか話が出来ないから、こんな大群衆を見てまごついてしまった。しかし、なんとかうまく切り抜けて、お菓子やお茶やコーヒーをご馳走になり、快くもてなして頂いた。
およねが長い干した魚を載せた三方を戸のところに持ってきて、お辞儀をして立ち去った。これは日本の新年の習慣で「歓迎」と「時節の挨拶」を意味するのだ。
「ホイットニーさん、少しお待ち下さい」
帰ろうとしたら、勝氏がご自身で贈り物を持って来て下さった。母には綺麗な銀の香水箱と美しい瑪瑙の玉、私には同様の小さい箱と綺麗な水晶のペンダントを二つ下さった。
「そのペンダントはお守りにして身につけることもできるのですよ。ああ、それからアディさんに」
そう仰って勝氏は簪二本と、幼児用の小物入れと水晶のようにカットした綺麗なガラスの兎を渡して下さった。
私たちはほんの少ししか贈り物を持って行かなかったし、新年だからといって特別何も期待していなかったので、こんなに贈り物を頂いて驚いた!
なんだか勝氏は、うちの家族に普通の親切以上に気を遣って下さるような気がする。
その次に麻布の友人、杉田家へ行った。
そこで老先生以外の家族の全員にお目にかかった。杉田夫人は誠意をもって私たちを迎えて下さり、英語の話せる息子さんをお呼びになった。
お祖母様もいらっしゃって、各型の容器に沢山入ったキャンディーを差し上げたら、とてもお喜びになった。
その時、誰かがそれはそれはおかしな外国の婦人服を持ってきた。
「クララさん、この服をどう思われますか?」
「…………」
正直に答えていいものかどうか、私は少し躊躇った。その服は最も安物の材質で出来ていて、緑の飾り紐とガラスの管玉で、この上もなくくだらない飾り付けをしたものだったからだ。
「……実を云うと、祖父がこの服を気に入って、毎日来ているのですよ」
幕府きっての頭脳だった大学者先生が、こんな趣味の悪い服を好んで着るなんて!


1877年1月8日 月曜日 
この前日記を書いた後、横浜へ行って、ヘップバン夫人のところに泊まっていた。
横浜で生涯最良の時を過ごしていたわけではない。土曜日には少し気分が悪くて、今日帰って来る時まで治らなかった。皆さんは大変親切にして下さって、沢山招待状を頂き、よく出かけたのだけれど、正直のところ、家に帰るのがとても嬉しかった。
アニー・ブラウンのパーティーには行かなかった。というのは、もし行ったらそこに泊まらなくてはならないことになるだろうから、それが嫌だったし、また横浜に来たのはヘップバン夫人に会うためだからである。
それでヘップバン家に着くと夫人に相談をした。
「クララさん、こんな老人たちに気を遣わずに行っていらっしゃい」
夫人はそうお勧めになったけれども、行かないことにした。夫人の口癖の「老人たち」のところに私がいたがったのをお喜びになったのは明らかである。
今日の夕方、江の島から帰ったばかりの矢田部氏が見えた……らしい。というのは、私は疲れていて早く寝てしまっていて、会えなかったからだ。
江の島のお土産に貝細工を持って来て下さったのだけれど、初めて見るものだったら、とても綺麗だと思ったことだろう。だけど、残念ながら、私は既に見ているのだ!


1877年1月10日 水曜日 
矢田部氏は今晩もまた来訪した。
一緒に祈祷会に行くつもりで、三時に来たのだけれど、結局午後十時頃までいたのだから、それは口実に過ぎなかったのだろう。
矢田部氏は長居する癖がある。だけど、日本人の間では確かに偉い人なのだ。そんなに偉い人が何故そんなに長居する時間があるのかは分からないけれど。


1877年1月11日 木曜日 
横浜から帰宅して毎日、ユニオン・チャペルで行なわれた「祈祷週間」と祈祷会に出席していた。
今はとてもいい気候で、毎日太陽が明るく輝き、空気は春の優しい息吹きのように柔らかだ。去年とはまったく違う。去年の冬は二、三フィートも雪が積もったのに、今年は数インチの雪が一回降っただけだ。
今日母はとても気分が悪く、私には返事を書かなくてはならない手紙が山のようにあるので、チャペルでの礼拝には出席できそうにもない。汽船が明後日の日の出時に出航するのだ。


1877年1月12日 金曜日
うちに来る少女たちへの関心はますます高まる一方だ。
おやおさんは優雅な若い婦人に成長していくし、お逸は友達として、まったく素晴らしい。今日、授業の後、皆で坐って物語を語った。私は「美女と野獣」と「シンデレラ」を、お逸は日本語で「舌切り雀」と「悪童」を話した。
この少年は、仏にお菓子を供えるのが仕事の小坊主だったのだけれど、ある日お供えをしないで、自分で食べてしまった! 年取ったお坊さんが、小坊主を<木製の>仏像の前に連れて行って聞いた。
「さあ! おまえ、この仏様にお供えしたお菓子を食べただろう!」
小坊主か「いいえ」と答えると、たちまち口が大きくなった。それで彼は切り刻まれ、煮られてお供え物にされてしまったという! なんというスプラッタ!
「この次にもっと沢山話をしてあげる。お化け洋館の人影とか、空に何か大きな糸みたいなものが見える話、とかね」
お逸は楽しそうにそう云ってくれた。


1877年1月18日 木曜日 
仕事がどっと押し寄せて「日記」が書けなくなってしまうというのも奇妙な話だけれど、まったくその通りなのだ。
毎日次々と何かで一杯なので、時は矢のように飛んでゆく。
昨日は雪が降っていたから、日記を書けば書けたかもしれないのに、午後はアリスとニコルズ夫人に手紙を書いて過ごしてしまった。
お逸は毎日勉強に来る。おやおさんは進歩しているが、おすみはそれほどでもない。
「わ、わたしの事なんてどうだっていいんです! おやお様さえ進歩すれば!」
月曜日に、ミス・ギューリックからお尋ねがあった。
「大鳥家のお嬢さんがミス・ヤングマンの学校をやめて、ホイットニーさんの家での勉強会に来たいと云っているのですが、如何でしょう?」
突然そんな事を云われても、彼女らはミス・ヤングマンの一番よくできる生徒だ。それにそもそもうちは正規の学校はやっていない。ということで、残念ながらお引き受けすることはできないことをお伝えした。
火曜日に、大鳥家のお宅に寄って、とても親切にして頂いたが、この件については何も云わなかった。
それから富田家に行ったら、二人ともご在宅だったけれど、奥様は病気で寝ておられ、とても具合が悪そうだった。ご主人は書き物をしていらっしゃって、私たち以外の人には、使用人に留守だと云わせているそうだ!
芝を通って帰宅したが、途中で閻魔という悪魔の大きな祭りがあった。
母はトルー夫人に会いに寄り、私は家に帰って、招待されている滝村氏に持って行くためにケーキを作った。夕食後、母から、トルー夫人のところで食事をするという伝言があったので、後のみんなで夕食を囲んで楽しい夕方を過ごした。
中原氏が公卿のお嬢さんと結婚して、今日横浜へ引っ越す。勤めていた財務関係の役所が解体したので、米穀業を始めるのだそうだ。


1877年1月19日 金曜日
今日、滝村氏のお宅に招かれ、早めに来るように云われていたので、二時に家を出た。
滝村氏のお宅は永田町で、勝家の近くにある。内部は大して広くはないけれど、とても清潔できちんとしている。外見は古い大名屋敷に新しい玄関をくっつけたような感じだ。
滝村氏ご自身が、お子さん方と使用人たちと一緒に、外で出迎えて下さったけれど、近所の子供たちも興味深げに集まっていた。
着いた時のざわめきが過ぎ、靴を柔らかい室内履きに履き替えて、六段か七段の、梯子のような階段を上って、二階の教室のようなところに案内された。
私たちはとても厳かに<自分たちの大きさに合わせて>テーブルの周りに坐ったけれど、母が上座を占めた。
それから家族がやって来て紹介された。
滝村夫人は綺麗な方で――本当に<日本の既婚婦人にしては>格別美しい方で、お嬢さんのこまつにとてもよく似ていらっしゃった。
お祖母様、つまり滝村氏のお母様がいらっしゃって、お辞儀をなさり、大変丁寧な言葉遣いで口早にお話しなさった。
多分六十五か七十歳くらいでいらっしゃるだろう。とても美しい方で、雪のように白い髪は、これ以上考えられないほど巧みな小さなお下げにして後ろで纏めてあった。
きらきらした黒い目は非常に大きくて、丸い慈愛に満ちたお顔には、大変知的な表情が浮かんでいた。
五人のお子さんは、こまつ嬢、坊ちゃんの武夫、すみとおはた、それに男の赤ちゃんで、赤ちゃんは私たちを見て泣いた。


家族の方々のもてなし方はまったく上品だったし、勝家の子供達もいたので、とても気楽だった。間もなくみんなは「狩人貴族と召使」遊びに熱中し、三角の「賞品の包み」を取ろうと競い合った。
一等賞を取ったのは母だった。開けてみたら、厳かな顔をした人形と呼び子が入っていた。賞品は勿論みんな玩具だけれど、綺麗で風変わりで、とても愉快だった。遊びを何回も重ねて、とうとうテーブルの上は紙切れと、ありとあらゆる遊び道具で一杯になった。
最も滑稽だったのは「おかめ」遊びで、競技者の前に広げられた「幸福な顔」は輪郭だけが描かれ、おかめの目、眉、鼻、口はバラバラに切り離されている。
一人が目隠しをされて、その顔の上に、バラバラの切れ端を正しい位置に置こうと努めるのだけれど、なかなか上手くいかない。
全部済むと目隠しのハンカチを外し、みんなはその滑稽な顔を見てどっと笑い出す。
時には口が頬に行ったり、鼻が曲がっていたり、目が逆さまになっていたりする。どんなにおかしいかは想像では分からないくらいだ。
私たちを楽しませて下さるために持って来た遊びは数え切れないほどだったけれど、みんなとても面白かったとだけ云っておこう。
夕食は本物の日本料理で、食器も大変優美だった。
夕食後はゲームをしたり、話をしたり、影絵遊びをしたり、お逸の月琴の演奏を聞いたりした。最後にお逸と私は火鉢のそばに坐り込んで、二人だけで楽しく話をした。
「あら、クララ。貴女も8月生まれなのね。わたしは3日なんだけど」
「わたしは8月の30日」
「じゃあ、わたしの方が少しだけお姉さんだ」
少し誇らしげにお逸が云う。
「それじゃあ、今度の十七歳の誕生日会は一緒にしましょうよ」
夕方の六時にお土産を一杯頂き、挨拶を沢山受けて、親切な友達の家を出た。